幕間 最悪な空模様
「……!」
ルキウスはその直感から机から立ち上がった。
授業中だった為、彼の行動はとてもよく目立った。教師もクラスメイトも彼を驚いた眼で見て、特に教師は目を瞬かせ咳払いして、突然不可解な行動を取った彼に質問した。
「ルキウス君、どうしたのかね、早く席に……」
「すみません。今日は早退します」
「……はい?」
驚く教師とクラスメイトの前で、ルキウスは荷物をまとめると教室から足早に立ち去った。
去り際に困惑する教師に。
「家族を助けに行かないといけないので」
それだけを告げ、扉を閉めた。
教室から出るとルキウスは、駆け出し経営科の校舎に向かった。その表情は険しく、厳しい。
「…………クソッ」
ルキウスは直感で、ミアリーの反応が学園からどんどん遠ざかっていくのを感じていた。そして、彼女の反応がどんどん弱くなっていくのも……確実に彼女の身に何かが起こっている。そんな最悪な予感がしていた。
確かに、今日聖女戴冠式があることはルキウスも把握していた。
だが、それはあくまで教会側の話だと片付けてしまったのが悪かった。ロザリンデという最高の隠れ蓑もあり、ミアリーに累が及ぶことは無いと思って、だが、軽率だった。
何処にだって何時にだって自分達の日常を脅かす存在はいるというのに。
ルキウスは経営科の校舎に駆け込む。すると、目の前から見慣れた顔が走って来ていた。
「兄弟!」
彼もまた何か感じたのだろう息を切らし走ってきた兄弟に、ルキウスは端的に告げた。
「行くぞ」
それに彼もまた頷いた。
一方、その頃。
ロザリンデは薄暗い控え室の化粧台の前で俯いていた。
聖女らしい金の刺繍がふんだんに使われた真っ白な僧衣でも隠せないほど、そのロザリンデの顔は青く酷くやつれていた。
「あ。あぁ、ああ……」
ロザリンデは震える手先を握りしめながら、恐怖と戦っていた。
聖女なんてやりたくない。そもそも自分は聖女ではない。昨日のあれは絶対に幻だ。ロザリンデは心の底から思っていた。だというのに……。
不意に彼女は恐る恐る化粧台の鏡を見る。
そこに映った自分の首元には……刃物が当てられていた。
「ひっ!」
ロザリンデは悲鳴を上げ、床に崩れ落ちる。
だが、崩れ落ちた彼女のその首に刃物などない。真っ白なフードがあるだけである。しかし、彼女は本気で自分の首に刃物があると思い、怯え震え上がった。
彼女はそんな幻覚が見えてしまうほど、追い詰められていた。
そんな時だった。
「ロザリンデ様……いらっしゃいますか」
聞き馴染みのある利発そうな少女の声とともに控え室の扉がノックされる。
ハッとなってロザリンデが顔をあげると、扉の向こうから2人の少女が入ってきた。
ポニーテールの少女と、緑色のカチューシャの少女。
ロザリンデの友人の1人、ミレーユ・アルツァと……ロザリンデをこんな目に遭わせた元凶であるレティシア・フィルベルム、その2人だった。
ミレーユは控え室に入り、床にへたり込むロザリンデを見つけると、目を見張った。
「ロザリンデ様!?」
ミレーユはあまりにも酷い顔の彼女に青ざめ駆け寄った。
「なんてこと……! こんなにやつれて……」
「ミレーユ……あなた、どうして……。教会の人間以外は、ここに来れないのに……」
「アルツァ家は国家の法務を担うだけでなく、他国や教会との法に関する交渉も担当しますから、実は顔が広いのです。
ですので、国内外から協力者を募り、彼らの手を借りて、ここに来れたのです。
ロザリンデ様。リンヅラン公爵から……ロザリンデのお父様から伝言がございます」
「お父様から……」
「『もし苦しいならば、私は貴女の帰宅を待っている』と……」
「…………!!」
その言葉に、ロザリンデは涙した。
追い詰められている彼女にとって、その言葉はまるで光だった。
