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記憶喪失になったヒロインは強制ハードモードです  作者: 春目ヨウスケ


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幕間 それは奇跡のような 2




 そして、その時は来た。






「はあ、はあ……」


 降り止まない雨。

 茶色く濁るばかりで増水する用水路。

 増水した水はみるみるうちに速さを増していき、服から水を滴らせながらも必死に走る彼をどんどん追い越していく。


「兄弟、兄弟……!」


 探しても、叫んでも、彼の大切な兄弟は見つからない。

 そのうち、路面上は雨で浅い川のようになっていき、そして、水路は濁流に飲まれ、何も見えなくなっていく。


「兄弟! ……っ!?」


 兄弟を呼んだその瞬間、彼のすぐ横を猛スピードで馬車が通り過ぎ、路肩に溜まっていた泥混じりの水がまだ背の小さい彼に降りかかる。

 口に入ってきたそれを必死に吐き出し彼は泥だらけの前髪をかきあげる。

 その瞬間、見えた景色に吐き気を覚えた。




「ギャハハ! 見てよ、✕✕✕✕の顔、最高にブスじゃねえ?」

「マジやばっ!? アハハッ!」

「あ、ちょっと立ち上がらないでよ! お前みたいなのは溝がピッタリよ」


 肥えた豚の体をした3人の少女が、水骨と皮しかないような痩せた少女を水溜まりに突き落として遊んでいる。少女は抵抗どころか口を開けることすらしない。雨水に塗れてただ虚ろな目を空に向けているだけだった。




「頑健では無さそうだが、3日は持つかね?」

「えぇ、持つでしょう」

「100、いや、150はどうかな?」

「毎度。では、例のものを……」

「あぁ、分かった」


 お互いに卑しい怪しい笑みを浮かべた売人と客が2つの大きなコウモリ傘の下でヒソヒソ話している。

 そんな彼らの傍らには身なりのいい少年が立っていた、だが、よく見ればその少年は魔法で拘束され、口も塞がれている。

 客の男が紙切れのようなものを売人に渡し、売人は少年を男に引き渡す。

 その少年の顔は今から死にに行くと言わんばかりの、そんな顔をしていた。しかし、男は彼を見て満足そうな笑みを浮かべ……長い長い舌で舌なめずりをしたその顔は嗜虐心に満ちていた。




「あらあら旦那様ったらこんな所でキスなんて誰が見ているか分かりませんわよ?」

「誰も見ていないさ。皆、雨に夢中だ……私は君に夢中だがね。その唇から足先まで舐め回したい位ほどに魅力的だよ」

「あらぁ、ついうっとりしてしまいますわぁ。奥様に聞かれたらどうしますのぉ?」

「問題ない。あいつは私の仕事を代わりにやるだけの存在だ。バレたところであの女のやる事は変わらない。

 それより君はどうなんだ? 君にはあれが居るじゃないか、あの男が」

「そうね。まずいかも。でも、あの男は自分が金蔓であることもまだ分かっていない馬鹿だから、きっと問題ないわ。今も私の為に、馬鹿みたいにあくせく働いているわよ」


 くすくす、と2人の男女は笑い合う。

 利用されているとも知らず今も自分達の為に働いているだろう彼らを思い、心の底から馬鹿にする。性根から腐っている2人にとって夫婦とは都合のいい奴隷でしかなかった。




「馬鹿野郎! 本当に無能だな、お前は!」

「…………」

「お前みたいなのがいるせいでウチの業績は悪いんだ。どうしてくれるんだ! ゴミカス!」

「…………」

「一筆書け! 3ヶ月後までに6000万稼ぎますって、それが出来なければ、全裸で謝罪しますと! お前の字でな!!」

「…………」

「おい、聞いているのか! ぶっ殺すぞ!」


 パン、と痛々しい音がした後に、男が雨の中で崩れ落ちる音がする。

 気づけば、雨が降り込む水溜まりの中に男が倒れていた。男の顔には既に生気がなく、生存しているかも怪しい。

 だが、男を張り倒した、その異様に腹が膨れた中年の男は、もう男に息が無いことにも気づかず男を何度も何度も踏みつける。雨に紛れ、人間から出てはいけない音が響き渡った。




 見ていられなくて、彼は目を逸らした。

 どこを見ても、醜悪な人間しかいない。

 あまりの気分が悪くなる光景に彼は口を抑え俯いた。


「……ぐっ……」


 胃の中の物が喉を迫り上がるのを感じ、彼は堪える。

 その時、ふとその声は聞こえた。



「いっそ死んじゃえ」



 ハッとなって顔を上げる。

 痩せた少女を虐めていた3人の少女が、

 これ以上ないほど楽しそうに、彼女の身体を交互に蹴り転がしながら、水路の中へ彼女を落とそうとしていた。


「貴方なんて死ねばいいのよ。不快なのよ」

「そうそう。居るだけでムカつくのよ」

「飛び回る虫と一緒よ。邪魔なものは殺して排除しなくちゃ」


 笑って、嗤って、彼女達は少女を水路に落とそうと蹴り転がす。

 ……その光景が、彼の目には、彼女達と、ルキウスを水路に突き落としたあの少年達の姿が重なって見えた。


「……っ!」


 その瞬間、彼女達の身体が雨の中に落ちる。

 豚の体をした彼女達が雨の中で水飛沫を上げて沈み、それに周りにいた人々も驚きの声を上げる。

 地面を流れる雨に赤黒いそれが混じると、地面を蹴り飛ばされた彼女も驚いて顔を上げ、地面から立ち上がった。


「あ、あっ……!」


 突然、自分を殺しかけていたその人間が物を言わなくなり、彼女は唖然となる……だが、その顔は次第に歪み始め……。


「あ、あっ、ああ、あはは! あははははは!!」


 彼女は狂ったように笑い始め、彼女達に近づくと……彼女達が身につけていたネックレスもドレスもピアスも引きちぎり始めた。


「金だ! 金だ! 金! 私の金よぉぉ!!」


 狂気的な笑みを浮かべ嬉々として身ぐるみを剥がす彼女は、最初から彼女達を加害者ではなく金としか見ていなかったのだろう。彼女はヘラヘラ笑いながら、彼女達の全てを剥ぎ取っていった。


