第5話 寝台の空白
続いて、ハーデットは棚に目を移すと、並んだ帳簿の背表紙を指でなぞりながら一冊を抜き取った。手にしたそれを繰ってレジナルドに尋ねた。
「資産の管理は妹さんが?」
この質問から、ハーデットが手に取ったのはこの家の帳簿ということがわかったが、幸いレジナルドは多少うろたえただけで怒った様子は見せなかった。
「そうですが」
「最近の日付も記されているようですが、精神錯乱の状態で帳簿をつけるというのは、いささか難儀ではありませんか?」
レジナルドは一瞬だけ言葉を探し、ようやく思い出したように答えた。
「最近は使用人の一人が手伝っていたようですが、詳細は私には……」
「そうですか」
ハーデットはそれ以上なにも言わず、帳簿のページを手際よく繰りながら内容をひととおり目で追った。そして何か確かめるようにわずかに頷くと、それを元の棚に戻した。
「さて、問題はここなんだがね」ハーデットは振り返ってベッドの前に立ち、「この部屋は失踪時のままになっているのでしたよね?」
「ええ、そうです」
「それではやはり、ベッドシーツがないことの説明をつけなければいけませんね」
人からの指摘によって、本来はあるべきものが無いことに気が付いた瞬間というのは、妙な感覚をおぼえるものであった。
確かに他のものは綺麗に整えられているのに、ベッドシーツだけが無かった。もしかしたらクラリッサはこの部屋で誘拐されてしまい、そのときに犯人がベッドシーツを使用したのだろうか。
窓にしたたる雨粒ごしに外を見やって考え事をしているのかと思ったが、どうやらその視線はバルコニーに向いているようで、何かをじっと観察していた。
私も彼の横に立って真似てみると、広々としたバルコニーは隣の部屋とは繋がっていない独立型で、手すり部分の下には金属の装飾が施されているため、そこからも外を見ることができる開放的なデザインだった。
「すまないがエヴァンス君、きみはレジナルド氏のそばにいてくれないか」ハーデットがこちらを見ずに言葉だけで私を促したのには少々おどろいたが、私は素直に従った。
私がレジナルドのほうへ戻って振り向くと、ちょうどハーデットがバルコニーへ出るところだった。窓の付近はひさしが雨を防いでくれているとはいえ、彼なら濡れるのも構わずに捜査をしそうだと思ったが、ひさしの中から観察するだけでめぼしいものは無いと判断したのか、そのまま濡れずに戻ってきた。
「クラリッサさんのお部屋はこのぐらいで良いかと思います。もしよろしければ、この部屋を外から見てみたいのですが」
「ええ、構いませんよ。ご案内いたします」
我々三人は傘をさしてクラリッサの部屋のバルコニーの真下へと足を運んだ。足場は雨で荒れ果てている。気を付けて歩いていても新品の黒ブーツに泥汚れが付着した。
バルコニー付近には、特に何かがあるわけではなかった。生垣として木々が立ち並んではいるが、バルコニーから乗り移るのは距離的に不可能だ。
バルコニーの手すりの下部には装飾として突起はあるが、これを足場にしたとしても木には届かないであろうし、飛び降りるにも高さがありすぎる。
「この雨のせいで何も残っちゃいないね」期待はずれだったのか、ハーデットが残念そうに言った。
「どうでしょう、解決の目途はつきそうでしょうか?」レジナルドが心配そうにハーデットに聞いた。
「現状では材料が足らず何とも申し上げられません。しかしながら、やはり例の首なし騎士の目撃情報があった現場を捜査したいのですが、手配いただけませんでしょうか?」
「わかりました。それは容易いことです。というのも実は、目撃したというのが、私たちの放牧地を管理している男なのです。彼に話を聞きに行きましょう。木々の隙間からかすかに小屋が見えると思いますが、あそこに彼はおりますので、すぐに馬車を用意させます」
「それは好都合です。ただ私とエヴァンス君は歩いて伺おうと思いますから、どうぞレジナルドさんは先に馬車で向かわれてください。あとから追い付きます」
菜の花やカモミールに挟まれた砂利道を歩くと、かすかな花の香りに覆いかぶさるように、濡れた草の陰気なにおいが立ち込めた。雨音と砂利の音のほかには何も聞こえない静かな田舎道を進むが、風が穏やかなのが幸いして、不愉快なまでに足元を濡らすことは避けられた。
「この事件は、最初に想像していたよりも面白い方向に進んでいるよ」まっすぐ前を見ながらハーデットが言った。
「面白い、とは?」
「珍しいと言ってもいいし、難しいと言ってもいいね。つまりは解決しがいがあるということさ」
「じゃあ、単なる令嬢の家出などとは考えていないのだね」
「考えていないよ。家出なら、もっと部屋が閑散としていなければならないからね」