幕間 それは奇跡のような 5
雨が降っていた。
空には分厚い灰色の雲がかかり、まだ陽も落ちていない夕方だというのに、路面は霧に包まれ灰色かがり薄暗い。そして、世界の全てが降りしきる雫で濡れていた。
道路は黒く染まり、その上に停車している自動車の窓も前が見えないほどの水に覆われている。電線は大粒の水滴を次々と地面に垂らし、歩道橋の階段は浅い川を流れる滝のように雨水が流れていた。
そして、遠くに見える3階建ての学校も雨で暗くくすんだ灰色になり、雨の中で静かに佇んでいる
だが、人の姿は無い。
家路に着いた会社員も、友達と遊んでいた子どもも、部活に勤しんでいた少年少女も、この世界の何処にもいない。
そこにあるのは無限に空に広がる雨雲と雨に打たれる冷たく無機質な人工物だけ。
そんな世界を……1人の青年が傘も差さずに歩いていた。
「………………」
人気のない街をただただ黙々と歩く彼は、一見ただ目的もなくうろついているように見える。だが、彼が足を踏み出す度に、雨の音に紛れ、世界が軋む音が響いた。
アスファルトが下にある地層ごと割れ、車の窓ガラスにヒビが入り、電線は光を放ちながら千切れ、歩道橋は突如支えていた柱が腐り砕け散り倒壊した
世界の端から少しずつ、しかし、恐ろしい速度で、この世界が終わっていく。
このままでは数時間、否、完全に夜になる頃にはこの世界は欠片一つ残さず消えるだろう。
だが、そんな災厄を引き起こしている彼の顔は、この雨のように暗かった。
雨に打たれ、無言で俯き、あてもなく歩く彼……。
その時だった。
彼の黒一色の視界の隅に、青い傘が過ぎったのは。
「……兄弟……?」
思わず、顔を上げる。
青の傘。それだけなら無視するが、その傘はあまりにも既視感のある傘だった。だから、彼も思わず顔を上げたのだ。
だが、そこに居たのは……。
「はじめましてだな」
知らない男だった。
青い傘を差したスーツ姿の若い男。彼はこの明らかに異常が起こっている街で、平然と立っていた。
しかし、彼が眉を顰めたのは、彼のその異常性ではなく……その既視感だった。
その男の容姿に共通点など一つもないというのに、彼は、何故か男と彼の大切な兄弟が重なって見えた。
自分がおかしくなったのかと思い、彼は自身のその目に触れる。
だが、何度目を瞬かせても、2人の姿が二重に重なって見えた。
「お前は誰だ……?」
「旭。仲達 旭だ。一応、この世界に住んでいる者だ」
旭。そう名乗った男は普通の男に見えた。魔力もそれ以外の特別な力も特に感じない。だが、男からは奇妙な雰囲気があった。
その不信感に、その違和感に訝しみ、彼は男に目を細めた。そんな彼に男は告げた。
「単刀直入に言う。これ以上、この世界を壊さないで欲しいんだ」
「……何故?」
「俺の大切な家族がいるからだ」
男は傘の下で困ったように笑った。
「君にもきっと事情があるのだろう。俺には分からない事情が……。だが、この世界を壊されてしまうと本当に困る。
俺の大切な家族がいつか前を向けるように……その為に創った世界なのに、このままでは、俺の家族は死んでしまう」
「…………」
一向に返事をしない彼。だが、男はそれでも言葉を紡いだ。
「俺の命はどうでもいいが……あの子には、夕夜には、生きて欲しいんだ。
あの子の人生を、ここで終わらせないで欲しい」
そう告げる男に彼は眉を顰めた。
声も違う。口調も違う、態度も違う。何一つ共通点などない筈だというのに、男の言葉から滲み出るその確かな愛には、覚えがある
「……っ」
……男が持つ温かく包む込むような穏やかな愛。
それは、ぶっきらぼうながらも、彼の兄弟が彼に向けるそれと全く同じだった。懐かしいと感じる程に、意思が思わずブレそうになる程に、同じだった。
だが、折れるわけにはいかない。
「アイツは、大勢の人間を殺め、世界を歪めた。その上、僕の大切にしていたものを……僕の人生を壊したんだ。
あんな奴、死んで当然だろ」
「それは、ダメだ」
「……!」
彼の言葉を遮り、男は一歩ずつ、彼に向かって歩き出した。
「君の怒りはもっともだ。君の悲しみも、君の行動も、仕方がないものだ。
あの子を庇うことすら出来ないほどだ。だが……」
その瞬間、青い傘の下で、その確固たる意志を持つ目が、彼に向けられた。
「君は気づいているか?
