幕間 それは奇跡のような
彼の人生が始まった瞬間は、生まれた瞬間ではない。
あの日。偶然と奇跡が重なったあの日だ。
「俺達、今、空を飛んでいるぞ!」
黒1色の世界で生きてきた彼の目に、雲ひとつない青空が広がった。
「……!」
そう、どこまでも広がっている、自由で青く澄んだ空を初めて見たあの瞬間。
彼の人生に、初めて色が着いた。
彼はこの世界に生を受けた瞬間から、その目に見えるもの全てに色というものがなく、その全てが黒に塗り潰されていた。
物の輪郭だけを残して塗り潰しているその黒は、味気もない、温度もないだけでなく、まるで溝に溜まる汚泥のように醜悪な黒で、見ているだけで吐き気がした。
そんな吐き気のする世界で出会う存在は彼からすれば化け物でしかなかった。
「なんだコイツ! 変だぞぉ! 変だぞぉ!」
「気持ち悪い! 気持ち悪い!」
「よく分からないけど不快だ! 嫌いだ!」
「こんなの仲間じゃない! 絶対、仲間じゃない!」
羽の生えた真っ黒な小人が叫ぶ。大量の涎を口の端から流しながら、魚のような張り出した目をグルグルさせ、まるで形の悪い芋のようなボコボコと膨れ上がった顔をした彼ら……。
彼もそんな仲間、要らないと思った。あまりにも気持ち悪すぎる。
だから……捨てられると同時に、彼ら全員、地面の染みにした。
「私の息子はどこ!?」
「私の息子! 私の息子を何処にやったのよ! 化け物!」
「あの子がいないとあの女に打ち勝って男爵家を奪う計画が頓挫するじゃない! あの家には億の価値があるのに!」
「何の為に伯爵令嬢の私が、あんなジジイに3年も媚び売ったか分からないじゃない!
私の息子を返して!」
この体の実母である野心家の彼女は、化粧はしていたものの、醜いとしか言いようがない容姿をしていた。顔は顎と首の境が分からないほど膨張しており、その目は欲に眩み、その口元は卑しい笑みの形に固定されて動かなくなっており、常に舌なめずりをしていた。そして、その体は暴食と欲深さでブクブクと膨らんでおり、まるで腹を出したウシガエルのようだった。
当然、彼もこんな醜女が自分の母になるなどお断りだった。
だから、生きた痕跡一つ残さず、海の藻屑にした。
「これが俺の息子だと!? こんな不気味なのが? 嘘だろ! 俺の息子ならば、もっと顔がいい筈だ! サリナめ! 失敗した上に逃げやがって!」
体も顔も小さい癖して口だけは体や顔よりも大きいその男は、ギロギロした目でそこに存在していた。
……ゴミだ。そう直感した彼はこの体の実の父である彼を、人の目が届かぬうちに犬の餌にした。
彼の目は世界がいかに醜悪で価値がないか、彼にずっと見せつけ続けた。
黒に塗り潰された世界は、その存在の悪辣な部分を表に引き摺り出し、彼に、彼らがどんな存在か、否が応でも理解させる。
だが、その人は……空を見せてくれた彼だけは違った。
「これからお互い兄弟って呼ぼうぜ?
