第9話 馬車の秘密
外壁が白い漆喰で塗られ、所々に黒い木組みが見えているこの爽やかな建物がザ・スワン・アンド・ウィローだった。
簡素で気持ちの良い部屋の窓からは川辺の静かな景観を楽しむことができた。ぽつぽつと降る雨も居心地の良さに一役買っているように思われた。
我々はこの部屋で濃い紅茶で一服したのち再び夜の町へ出た。この素晴らしい宿を選んだのはワインだけが目当てではなかったようで、次に目指すべき二件目の葬儀屋は徒歩圏内にあった。
その葬儀屋というのは灰色の石造りの二階建てで、一階が店舗、二階が恐らく住居だと思われるが、先ほど訪れた葬儀屋と比べるといくらか庶民的だった。木製の看板に金文字で『ブラント葬儀社』と名前が出ている。
「はて、厩舎小屋は裏手かな?」
「どうだろう。……ああ、恐らくあれがそうだろうね」私は葬儀屋と繋がっている小屋を指していった。
「この造りじゃあ、小屋に忍び込む前にばれてしまいそうだな」
「普通に入店して、見せてもらうよう頼むんじゃだめなのかい?」
「可能であれば、先に厩舎小屋を見ておきたかったのだが、まあ仕方あるまいね」ハーデットは肩をすくめて言った。
「先に? それはどうして?」
「最も重要と思われるからさ」
「はあ、そういうものかね」
「確かに危うさはある。しかし僕は長年の鍛錬によって、思い込みや先入観を取り払う術を心得ている。そのうえで重要と思しき要素を優先するのが、最も道理にかなった捜査法なのだよ」
厩舎小屋へのうまい潜入通路を見つけられなかった我々はおとなしく木製の扉をくぐった。ガス灯の控えめな灯りに包まれた店内はさほど広くなく、入口正面に小さなカウンターがあり、そのほか部屋の片隅に応接用の机と椅子、木製の棺の見本がいくつかあるだけだった。恐らくはこの棺の見本から漂う木の香りと、そして正体不明の消毒薬のようなにおいの混ざった独特な空間だった。
カウンターで何か作業をしていた四十代と見られる男は、我々が入ってきたの見ててぎょっとしたような様子を見せたので、私も思わず身構えてしまった。
「こんばんは。まだ間に合いますでしょうか?」
何をそんなに神経を尖らせていたのかは不明だが、ハーデットの柔らかい声で落ち着きを取り戻したらしく、短いため息とともに肩の力を抜いていた。
「ええ、なにも問題ございませんよ。どうぞお入りください」
片隅の椅子に座るよう手で促したこの男はひょろりと背が高く、また手足も長いため、ほとんど動かずに部屋中の棚に書類なんかを戻したが、その姿にはどことなく蜘蛛のような印象を抱いた。
椅子に腰を落ち着かせ、店内をぐるりと見渡し終わったころに男も向かい側に座った。
「お待たせいたしました。店主のトマス・ブラントでございます」
先ほどの葬儀屋でもやったように、ハーデットの叔父が危篤状態といって相談を持ち掛けた。
「叔父は霊柩車にこだわりのある男でしたので、まずはそこを拝見したいのですよ」ハーデットの声色は、困った人でしょう、という含意をうまく滲ませていた。
「もちろんですとも。では何よりもまず、厩舎小屋にいらしていただくのが良いでしょう」
ブラントの案内で店の奥に進むと、そこは作業場になっていた。木屑の匂いが漂い、棺の制作に用いられる器具や木材が整然と並んでいる。
そしてその作業場を通り抜けて外へ出たところに厩舎小屋はあった。そこは一見すればどこにでもある木造の建屋にすぎなかったが、鼻を刺す干し草の香りと、規則正しく整えられた馬具の数々が、営みの確かさを物語っていた。
二頭の黒馬が、磨き抜かれた皮革の手綱を首にかけたまま、じっとこちらを見ている。壁際には霊柩車の黒い車体が、まるで次の務めを静かに待つかのように沈黙していた。その側面には過度な装飾こそないものの、堅牢な造りと品のある艶が見て取れる。
ふと横を見ると、ハーデットの視線は、馭者席の上に突き出た奇妙な意匠に釘付けになっていた。よく見れば、それは装飾ではなくランタンを支える支柱である。その実用的な部材が、あたかも意匠の一部として自然に溶け込んでいるのであった。
「こちらの霊柩車は、余計な飾り立てをせず、むしろその質実さにこそ誇りを置いております。黒檀を思わせる塗装は年月を経ても艶を失わず、重厚な木枠は雨にも寒気にもびくともしません。まさに、ご親族の威厳を損なうことなき最後の道行きを保証するものでございます」
「これこそ、求めていたものです」ハーデットは満足そうに笑った。「馬車の確認さえできてしまえば、あとのことはブラントさんにお任せしても良いぐらいなのです」
「それはそれは。私共と致しましても光栄の限りでございます」
「しかしですね、もう一軒、訪ね残したところがあるのです」
「ああ、それでしたらウーリッジ・アンド・サンズでしょうね」
「いいえ、そこは既に済ませています」
「と言いますと、まさか『クロウダー葬儀店』でございますか? あの店に弊社の馬車が劣るとは……」
「そうなんですが、これも叔父の意向なんですよ。とはいえ、私もこちらの葬儀屋に決めるつもりではおります。すぐに済ませますから、クロウダー葬儀店の住所を教えてはもらえませんか?」
ブラントはハーデットが懐から取り出した紙とペンを受け取ると、それに書き加えて返した。
「どうもありがとう。それでは、また近いうちに」
ブラント葬儀社をあとにすると、ほとんど雨はあがっていた。
「葬儀屋というのは、どのぐらい遅くまでやっているのだろうか」私は懐中時計を取り出した。「もう十八時を回っているけれど、まだ間に合うだろうかね」
ハーデットは唇の端をわずかに歪め、私の顔をじっと眺めていた。その眼差しには、私の言葉をからかいたい衝動をどうにか抑え込んでいるように見えた。
「僕らに残された急務は、上等なステーキとキドニー・パイにありつくことだよ」
「えっ! でも、急げば間に合うかもしれないじゃないか」
「もうひとつの葬儀屋には行かないよ。行かずとも、この事件は今晩中に解決するからね」