その言葉が自分自身にもそっくりそのまま当てはまることに」
「……!」
彼の脳裏に、彼の大切な兄弟の姿が過ぎり、目の前にいる彼にピッタリと重なる。
旭の目が、あの朝日の目に変わる。そして。
「……これ以上、やめておけ。堕ちるな」
彼の声と重なって、兄弟の声が聞こえた。
「……っ!」
彼は思わず動揺し、一歩、後ろへ後ずさる。
それと同時に、彼の頭上に傘が差し出された。
「あの子の罪は、あの子が償うべきものだ。君が裁いて殺したって、彼は反省も償いも出来ず、失ったものだって還って来ない。君の胸が空くだけ……そして、君が次のあの子に成り代わるだけだ。
それならば、尚のこと。君は同じ存在になるな」
男は、彼の手に、そっと傘を握らせる。その使い込んだ形跡のある青い傘は、初めて手に取る筈なのに、驚く程、彼の手に馴染んだ。
「君の人生を、君の嫌いな存在で染めるな。
憎んでいる相手と、同じ存在になるな。
君には、もっと大切なものがあるだろう?」
彼は目を見開く。彼の言葉が胸に刺さったからだけではない。
自分に傘を渡し雨の下に出たその人は……一切、濡れていなかった。
雨粒は、男に当たることなく地面に落ちていき、男の髪も服も雨が染み込むことなく乾いたままだ。確かにそこに男はいるというのに、これではまるで……。
息を飲む彼に、男は笑いかけた。
「俺は……星になれなかった……。
家族なのに、あの子を幸せにすることも、支えることも出来なかった。
何とか支えようとしても、かなえのようにはいかず、結局、俺の自己満足で終わってしまった。
寂しい話だが、あの子に必要なのは、かなえだけで、俺は要らなかったんだ……俺は、本当に、要らない人間だったんだ。
それでも、あの子はこの俺に初めて出来た家族らしい家族だったから……求められていなくても俺が出来ることは全てしたかった。
どんな形でも……幸せになって欲しかったんだ……。
そうしたかった……生きているうちに。だが……」
男の言葉が不意に途切れる。そして、徐に男の手が彼の頭を撫でた。
まるで自分の子どもにするような優しい温かみのあるそれ……しかし、撫でるその手は震え上がるほど冷たかった。
「…………!」
驚愕する彼に、男は告げた。
「君は、あの子にも俺にもなるな。
君だけの人生を歩め。
死んでしまったら、どれだけ後悔していても何も出来ないのだから……」
その瞬間、気づくと。
彼の目の前には誰もいなかった。
あるのは、ただの雨、あとは、彼の手に握られた青い傘だけだった。
「………………」
彼は無言で佇む。
傘から雨粒が跳ね返り、地面に落ちる音がする。
そんな傘の下、彼は声を漏らした。
「…………もう遅い」
今更、止められたところで、もう引き返せないところまで来ている。
自分の世界は既に滅び、もう、この世界も壊れるだろう。
今更、本当に今更……自分の人生に戻れるはずが無かった。
「もう、壊すしかない……どうせ、僕が愛していたものは……」
だが、そう口では漏らしながらも、その手にある傘を、男から託されたそれを、手放すことが出来なかった。
体が冷え切るような雨から彼を守り、温もりをくれるそれが、まだ引き返せると心の底から煩わしくなるほど説得してくる。
彼は顔を顰めた。思わず、舌打ちする。
「何だよっ、僕は、もう人間じゃないっ……なのに、僕は、まだ……!」
その時だった。
降りしきる雨の中、懸命に走る誰かの足音が聞こえる。
ローファーが、水溜まりの中にも構わず突っ込んで行き、濡れたアスファルトを水飛沫を飛ばしながら駆ける、そんな音。
彼がその音の鳴る方へ顔を向けると、そこには、透明なガラスのような傘を差した、制服を着た黒髪の少女がいた。
彼女は走っていた。必死に、懸命に、そして、真っ直ぐに、彼に向かって。
彼は彼女の姿に覚えなど無い筈だった。
その髪も顔も全て知らない筈だった。
……知らない、少女の筈だった。
「お義兄様!」
その声を聞くまでは。