彼女の父親の言葉の意味……それは、逃げていい、という意味と同じだ。
ロザリンデは泣き崩れた。
「お父様……あぁぁ……」
「ロザリンデ様……」
ミレーユは想像以上に衰弱している彼女を見て、表情を曇らせる。
この部屋の外ではさもロザリンデが神に選ばれ自ら聖女になったかのように語られているが、ロザリンデに近しい人間ならば、それが如何に彼女らしくないか直ぐに分かる。
ミレーユは泣き崩れるロザリンデを抱きしめた。
「帰りましょう。ロザリンデ様。逃走路は既に確保しています」
「本当に? ミレーユ……」
「はい。友人の為ですもの。このくらいはしますわ」
はっきりと告げられた友人という言葉に、ロザリンデはまた涙する。自分の為にこんな場所まで来て、逃げる道まで作って、体を張ってくれた彼女の気概と優しさがロザリンデにはとても嬉しかった。ミレーユの体を抱きしめ返し、ロザリンデは声を上げて泣いた。
だが。
「え? ってことはつまり、聖女にならないんですか?」
水を差すようにその声は聞こえた。
ミレーユとロザリンデが顔を上げると、そこには不満そうな顔で立つレティシアがいた。
「それは困りますわ! というか、ミレーユ様、話が違いますわ! 私は貴女がただロザリンデ様にとても会いたいというから、手を貸したのですよ?
なのに、伯爵家如きが聖女になられるロザリンデ様になんてことを!
聖シンエ教会ガレストロニア支部に最も貢献し献金している我が家だからこそ、ここまで案内できたというのに!
恥を知りなさい!」
まるで自分が正義だと言わんばかりの顔でレティシアはミレーユを糾弾する。
だが、その顔はとても醜かった。取らぬ狸の皮算用を何度もしてきた下心丸出しの顔だ。
ミレーユは内心彼女に失望した。
そのレティシアの顔は、友人のロザリンデが聖女であることを笠にして、好き勝手したくてたまらないようだった。
実際、そんなことは出来ないというのに。聖女の友人を自称しているだけの女に騙されるほど、この国の人間はそこまで馬鹿では無い。
もちろんロザリンデがレティシアを贔屓すれば話が違うだろうが……ミレーユは既にわかっている。それもまた絶対に起こらないことを。
何故なら、そのロザリンデは今、涙で濡らした目のまま、レティシアを睨みつけていた。
「黙って下さらないかしら。不愉快ですわ! 貴女の全てが」
「ロ、ロザリンデ様っ……? ひっ……!」
げっそりとやつれたロザリンデがふらつきながら立ち上がる。顔も青くやつれた彼女まるでおぞましい幽鬼のようで……レティシアは悲鳴を上げた。
そんなレティシアにロザリンデは詰め寄っていく。
「貴女のせいよ! 貴女のその馬鹿な思惑のせいで!
私は! 自分の命も危うい状況にいるの!
偽物の聖女になれと脅されて、もし拒否すれば私は殺されてしまう! そんな状況にいるの!」
「え、えっ……でも、貴女は本物……の……」
「貴女の脳みそが腐ってるからそう見えたのではなくて? 貴女は元から都合のいいものしか見えない女性でしたし。
……そう、最初から知っていたのよ、私は。貴女もアイリーンやモニカと同じ、ただ私の権力のおこぼれを狙っている浅ましい馬鹿な令嬢だと」
「なっ……!」
「でも、私は、自分の将来の為、育ててくれたお父様やお母様の為、我慢して貴女達を友人として受け入れたわ。
……間違っていたわ。きっちりと友人は選ぶべきだった。質の悪い人間といると、私まで不幸な目に遭う。
その最たるものがこれよ!」
「……っ」
「全部台無しよ! 本当に台無し!こんな思いをする為に、私は、私は……」
その時、ロザリンデはつい漏らしてしまった。
自身の最大の秘密を。
命を狙われ恐怖に晒され追い詰められた彼女はそれほどまでに、今、追い込まれていた。
「こんな思いをする為に、私は、転生したんじゃないの!」