「もうコソ泥のようにくすねなくていい! 全て私の物、私の金になるのだもの! あはは、あははははは!」




 彼は愕然とした。思わず、周りを見る。

 そこには狂気的な……否、ただただ最低な世界が広がっていた。

 売買された奴隷の少年は、客の隙をついて客をナイフで刺した。死にそうな顔は演技だったのだろう。笑顔で客のカバンを盗み、駆け出していく。

 愛し合う2人の男女の後ろには、殺し屋が2人。それぞれのパートナーから高い報酬を貰った彼らは無言で2人に近づくと、笑いながら2人を殺し、2人を溝に捨てた。

 パワハラの果てに男を殺した彼は、記者達に囲まれていた。成金の富豪が社員を暴力で殺したと面白おかしく記事にされそうになり、彼は慌てて記者に金を握らせ黙らせようとしたが、記者達は獲物を見つけた目で彼を見つめるばかり。他人の不幸は蜜の味。彼を奈落の底に突き落として楽しもうとしていた。

 雨に紛れて笑い声が至る場所から聞こえる。他人を笑い、他人を貶し、自分だけを愛し、自分だけを贔屓したそんな笑い声が。

 本当の被害者などこの世界にはいない。誰もが加害者で誰もが悪。本当の意味で善の存在など何処にもいない……。


「兄弟……」


 彼は救いを求めるようにルキウスを呼ぶ。

 しかし、その時。


「邪魔だ!」


 見知らぬ紳士服の男から杖で叩かれる。

 水溜まりに彼は突き飛ばされる。男は舌打ちすると、彼を何度も手に持っている杖で叩いた。


「クソ、クソ、クソ! 全員、我を舐めやがって! 邪魔だ! 邪魔!

 その辺の有象無象は我に従い我の都合のいいように生きれば良いのに! どいつもこいつも我を不快な気分にしやがって……!」


 ただの八つ当たり。何の価値も意味まやもないただの暴力が彼に降りかかる。

 彼には全員が化け物に見えた。まるで、腐ったゴミが人型を模して歩いているようだった。

 そこで、彼は気づく。

 この世界の人間は、誰1人、他人への愛がない。他者より自己の欲望や打算ばかり気にして、自分のことしか愛していないのだと。

 ……まるでそう最初から設定されているように。

 吐き気がする。

 あまりの気持ち悪さに立てなくなる。

 こんな生物が許されるこの世界が許せなくなる……。

 黒一色の世界が益々、その黒さを増していく。

 彼の心は既に限界に達していた。

 その時だった。

 未だ杖で彼を叩く紳士服を着た化け物は、言ったのだ。


「我が神ならば! 全ての生き物をマシな存在に変えるのに! こんなクズども全て消して! 我は我の都合のいい存在に変えるのに……!」


 その言葉に、彼は茜空の瞳を細めた。


「……あぁ、兄弟、ごめん……」


 その瞬間、紳士服を着た化け物は、雨降る地面に倒れた。突如倒れた化け物を、気にする化け物は何処にもいない。皆、他人の事など眼中に無いのだ。そう、自分の得ならない存在に価値は無い。

 彼は、そんな黒一色の世界で茜空の瞳を光らせる。


「僕は……耐えられないよ……」


 その瞬間、彼の目に映る黒一色の世界に悲鳴が響き渡った。








「兄弟……兄弟……」


 誰もいなくなった街を彼は独りで歩いていた。

 遠くでは、人の悲鳴が、虫のさざめきが、交互に聞こえる。また、先程から、身体中を虫が這っているような不快感が彼を襲っているが、そのどちらも彼にはどうでもよかった。


「どうしよう、このまま、見つからないままだったら……」


 彼は恐怖と絶望に襲われていた。

 ずぶ濡れになりながら、世界にただ一人の大切な家族を捜すが、一向に見つからない。その上、既に水路は呑まれたらひとたまりもない暴れ川になっている。

 彼は青ざめるしかなかった。思いつく最悪の展開に恐怖した。

 息を飲む。このまま見つからないままだったら、このまま1人になったら……未来への希望も何もかもなくなる。そうなれば、彼の心には……こんな世界消えればいいというそれしか残らず、化け物しかいないこの世界を壊すしかなくなる。

 彼の目が映す黒がどんどん濃く汚くなっていく。すると、次第に、その手先から温度が消えていくのを彼は感じていた。


「不快だ……全てが……」


 ルキウスのいない世界は、彼にとってヘドロの溜まった排水溝と変わらない。


「兄弟、僕は兄弟みたいに、生きていける気がしない……。

 君みたいに、僕には愛せるものが何一つないんだ……」


 幼い彼は空を仰ぎ見る。

 あの日見た、どこまでも広く澄んだ青空は既にそこにはない。黒い空が広がっているだけだった。

 彼は俯き、歩くしかなかった。


「この際、全部、消えちゃえ……」


 この世界を呪う。

 呪って、壊そうとする。

 自分にとって不快な物しかない。何の価値も意味もないこの街を。

 だが、幼い彼は知らない。



 約10年後、同じ場所で、1人の少女を連れて、デートすることを。


 ルキウス以外の……否、ルキウス以上の、輝きを見つけることを……。








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