幕間 それは奇跡のような 4
この世界は、彼に優しくない。
否、最初から誰にとっても優しくない世界だったのだろう。
……そう、最初から、この世界は壊れろ、と求められていた。
彼が大切に思っていた2人に罪は無かった筈だった。
あの2人に殺される謂れは無かった筈だった。
2人ともこんな終わりを望んでいた筈がなかった。
では、何が悪かったのか?
彼が出した結論はただ一つ。
この世界そのものが悪い、と。
彼は初めから知っていたはずだった。
人間もその在り方も社会の仕組みも全て、この世界は終わっていた。
その矛先が完全に2人に向いてしまっただけのこと……。
しかし、許せるはずが無かった。
彼の色鮮やかな世界はたった2人で構成されていた。それを理不尽に奪われ、黙っていることなど出来なかった。
だから、彼は厄災を引き起こした。
全てを壊し、全てを無に帰す為に、そして、掃き溜めのようなこの世界を完全に否定する為に。
だが……彼の悲劇はそこで終わらなかった。
この世界を終わらせようとした瞬間、彼の脳裏に過ぎったのは、死。そして……誰かの記憶だった。
1人の少年がいた。
その少年は、その日、目の前で最愛の人を亡くした。
自分なら、止められた筈だった。
自分なら、守れた筈だった。
自分なら、彼女を救うことが出来た筈だった。
しかし、彼が呆然としている間に、彼女は頭のイカれた女に殺され、彼は彼女を永遠に失ってしまった。
彼女を失った彼に待っていたのは、彼女がいなくても回る残酷な世界だった。
彼女の家族は、訃報を聞いた直後は泣いたものの、淡々と葬式を行うと、その次の日には当然のように仕事や学校に向かっていき、葬式では俯いていた彼女の親友達も、翌週には学校生活を楽しんでいた。
彼女の死を引きずっている人間なんて誰1人いなかった……誰も彼も、彼女のいない日常に直ぐに順応して、彼女を忘れ去っていく。
それが出来ないのは、彼だけだった。
彼にとって、彼女がいる日々こそが、彼の世界で全てだったのだ。
彼に彼女のいない明日など生きていけるはずがなかった。
「絵を描こう……」
もう一度、彼女に会いたい一心だった。
窓という窓を締め切り、全ての明かりを消し、家中の時計を止めて、彼はアトリエに引き篭って、ただただ絵を描き始めた。
今や彼女の面影はこの世界のどこにもない。彼女を偲ぶ人間すらいない。もう彼の描く世界にしか彼女はいなかった。
「彼女に、会いたい……どんな形でもいい。またあの日々に還りたい……あの日を続きを僕は……」
彼は絵に没頭し、それ以降、様々な世界観を持つ作品を……世界そのものをキャンバスの中に作り出していった。
途中、養父であるその人に何回か止められたが……。
「夕夜、彼女に会いたい気持ちは分かる。だが、君の人生を蔑ろにしたらいけない」
「うるさい……! これが僕の最善なのに口出しするな。どうせ君のことだ。僕が君の言う通りに前に進んだとしても、君はさっさと僕を置いて独りにするだろ? そんなの君が満足するだけじゃないか」
「……………………」
「僕のことなんか放って、君は黙って前に夢だと言っていた星でも作っていればいい。中途半端な優しさが1番ムカつくんだ」
そう言って彼は振り払い、拒絶し、キャンバスの前から動かなかった。
それからどのくらい時間が経っただろう。
気がつけば、あんなに広かったアトリエがキャンバスや額で埋まり、足の踏み場も殆ど無くなっていた。
そして、この世界で唯一彼を気にかけていてくれた養父であるその人も既にいない。
だが、彼はまだキャンバスの前にいた。
「もっと頑張らないと……もっと上手く、もっと緻密に、もっと命を吹き込まないと、彼女に会えない……」
誰もいない、音さえもない、完全に閉鎖された空間で、彼は永遠に彼女を追い求め続けていた。
そんな時だった。
「榊先輩」
彼女が還ってきたのは……。
「か、かなえ……?」
最初は驚いてろくな反応も出来なかった。
だが、ずっと求めていたその人の帰還に、彼は舞い上がった。
日常が、人生が、未来が帰ってきたと思った。
後は、彼女のいる明日を迎えるだけ。
それで彼の願いは叶う……その筈だった。
だが、せっかく還ってきた彼女は、別れの言葉を告げて、自分の世界だという絵の中に帰ってしまった。
「嫌だ……かなえ……」
