幕間 女達の空回り
数時間前。
マチルダ達はその時、校舎裏にある人気のないトイレにいた。
インクで汚れた服をどうにかする為だ。とはいえ、この程度の汚れ、魔法を使えば一瞬で消える。
問題は、プライドをズタズタにされた精神の方だった。
「あいつ、なんなのよ。記憶ソーシツだか何だか知らないけど、キャラ変わりすぎじゃない? ムカつく!」
「これだったら前の方がまだマシだった。わざとらしくメソメソして男に泣きつきに行くだけだったのに」
「しかも、シルヴァリオ男爵に相談するって……どうしよう。あんな恐ろしい人に目をつけられたら……家族も……」
「このままじゃ私達、どんどんヤバいことにならない? ただでさえ、あの人に逆らえないのにさぁ……」
そこで4人は俯いてしまった。
その顔には何故こうなったのか、という後悔が滲んでいた。
「こんなことなら引き受けるんじゃなかった……」
「同感。同じクラスだったら誰でも良かったみたいだし……。お小遣い稼ぎにもならないのに……」
「私んち、あの人の家にお世話になっているからさ……元から断るなんて無理だったよ……どうしよう」
「ていうか、あの方の目的なんなの!? 私達に虐めさせるだけさせてさ。アイツをどうしたいの!?」
「分からないわよ……あの方のお考えなんて……」
4人が一斉にため息を吐く。
憂鬱な空気が、その場を支配し、心だけでなく体まで重くなるようだった。
「教室に帰るの嫌だな。絶対アイツがいるじゃん」
「もう絡みたくないよ……今のアイツに関わるの正直めんどくさい……」
「今日はサボろう! もう疲れたよ!」
「そうね……どうせ私達進級出来ないし……勉強なんかする意味も……」
その時だった。
「あら、ここにいましたのね」
その聞き慣れた、聞きたくなかった声に、4人の顔からさあっと血の気が引いていく。
まるで彼女達を逃がさないように、入口に立つその少女は、藍色の髪を靡かせ、にっこりと笑った。
「丁度、貴方達にやってもらいたいことがありますの。よろしくて?」
4人は同時に察知した。
自分達には選択肢などまるで無いことに。
そして……いよいよ自分達の将来が脅かされるまずいことが起こる予感を。
4人はただただ震え上がるしかなかった。
つい数分前。
「はぁ……」
平民らしい野暮ったい雰囲気の茶髪にそばかすの女の子。そうミアリーに評された彼女は、水の入ったバケツを抱えて廊下を歩いていた。
因みに、このバケツの水は、ミアリーにかける用ではない。掃除用の……本来なら学校の清掃員が使う水である。
それを何故、彼女が運んでいるかというと……理由は、ただ一つ。
彼女が、クラスの最底辺だからだ。
「………………疲れたな」
彼女の名前は、クラーラ・ペチュニア。
クラーラは平民だ。
実家は牧場主。羊毛加工場も運営しており、他の平民より裕福で格もある。
だが、クラーラのいるクラスではクラーラは、唯一の平民。そのせいで、彼女は侍女のように扱き使われていた。
荷物持って。消しゴムが床に落ちた。昼食を買ってきて。宿題見せて……クラスの都合のいい便利な女。
それがクラーラだった。
今は、教室が汚れているから掃除しろと命じられ、クラーラは1人バケツを運んでいた。
「………………」
水が入ったバケツは重い。
そのせいか、その足取りは酷く覚束無く、重かった。
「はぁ……」
彼女はため息を吐くしかなかった。
貴族を敵に回せば、貴族相手に商売をしている親に迷惑がかかる。
それに、クラーラは平民で終わる女にはなりたくない。この学校を卒業して王国の文官職になり、ゆくゆくはエリートと呼ばれる存在になるのだ。
今ここで事を荒立てるわけにはいかない。
「来年になれば、どうせ半分以上が退学になるわ……そうなれば、クラス替えだってあるし、少しは過ごしやすくなるはず……。こんな生活、もうしばらくしたら終わるんだから……今は耐えなきゃ」
だが、そう自分に言い聞かせながらも、一方で、本当にそう? と内心の自分が首を傾げる。
生き様は変えられても、生まれは変えられない。貴族達はいつまでもクラーラを平民としか見ないだろう。出世しても待っているのは、栄光と希望に満ちたものではなく、今と同じ、差別され扱き使われる生活かもしれない。
「……っ!」
ふと足が床に引っかかり転けそうになる。間一髪耐えたが、バケツの中で跳ねた水が、クラーラの足にかかる。
冷たいそれが足を伝う時、クラーラは歯を食いしばって耐えるしか、それしか出来なかった。
その時だった。
「あ! いたいた!」
前方から小走りでやってくる少女にクラーラは顔を上げる。
そこにいたのは頭に大きな黄色いリボンをした少女……クラーラはそれが研究科が誇る有名な天才魔法使いの1人、モニカ・クリスティだと気づく。
だが、研究科と接点もなく、彼女とは知り合いでもない。クラーラはなぜ彼女が自分に話しかけてくるのか分からなかった。
だが、直ぐに思い知る。この時、逃げれば良かったと。
「貴方がクラーラさん? よね?」
「えぇ、そうですが……」
「わぁ、良かった!
