第8話 死者賭博
仄かに乾いた香りとともに、温かな空気が迎えた。それをゆっくり吸い込むと、自然と肩の力が抜けた。
「いらっしゃいませ」
扉をくぐった我々を出迎えてくれた紳士は、黒の喪服に身を包み、しわひとつないシャツと、鈍い光を帯びたシルクハットをきっちりと着用していた。声は抑制され、姿勢は柔らかく、まさしく葬送の職に相応しい節度と気品を備えていた。
「こんばんは。実はちょっと相談したいことがありましてね」ハーデットは自然な調子で口を開いた。「というのも、私の叔父がいま危篤でして。念のため、あらかじめ諸々の手配だけでも進めておいてくれと頼まれたのです」
紳士は顔色一つ変えぬまま、深くうなずいた。「では、こちらへどうぞ」その所作には、死と隣り合わせの場を預かる者としての静かな矜持があった。
間接照明の柔らかな灯りが、静けさと温もりに満ちた空気を館内に与えていた。床には深緑の厚手の絨毯が敷かれ、壁には乳白色のダマスク模様が上品に浮かんでいる。家具はすべて重厚な樫材で揃えられており、奥の壁には夜空を描いた風景画が穏やかに場の雰囲気を引き締めていた。
その中央の卓上、浅皿にそっと置かれたドライフラワーからは、かすかに甘く華やかな香りが立ちのぼっていた。私には身分不相応な格式高い空間であるにも関わらず、静かな安らぎを感じることができた。
こういった精緻な上品さというのを、我々が通された応接間も同様に湛えていた。外套を脱いで、私とハーデットは横並びに、机を挟んだ向かい側に葬儀屋の紳士が座った。
「ようこそお越しくださいました。私はこの店を営んでおります、チャールズ・ウーリッジと申します」
その声音と態度には、年齢に不釣り合いなほどの威厳が漂っていた。三十代半ばに達したかどうかという若さでありながら、私は思わず居ずまいを正したほどである。
「今冬は例年になく冷え込みが厳しく、体調を崩される方も多うございます。こういう折は、黒一色の布地よりも、やや厚手で温かみのある織りを選ばれる方が増えるのですよ」柔和に語りながら、彼は机の引き出しから高級感のある見本帳を取り出した。
「こちらが布地と装飾の見本でございます。季節や式場の雰囲気に合わせてお選びいただけます」そういって見本帳を繰って見せてくれたが、その手さばきが実に見事で、こういった所作にも一流の仕事ぶりが現れるのだなと深く感心した。
「あっ!」
突然、ハーデットが手を叩いて叫んだので、私は思わず眉根を寄せて彼のほうを見た。そして、こんな立派な紳士の前で恥をかかさないでくれと願った。
「そうだ、あやうく忘れるところだった。すみません、つかぬことをお伺いしますが……というのも、じつは私と彼とで、この一週間に亡くなった人物がいるか否か、というので意見が分かれましてね。私はここのところ凍えるような寒さが続いているから、死者はいるはずだという立場を取っているのですが、あまりに白熱してしまったので、こうなったら賭けようじゃないかという話になったのです。別に死者を使って賭けをしようと思っていたわけではなく、成行きだったということだけはお分かりいただきたいのですが……」
「左様でございますか」ウーリッジは笑った。「それでは調べて参りますので、しばらくお待ちください」
死者への冒涜であると叱責される心配は無用だったようで、ウーリッジは気を悪くした様子もなく調べものをしに部屋を出ていった。
「いったい君はどういうつもりだい? そんな賭けをした記憶はないのだがね」
「まあまあ、ちょっと待ちたまえ。ここを出たら教えようじゃないか」
ほどなくして戻ってきたウーリッジの話によれば、直近の一週間以内で、この地域には死者はいなかった。
「い、いない? それは本当に?」
「はい、本当でございます」
なぜハーデットがこの質問をしたのか、今ようやく理解した。
死人も出ていないのに、なぜ霊柩馬車が目撃されたのか。
彼はこうなる可能性が捨てきれないと踏んで一芝居うったのだろう。
「ふん!」ハーデットは紙幣を乱暴に私へ投げて寄越して「なんだか今日はもう話をする気分じゃあないな。また後日くることにしよう」そう言って外套をひっつかみ、部屋をあとにした。ウーリッジに一言詫びた私も慌てて彼に続いた。
建物を出ると、ハーデットの傘が見えたので小走りで追いかけた。
「さあ、どういうことか教えてくれたまえよ」私は少し息切れがするのを抑えながら、追い付いたハーデットの背中に投げかけた。
「いいとも」彼は立ち止まって振り返った。「君はあの、見本帳をめくるときの手さばきを見たかい? あれは仕事で身についた技術なんかではなく、毎夜トランプを戦わせることで染みついてしまった、一種の癖のようなものなんだよ」
「手さばきに感心したのは確かだが、それが賭博癖からきているとはすこしも思わなかったな」
「君たちも難なく見抜くようになったら、僕は職業を改めなければなるまいね。とにかく、ああいった賭博癖のある者から情報を得るのであれば、さっき僕がやったようにするのが一番なのさ。おっと、ちょうど良い」ハーデットが手をあげて辻馬車を拾った。「エヴァンス君、今日は泊まりになっても構わないだろうね?」
「ああ、私は問題ないよ」
「そう言ってくれると思ったよ。では馭者君、『ザ・スワン・アンド・ウィロー』まで頼む」
ハーデットが言うと、馬車は泥跳ねを抑えるようゆったり出発した。
「この宿屋はね、ご主人の趣味が高じてワインの品ぞろえが豊富なので、田舎の空気とワインを楽しみたい旅行者がよく利用しているんだ」
「それは知らなかったが、まさかワインが飲みたいので宿泊をするというのかい?」
「違うよ、ワインはおまけさ。僕はこの事件を今晩のうちに片づけてしまうつもりだから、夜が遅くなっても良いように、念のためだ」