彼には認められなかった。到底そんなこと出来なかった。
彼女を取り戻す。
それだけが今の彼の願いになった。
彼女が帰ってしまった額装された絵を、イーゼルに立てかける。
キャンバスには夕陽にも朝陽にも見える見事な空が描かれていた。
青紫から赤、赤から橙、橙から金色。
吸い込まれそうなほどその美しい空は、キャンバスの中でどこまでも広がり、安堵する温もりと穏やかな空気に満ちていた。
その絵を前に彼は筆を手に取り、筆先に……汚泥のような汚い黒色をした絵の具を付けた。
「壊さなくちゃ……この世界を」
その瞬間、彼の絵筆は見事な空を台無しにした。
「この絵が壊れれば……中にいる彼女は、ここに戻って来ざるえなくなる……。そうなれば、僕の願いは叶うんだ。」
たった一人の為に、彼は世界を壊す。
美しい空は黒い絵の具に汚され侵され塗り潰されていく。
筆が走るキャンバスから悲鳴が嗚咽が絶望が聞こえる。だが、彼が意に返すことはない。
彼の虚ろな光のない目は、還ってしまった彼女だけを見ていた。
「君を僕は諦められない。君だけが僕の希望だから……」
その手元では温もりは消え、穏やかな空気は一変し、何の罪もない善良な人々から駆逐されていく。
「君が帰るべき世界はここなんだから……。
この世界は、最低最悪な滅ぶべき世界になればいい……」
彼の願いに合わせ、黒い絵の具が這った場所には虫が産まれ、悪性が蔓延り、キャンバスを更に穢し、世界を蝕んでいく……そうして、壊れるように差し向けていく。
やめろ、と声が出た。
そこには、そのキャンバスの中には大切なものがある。
この世にたった2人しかいない大切なものが。
だが、彼の……この世界の創造主で神である彼の手は、無遠慮に塗り潰していく。
「どうせクズしかいない世界になるんだ。絵の具から嫌悪感を滲み出るように表現して……このまま全てを壊そう。
この黒はそういう黒だ。起点から広がり、全体に行き、この空を滅ぼす特別な黒……さぁ、全部壊せ。壊れろ……」
そこで彼は……創造主に創られた彼は悟った。
自分の正体が何なのか、そして、自分が何のために生まれたのか。
「僕は……絵の具だったのか」
妖精でもなく人間でもなく、彼の願望を受け世界を壊す黒い絵の具。
視界が黒一色なのも、あの世界に嫌悪感を抱いていたのも全て、創造主たる彼の意志を受けキャンバスに落ちた黒い絵の具だったからだ。
最初から彼は世界の敵だった。
馴染めるはずがない。
壊す為だけに……それも創造主の独り善がりな願望の為だけにいる存在。
「僕は、利用されていたのか?
こんな奴の為に?
こんな奴のせいで2人を僕は失ったのか?」
彼は歯噛みした。
彼はこの世界を滅ぼそうとしていた。2人を奪ったこの世界を許せなかったから。
だが、その元凶を黒幕を知り、彼の怒りは全て、その瞬間、創造主に向いた。
「ふざけるな……!」
彼は厄災を引き起こしたその時点で使い捨てられ黒い絵の具に溶け死ぬはずだった。
しかし、憤激した彼はむしろ世界を滅ぼすその絵の具を取り込み、自分の力にしていく。
「こんな馬鹿馬鹿しい事があるか! 意中の女1人引き止められなかったからと世界ごと壊すなんて! お前なんか根暗な自分だけを恨んで一生引きこもっていれば良かったんだ!
許さない……僕の人生も2人の人生も、お前に利用され踏み台にされる為にあったんじゃない!
全部奪って壊してお前だけ幸せになろうなんて許せるか!」
あれは奇跡のような日々だった。
彼は最初からこの世界を壊す為に生まれた存在だった。それも、それ以上の存在価値はなく、使い捨てられて終わるだけの存在。
だが、ルキウスという輝きに出会えたことから始まり、人らしい人生を送り、最期には、ミアリーという世界を一変させるような少女と過ごせた。
本当に……儚い輝きに満ちた幸せな日々だった。
だが、もうそんな日々は帰ってこない。
彼の日常は正に奇跡としか言い様がないものだったのだから。
彼は、創造主を殺すと決めた。
その結果、創造主が創った世界がどうなるか、簡単に推測出来たが最早どうでも良かった。
それほどまでに彼の怒りは頂点に達していた。
「お前だけは、許さない……! 全てを奪ったお前だけは……!」
彼の足が、創造主がいる世界へ……榊 夕夜の世界へ入り込む。
彼を殺す、ただそれだけの為に……。