どうせ兄弟だからな」
その人の朝空の瞳に彼の茜空の瞳が映る。
正反対な、しかし、よく似たその目は驚くほど綺麗に重なっていた。
彼は恐る恐るその手に自分の手を重ねる。すると、その人は彼の手を力強く掴んだ。
「よろしくな」
ルキウスとの出会いは、彼にとって正に夜明けのようだった。
ルキウスは、歪んだ彼の目からみても、完璧な人の形をしていた。
彼だけは醜い化け物ではなかったのだ。
その上、彼は、名前すらろくに名乗らず、人とは呼べない精神を持った彼を受け入れた。
正しく彼にとってルキウスは光だった。黒い醜い世界しか知らない彼にとって、陽だまりであり希望だった。彼がルキウスを慕うようになるのに時間はかからなかった。
……蓋を開けたら、とても傲岸不遜で人遣いの荒い王様だったのだが。
「もっと高度を高くして飛距離を上げる。だから、もっと地面を盛れ。早くしろ。俺が待っているだろうが」
「俺は今、腹が減っている。おやつを取ってこい」
「理論に間違いはないのに結果がついてこない。ふむ、試行回数が必要だ。お前、これ飲め。大丈夫だ、命は保障されている」
「何故この俺が覚える価値もない人間におべっかなんぞしなければならない。お前が場を繋げ」
黒い世界に生まれ落ち、全てを嫌うだけだった彼の人生はルキウスとの出会いで一変した。
ある意味、彼の人生はルキウスのパシリから始まったといっても過言では無い。とにかくワガママで面倒臭がりなルキウスは、彼を顎で使った。使い潰した。
何度、辟易したか分からない。彼のせいで1人の時間など一日としてなかった。やれ、あれしろこれしろと口煩く、やれ、あれが嫌だこれが嫌だと、何度仕事を押し付けられたか分からない。
しかし、その一方で、ルキウスは彼に新しい景色を……色を見せてくれる。
どこまでも続く青く澄んだ空を初め、菓子の食欲をそそる輝く焼き色も、陽に照らされた天然石の鮮やかさも、サボって抜け出した裏庭の爽快な緑も、彼といると目に見える全てに色がつく。
その瞬間だけは彼の目はこの世の美しさのみ映した。
だが、それは逆に言えば、彼の目はルキウスがいなければ、全て元の……黒に覆われた世界しか見せないということだった。
「まぁ、✕✕✕✕伯爵! 聞きましたわよ、✕✕✕✕の事業を見事成功させたとか! どうでしょう。人手が足りないでしょう? 我が領の人材をお貸し致しますわ。とっても優秀ですの。きっと貴方の技術も直ぐに覚えられますわ。我が領に広められるぐらいに」
「おやおや、✕✕✕✕男爵。随分シワだらけなお召し物で……どうかなさいましたか? 最近、✕✕✕✕の商売に失敗したそのせいですかな? お可哀想に! 港の連中が買い占めなければ成功したでしょうに。お労しや。
……おや? 私の差し金?
いやいや何のことですかな? 私ほど良い人間はおりませんのにお疑いになるなど……ふふっ、そんなことを私になさると、明日には襤褸を着て地べたを這うことになりますぞ」
「傑作だった。✕✕✕✕侯爵と呼ばれていた男も落ちたものだよ。まさか他国との違法取引に加担していたなんて、そんなことすれば、直ぐに首をしょっぴかれるって言うのに馬鹿なヤツ。
え? 捏造の可能性があるらしいって?
いやいや、財務副長官様直々に調査した事件だぞ。捏造の可能性なんて万に一つもないさ。
……まぁ、あるとしたら、出る杭は打たれるって言うだろう? それだけの話さ。何が国の発展の為だ。自分一人だけ儲けようなんざ許されるはずがないだろう?」
どこに行っても下卑た笑い声が聞こえる。
欲に溺れ、金に目が眩み、悪性に塗れた、そんな狂った化け物が、彼の目の前を這い回る。
虫唾が走り、全身の毛という毛が逆立つ。
そして、そんな光景を目にする度に、彼の脳裏に過ぎるのだ……。
汚らわしいこんな世界、存在してはならない。壊さなくては。滅ぼさなくては……と。
その声が、その本能が、まるでその為に自分は存在していると告げるように、けしかけてくる。
その声に従い、何度、彼はこの世界を壊そうとしたか分からない。
彼らの汚さ、醜さ、質の悪さを見せつけられる度に、彼らに対する嫌悪は増していく。
だが。
「兄弟、準備しろ。海に行くぞ」
「兄弟、買い物に付き合え」
「兄弟、望遠鏡持て、観察に行くぞ」
ルキウスにそう呼びかけられると、自分の嫌悪感など、不思議とどうでも良くなる。そして、どんなに汚く見えていた光景も、ルキウスがいると明るく綺麗に見えるのだ。
だから、彼はこの世界を壊すに壊せなかった。
この黒に塗り潰された世界は、自分とルキウスが生きる世界でもある。壊したら最後。この目に映る鮮やかな色は消えると考えると何も出来なかった。
だから、彼は幼いその時には察していたのだ。
自分がこの世界を壊すとしたら、ルキウスを失ったその時だろうと。




