第6話 月下の白影
やがて簡素な石積みの囲いが輪郭を帯びてきた。囲いの向こうには、数頭の羊が、雨に濡れた牧草の上で身を寄せ合うようにして草を食んでいた。
その丘の一角、傾斜の尽きるあたりに、木造の小屋が静かに建っていた。それは平屋建てで、壁は風雨にさらされた粗い木材、屋根は黒ずんだ藁ぶきという仕様だった。煙突からは細く頼りない煙が、漂うように空へと昇っていた。
近くを流れる小川が、この雨で水流を増しているらしく、勢いのよい水の音がかすかに聞こえる。
我々が小屋に近づくと、馬車のなかで待機していたレジナルドが合流した。
ぬかるんだ部分に足を取られぬよう細心の注意を払いつつ三人で小屋の前へたどり着くとレジナルドが木製の扉を叩いた。
すぐに男が出てきた。まだ四十前とは思うが、焼けた肌は粗く、皺も深い。ニット帽、コーデュロイの上着に膝の破れたズボンはどれも長年の愛用品であることがわかった。
「ハーデットさん、こちらがジャド・スレイドで、我々の放牧地を管理している男であり、例の事件の目撃者です。スレイド君、ハーデットさんは警察の協力者だから、知っていることは何でも、包み隠さず話したまえ」
「もちろんでさ。どうぞ家ん中へ入ってください」
扉を押し開けると、湿った木の軋む音が微かに響き、我々はすぐにその質素な一間へと足を踏み入れた。
石造りの暖炉が部屋の隅に鎮座しており、煤けた縁には時の蓄積が黒くこびりついていた。そのそばには、わら束を積んだだけの寝台があり、隣には節の目立つ木の机がぽつんと置かれている。
壁には、使い込まれた杖、擦り切れた皮の鞄、油の染みたランタン、それに毛刈り用の鋏が丁寧に吊るされていた。
天井からは乾いた干し肉の束が吊られ、机の上には硬そうなパンの塊と切りかけのチーズ、口を開けたビール瓶が無造作に置かれている。
室内には、燻された煙の香りと羊毛の脂のにおい、それに泥土の湿り気が混ざった独特の空気が漂っていた。それは鼻をつくような不快なものではないが、明らかに文明からは隔てられた生活の気配だった。
二脚のみ用意された手製と思われる椅子は私とハーデットに勧められ、レジナルドは扉付近に立ちスレイドはベッドに腰かけた。
「昨晩のことを忘れようったって無理な話で、この陰気な雨のせいもあってか、一日中これを考えていますから、私としても誰かに話せたほうが楽なぐらいなんです」スレイドはコップの水で口を湿らせてから続けた。「昨晩というか、厳密にいえば日付が今日に変わってすぐの頃だったかと思いますが、羊がいつもより騒がしいような気がしたもんで、念のため見回りにいったんです。近頃は羊泥棒の話が出ていないから、もし私が羊泥棒だったら仕事をするには絶好の時期だなあというので、よりいっそう警戒するようにしているんです。
まあそれは良いとして、月の明るい夜でしたが、石垣に沿うように歩いていると、あんな深い時間にも関わらず黒い怪しい馬車の停まっているのを見ました。眠気が一気に飛びましたよ。念のため持ってきておいた鋏を握りしめて、馬車のほうに速足で向かいました。
近づくにつれて、馭者席に男が座っているのがわかりましたので、私はソイツ目掛けて声をあげようと大きく息を吸ったときに、ふと、邸宅の生垣の木の間から、白い影がすっと現れました。そしてその白い影がこちらのほう目掛けて駆けてきますから、私は、正直に申して少し後ずさってしまいました。あんな光景を見たら、いくら肝の太い男だってそうしたはずです。
かといって私も逃げるような男じゃございませんから、じっとこらえて何事かと見ていると、どんどん近づいてきたその白い影が、なんと婦人の花嫁姿なのがわかりました。
それがわかる距離まできたときには、その花嫁は馬車に乗り込んで、そして消えてしまいやした。何で消えたのがわかったかというと、その馬車はちょうど霊柩車がそうであるように、硝子張りの側壁になっていたんです。
そんなんで花嫁が消えたのがわかった私はびっくりして、ちょうど馬にひと鞭いれる瞬間の馭者のほうを見ると、最初に見たときは気が付かなかったんですが、その馭者は首から上がありませんでした」スレイドは生唾を飲み込んで、「そうして馬車は声が出ない私を置いて墓地のほうへ走り去って行った、というのが私の見た全部です」
嘘をついているようには見えなかった。暖炉で火が燃えているとはいえ薄ら寒い小屋のなかで、額に汗を浮かべながらしゃべっている彼の姿には相当の説得力があった。
「ありがとうございます。ひとつ伺いたいのですが、新聞では首なし騎士となっていましてね、その馭者はどんな鎧をまとっていましたか?」
「鎧? いやいや、全身が黒かったので何を着ていたかまではわかりませんが、鎧なんかじゃあなかったですよ」