19.精霊とは?
悲鳴を上げたその瞬間の顔のまま真っ白になって固まるしかなかった。
気持ち悪いものを見てしまった……あんな惨い瞬間……生きていた虫が潰れて死ぬ瞬間なんて本当に無理!見たくなかった!
だけど、私の目の前にいるお義兄様は涼しい顔で……虫を踏んで潰して殺したことなんかもう記憶にないのか、私にキョトンとした顔を向けた。
「どうした? 口を開けたままブッサイクな顔してさ。もういなくなったよ、アイツ」
「い、い、い、いなくなった……! そうですねお義兄様がついさっき靴で踏み潰しましたものね……! 綺麗に潰しましたものね!」
「あ、見るー?」
「はぁ!? 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」
私は嫌だって言った。ちゃんと言った。
なのに、お義兄様は靴の裏を見せてきた。
「ひっ……!」
思わず悲鳴を上げる。
だけど、あれ?
「……いない?」
お義兄様の靴の裏には何の痕跡もなかった。もしかして潰れた瞬間、消えた?
「え? 消えた、うそ?」
「精霊だし、分身だし、踏んでもまぁこうなるよね」
「せいれい……?」
そう言えばお義兄様はあの蛾をせいれいって呼んでた。
「それって何ですか?」
「あー、まーそうだよね。分かりやすく言えば、妖精かな?」
「……へぇ、フェアリー……。えっ、あれが?」
妖精ってもっと可愛くて小さくてミステリアスなイメージがある。
でも、あれはどう見てもこわいグロいキモいが三拍子揃った虫にしか見えない。
神妙な顔をする私の内心を察してか、お義兄様はだよね~と頷いて、同意してくれた。
「あれは僕にも分かんない。精霊ってもっと優美な姿をしているんだよ。舞う祝福とか飛ぶ宝飾品とか宝石に白い翼が生えているとか評されるぐらいにね。
……まぁ、あれの変なところは、姿だけじゃないけど……」
お義兄様はそう言いながら部屋の方に目を向ける。
ただでさえ汚かった部屋は壊れた天井の板とか瓦で凄いことになっている。
お義兄様は手近な場所に腰を下ろすと、色んなものが山積みになったそこに伸ばす。そして、それらを一つ一つ手に取ってどけ始めた。
そうして片付けながら、お義兄様は説明してくれた。
「まず、精霊ってね、人の為に生きているんだよ」
「人の為……?」
「そ。精霊は、人間社会と共存して人間に大地の恵みを与えその平和の為に努力する種族。妖精種は他にも沢山いるけど、人間にとって一番ポピュラーで、味方なのが精霊なんだ。
……そんな種族だから君を傷つけるとかまず有り得ないんだよ。
人間の為に生きる種族なのにその人間を自ら傷つけている。
ヤバいこと言っちゃってたし、分身であれだけの姿になっているのなら本体は目も当てられないはず。あそこまで落ちぶれたら精霊王がガチギレしそうなんだけどなー」
「精霊王……あ、さっきあの蛾もその名前を呼んでいるのを聞きました。誰ですかその人」
「そのままだよ。精霊をまとめる王様だから精霊王。単純でしょ?
かなーり厳しい王様だよ。礼儀にも道理にも厳しくて偏屈で気難しさマックスって感じ。
うーん、あの王様なら、ああいう精霊は絶対許さないはずなんだけどな」
「そ、そうなんですか。でも、さっきその蛾、精霊王様に顔向けできないって言ってましたけど……」
「え? じゃあ精霊王が一枚噛んでる可能性あるじゃん。え~ 超面倒事の予感しかしないんだけど」
お義兄様は何でも教えてくれるし、やけに詳しい。そう気づいた時、私はふと思った。
多分、この人ならさっき私に起こったこと、全部理解出来るはず……と。
「お義兄様、聞いて欲しいことがあります」
私はお義兄様にさっきの出来事を全部話した。
私を襲ってきた黒い何かのこと、あの蛾が言っていた予言、そして、ちゃんと聖女になるような子を選んだって発言、私の前に消された人がいたかもしれない話……それら全部を。
けれど……。
「うーん、分かんない」
「え?」
私の希望は一瞬で絶たれた。
「お、お義兄様でも分からないんですか?」
「流石に僕の領分じゃないなー 特に、聖女」
お義兄様は顎に手を当てて考え込む。私が話している間にお義兄様の隣にはいつの間にか瓦礫の山が出来ていた。
「僕が知ってることと言えば、世界を救う為に神に選ばれた人ってことぐらい。不思議と毎回女性ばかり選ばれるから聖女って呼ばれてる」
「世界を救う為に神に選ばれた……」
「でも、ミアリーは精霊からそれを聞いたんだよね?」
「はい……よく分からなかったですけど」
「それが訳わかんないんだよな~
精霊と聖女って関係性あったっけ?
精霊と聖女は利害が一致するし、相利関係にはあるだろうけど……彼らが執着するほどかな?
彼らが聖女なんて得て、それで何をするんだろ?」
「さぁ……でも、何故だか必死でした。時間がないとか、また失敗とか……。
……あの、これは勘なんですけど、もしかして前の私が聖女だったりしません……?」
そう聞くと、お義兄様の目が私の方を向く。
「なんで?」
何の感情も読めない目が私を見る。
ま、まぁ、急にこんなこと言い出したらそうなるよね。
とはいっても、私も明確な根拠があるわけじゃない。でも、さっきの蛾は……。
「ミアリーを見て話していたから……。
無関係の人に、ダメだったとか言いますかね?」
「…………」
「まぁ、前の私の性格を思うと聖女に選ばれるとか有り得ないですよね。色々終わってますし……」
「……あながち間違いでもないかもしれない」
お義兄様の言葉に私は目を瞬かせる。お義兄様は瓦礫の下から何か見つけたようで、それを引っ張り出していた。
「あの子が聖女だったのか確証はないし、あの精霊とどれだけ関わっていたか今となっては分からないけど……やっぱりクズだねぇ、あの子もあの精霊も……」
お義兄様の手にあるのは小さな小瓶。中身は殆どない。キツイピンク色をした液体が僅かばかり入っているだけ。
お義兄様はそれを空に翳して、睨みつけた。
「はぁ、この国では妖精種が作った薬は禁止にされているのに……。
媚薬……それも幻覚症状を引き起こすタイプか……。
でも、まぁ、これで説明はつくよ……」
お義兄様は立ち上がった。
「ミアリーが何であんなにモテていたのか……これだろうね、原因は。
妖精種の薬は妖精を通じてしか手に入らない……彼女は精霊と結託して、様々な人間の人生を狂わせたんだ」
もう夜が近い空の下、お義兄様は目を細めた。
その目には軽蔑しかなかった。
卑怯な手段で人の心を弄んでこんなゴミの山にした前の私に対しての……。
私に向けられたものではないのに、息を飲む。
どうして、前の私は、こんなことしたんだろう。
どうして、精霊は、前の私に媚薬なんて渡したんだろう。
何も分からない。
何も分からないけど……。
吐き気がした。