私、モニカ。モニカ・クリスティ。クリスティ子爵家の末娘よ。
貴方のことはアイリーンから聞いているわ。貴方が何でも協力してくれるっていう方よね? アイリーンが言っていたわ、こんなに親切な人なかなかいないって。人が嫌がる仕事を率先してやってくれる方って……! 貴方凄く良い人よね」
「………………」
モニカは笑っている。人の良い笑みを浮かべている。
だが、クラーラは閉口するしかなかった。人が嫌がる仕事を率先してやってくれる……? そんなこといつしただろうか、と。
そして、アイリーンという名前。間違いなくクラーラと同じクラスにいる侯爵令嬢アイリーン・ウェスターのことだろうとクラーラは思い当たる。
クラーラが最底辺なら彼女は最上位。あの長い藍色の髪の少女は、いつもクラーラを扱き使うクラスメイトの筆頭だ。
クラーラは嫌な予感がした。
「……何の御用でしょうか」
「アイリーンが頼み事するなら貴方がいいって言っていたの。だから、頼み事がしたくって……。
私、困った時に助けてくれる友達とか周りにいないの。だから、友達が多いアイリーンが羨ましかったんだけど、でも、アイリーンがね。私を見かねて貴方を紹介してくれたの。クラーラなら友達じゃなくても絶対助けてくれるよって」
「………………っ」
モニカは笑っている。ずっと屈託のない無邪気な笑みを浮かべている。
……すぐ目の前で、青ざめて震えているクラーラなんてまるで見えていないかのように。
「ねぇ、お願いがあるの。
私、お友達からお願い事をされているのだけど、どうしても時間が無くって。
しかも、知らない子と共同作業なの。
アイリーンの他のお友達が率先してやっているらしいのだけど、私、知らない子と上手くやれる気がしなくて……。だから、貴方に代わりにやって欲しいなぁって思ってるの」
「………………」
「でね。やって欲しいのが、はい、これ」
モニカは微笑みながら、クラーラの手にそれを無理やり握らせようとしてきた。
楕円形の真っ白な球体。まるで卵のようなそれを手のひらに感じた瞬間、クラーラは背中に悪寒が走るのを感じた。
触れたらいけないもの……クラーラでも一瞬で理解するほどに、それは明らかに異様なものだった。
「な、なに、これ……」
「さぁ?」
「さぁって……!?」
「私、どうでもいいから」
クラーラは思わずモニカを2度見する。だが、彼女は微笑みを浮かべているだけだった。先程と変わらない。同じ微笑みを……。
「私の友達はね、私より身分が高い人しかいないの。まぁ、それ自体は良い事しかないし悪くないのだけど。
でも、あの人達、何故かミアリーにヤケにこだわってて……。ただでさえ、濡れ衣を着させられて散々な思いしているのにさ。なのに、何をこだわっているのかしら。
私、元婚約者のことももうどうでもいいし、あんな頭おかしい女の子に関わりたくないし、勉強の方がしたいのよね。
そう、私は魔法使いとしてもっと高みを目指したいの。毎日勉強したいし、毎日練習したいし、もっともっと頑張りたいの。
なのに、あの人達、私にも色々やらせようとしてきてさ……酷い話よね。
だから、貴方が代わりにやって? ね?」
クラーラの手の平に不気味な球体がぐいぐいと押し付けられる。
その力の強さに恐怖を感じ、クラーラは息を飲む。どうにかそれを握らないようにするが、モニカは笑ったまま動じることもなく握らせようとしてくる。
「やってくれないと私とっても困るのだけど? 貴方、親切な人なんでしょう?」
「……い、嫌……」
クラーラは思わず後退る。だが、それ以上逃げ出せない。後退りした瞬間、その腕を掴まれた。
そして、小さな声でそれは聞こえてきたのだ。
「拒否できる立場にいると思って?」
「……ひっ」
クラーラの脳裏に過ぎるのは、期待して送り出してくれた両親の姿。そして……同じクラスのアイリーン・ウェスターの姿だった。
学年が上がったあの日、クラーラの運命が決まった時。彼女はクラーラがクラスで唯一平民だと気づいた瞬間、言ったのだ。
『良かった。親の言いつけで侍女を全員連れて来れなくて我慢するしかなかったのよ。はい、荷物持って』
断る選択肢すらなかった。
クラーラは気づけば、アイリーンに扱き使われ、クラスメイトにも都合良く使われ、クラスの最底辺になっていた。
そして、仕舞いには、アイリーンにバケツを持つよう命令され、こう言われたのだ。
『それでミアリーってアバズレに毎日水かけてきて。サボったら私の親に貴女のことを言いつけるからよろしくね』
アイリーンとミアリーにどんな接点があるのか、クラーラは知らない。なぜなら彼女はクラーラを侍女代わりとしか見ていないからだ。黙って言うことを聞く存在、それ以下でもそれ以上でもなかった。
そして、それは目の前にいる黄色いリボンの彼女も同じだった。
「ねぇ、聞いてる?」
微笑んでいた彼女の顔に苛立ちが滲み出す。早く受け取れ、とその目が言っている。
「……知っているのよ。貴女がアイリーンに言われて、ミアリーにそのバケツで毎日水をかけているの。
同じことよ。かけるものが違うだけ。
早く受け取って。私の時間が勿体無いじゃない」
これ以上ないほど強く押し付けてくるモニカ。
逃げられない。クラーラはそう悟り、息が詰まるようだった。
(言う事聞くしか……。私の親も、私の夢も、なくなっちゃう。従わないと私は……)
だが、その思った瞬間、あの声がクラーラの脳裏に響いた。
『惨めね~。このまま命じられるまま馬鹿みたいに水をかけ続けて貴方の青春って終わるのでしょうね~ 貴方の十代の思い出、下らないものしか残らなさそう~』
いけ好かない女の声。クラーラの心を抉ったあの声がした。
「……っ!」
『私が性悪なら、貴方は何かしら? 腰巾着? いえ、金魚の糞かも。
親の金で生きて他人にペコペコして媚びへつらうだけの女の子ですものね』
ミアリーは、クラーラにとって、ムカつく女だ。
少し前までは素直に水をかけられていたのに、今は水にかからないし、とにかくクラーラの神経を逆撫ですることしか言わない。彼女はクラーラの痛い所を、本音を、容赦なく突いてくる。その上、彼女はこっちが何を言おうと動じない。むしろ煽り返してくる始末だ。
ムカつく女だった。クラーラの嫌いな女だった……だが。
『アンタだなんて野蛮な言葉は使わない方が良いわ。
貴方、可愛いのだから』
親以外で、初めてクラーラを褒めてくれた女の子だった。
『貴方は可愛いから特別に許してあげる。
貴方バケツじゃなくて恋人持ったら? 私を虐めるより、自分の顔を生かして可愛い女の子になる方が似合ってる。
特にそばかすは強みよ。後は言葉遣いと愛想ね。それで完璧』
そう言って立ち去る彼女の姿が、クラーラの脳裏に過ぎる。
嫌われているのに、イジメられているのに、彼女は堂々としていて強かった。
とても憎らしいほどに……思わず、羨ましくなるくらいに。
強かった……。
その瞬間だった。
「いい加減にしなさい。平民の癖に!
私達貴族に尽くすのが貴女達の役目でしょう!」
「……っ!!」
バシャッ……!!
クラーラがハッとした瞬間、持っていたバケツを無意識に振り上げていた。
慣れた手つきで振り上げられたバケツは綺麗に弧を描き、目の前の少女にその中に入っていた水を綺麗にぶつける。
大量の水は黄色いリボンを汚い色に変え、美少女と評されるその整った顔をぐしゃぐしゃに歪めた。
「いやぁ!!」
悲鳴を上げるモニカをクラーラは呆然と見る。
つい手が滑った、では済まないことをクラーラはしてしまった。
だが……何故だろう。
水なんて毎日かけてきたのに……今、人生で1番清々しい気分だ。
「……バカバカしい」
気づけば、クラーラの口は自然と開いていた。
「天才魔法使いって聞いていたけど、ただの自己中でゲスな女じゃない! 勝手に困っていればいいのよ!」
ずっと胸の底に隠されてきた燻っていた怒りが、爆発する。
だが、それは向こうも同じだった。
「なんてことするのよ! 平民の癖に!」
水をかけられ貶されたモニカはその目を釣り上げ、怒りそのままにその手に杖を出す。
もちろん、その矛先は、クラーラだ。
「この私をこんなにして絶対に許さない!貴女なんか壊してあげる! 徹底的に! 貴族に逆らった当然の結果よ!」
「……っ!」
「二度と人前に出られない顔にしてあげる!
アイリーンも、ミアリーにもいつかそうする予定らしいし、丁度いいわ。お揃いじゃない。
ま、彼女の場合、生き残ったらでしょうけど」
「……え!?」
「あの方はともかく、アイリーンは目にも入れたくないみたいよ。
だから、こんな明らかにヤバいものを用意したんじゃない? これが何か私には分からないけど、彼女の本気は分かる。生き残ったら生き残ったで対処して。死んだら万々歳。そんなとこかしら。
ま、良いわよ。あんな女の子、死んじゃっても別に構わな……っ!?」
だが、モニカの言葉はそれ以上続くことは無かった。
突如、その声は聞こえたのだ。
モニカにとって最悪のタイミングで。
「そっかー 死んじゃっても別に構わないかぁー ふーん、へぇ~
随分、酷いことを言えたね。
本人の家族が近くにいるとも知らずにさ」
その声を聞いた瞬間、モニカは、たちまち青ざめ、立ち尽くす。すると、そのモニカの肩に、男の大きな手が置かれた。
まるで逃がさないと言わんばかりに。
「…………ヒッ」
モニカは恐怖した。
この男の危険性と残酷さをモニカも体感したことがあるが故に。
彼を敵に回した人間は悲惨な末路を辿る。モニカも知っている事実だ。
だが、まだモニカは諦めたくなかった。どうにかその手から逃げようと、彼女は足掻いた。
「は、離しなさい! 無礼者! わ、私はクリスティ子爵家の末娘よ!」
「あははっ、そうなんだ……だから、何?」
「ッ……!」
モニカの耳元に、その人は忍び寄る。見なくとも分かるほどにぞっとする笑みを浮かべて、そして、その人はモニカの耳元でそっと口を開いた。
「あまり身分をひらけかすのは良くないよ~? だって……自分は身分以外何も無い雑魚だって自己紹介してるのと同じだからね。モニカ・クリスティ子爵令嬢?」
「!」
「どうしても他人に命令したいなら、ちゃんと実力でどうにかしなくちゃ。
……そう、例えば、こんな風にね」
その瞬間、モニカの手から杖が落ちる。
クラーラが「え?」と声を上げた瞬間、モニカの両手は……ずっとクラーラに押し付けようとしていたあの球体を握り込んでいた。
「あ、あぁ……! 嫌ぁあああ!!」
彼が何をしようとしているのか、否、自分に何をさせようとしているのか直感し、モニカは青ざめ悲鳴を上げる。
だが、その瞬間、操られたモニカの身体は、モニカの意思を無視して球体を握り潰した。




