五日目
残酷な描写アリ
アマンダの泣き声が聞こえる。
必死に何かを訴えているのに、言葉が耳に届かない。
そして、シェリーの小さな手が虚空に消えていった。
飛び起きると、全身が汗で濡れていた。胸の奥をぎゅうと握り潰されるような痛み。
「……ああ……」
声にならない呻きが漏れる。額を押さえても、耳の奥にアマンダの泣き声がこびりついて離れない。
気を紛らわせるように立ち上がり、鉄の扉を叩いた。
乾いた音が塔の奥に響く。誰も来ない。返事もない。
やがて力尽き、扉にもたれかかるように座り込んだ。
目を閉じると、次々と記憶が流れ込んでくる。
──シェリーの二歳の誕生日を祝ったことがない。
プレゼントを買った気がするのに、それを渡した記憶がない。
あぁ、そうだ。僕は、二人を守れなかったんだ。
警邏の詰所に安置された二人の遺体を、僕は呆然と見下ろしていた。
布に覆われた何かの塊、その隙間から小さな爪先がのぞいていた。
職員の一人が低く告げた。
「奥さんは河原で、娘さんは少し下流で木の幹に引っかかっていたようです」
言葉が耳をすり抜ける。
目の前の光景が理解できなかった。アマンダの顔は穏やかさを失い、虚ろに見開かれた瞳はもう焦点を結んでいない。
そばに置かれた小さな布に包まれたものがシェリーだと告げられ、膝が抜けるように崩れた。
「どうして……」
声にならない。震える手でその布の端を掴む。目の奥が熱くなるが言葉は出てこない。
「誰が…誰がこんなことを!?」
啜り泣く僕に、職員は気まずそうに告げた。
「……目撃証言では、現場付近に貴族の馬車が止まっていたそうです」
その言葉に僕は思わず顔を上げた。
「貴族……?」
職員は唇を噛み、視線を逸らした。告げられたのは、学園時代からアマンダをつけ回していた貴族の名前だった。言いようのない怒りが胸の奥に込み上げる。
間違いない! アマンダとシェリーを害したのは、あの男だ!
次の瞬間、隊長らしき男が慌てて口を挟んだ。
「余計なことを言うな! この件は上で処理済みだ!」
怒号が詰所に響き、僕の頭は真っ白になった。
処理済み? 何を、誰が、どうして?
役所に何度も行き、僕は必死に訴えた。
「妻と娘が殺されたんだ! なぜ罰しない!」
だが、役人は冷ややかな目で門前払いをする。
「その件に関しては処理済みです。お引き取りを」
怒りと無力感に打ちのめされた僕は、狂ったように魔法陣の研究に没頭した。机の上は羊皮紙とインク壺で埋まり、指先は擦り切れて血で汚れた。
「必ず、報いを受けさせてやる……」
夜も昼もなく呪文を組み上げ、円環を描き続ける。
同僚のエドマンが何度か様子を見に来た。
「お前、少しは寝ろ。そんな顔をしていたら倒れるぞ」
「……放っておいてくれ」
心配する声を振り払った。眠ることなどできなかった。眠れば夢が蘇る。僕を呼ぶアマンダの声、シェリーの笑顔…。目を覚ませば全てが消えてしまう。それが何よりも恐ろしかった。
二十年が過ぎた。完成した魔法陣を前に、僕は震える声で呟いた。
「やっとだ……やっと、あいつに……」
そこまで思い出して呼吸が乱れた。喉の奥が焼けつくように痛む。床に膝をつき、嗚咽を押し殺す。
──僕は、アマンダとシェリーを守れなかった。
何もできず、ただ喪った。
鉄扉の向こうから、かすかな気配を感じた。
「……ダニエル、いるのか」
沈黙が続く。返事はない。
それでも僕は、誰かに語らずにはいられなかった。
「アマンダとシェリーは、僕のすべてだったんだ」
声が震える。
「守れなかった。僕は……何のために生きているんだろうな」
泣き笑いのような声が狭い部屋に響き、やがて途切れた。
それからどれくらい経ったのだろう。
外で騒がしい音がした。ざわめき、怒鳴り声、何人もの足音。鉄扉の前で人の声が交錯している。
「お下がりください! ここは立ち入り禁止です!」
「私は家族なのよ! 夫に会わせなさい!」
心臓が跳ね上がった。
家族? アマンダ? シェリー?
血が沸き立ち、立ち上がって扉に駆け寄る。
重たい錠が外され、鉄扉が軋んで開いた。
光が差し込み、着飾った中年の女性が姿を現した。
宝石の指輪に彩られた手が、僕へと伸びる。
「……ルーカス!やっと会えたわ!」
その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
『ルーカス』
俺の名前は、アランではなかった。
──ルーカス・グランヴィル。
アマンダを追い、シェリーを奪い、あの幸せを踏みにじった貴族だった。
「……遅かったか」
いつの間にか駆けつけていたダニエルが、扉の外で天を仰いだ。
中年女性は彼を振り返り、毅然と告げる。
「夫を連れて帰るわ」
「時期尚早です。グランヴィル卿は、まだ混乱されています」
必死に止めようとするダニエルの声を、女性は冷ややかに遮った。
「外聞が悪いのよ!記憶喪失になって塔に閉じ込めていたなんて!噂になっては困ります」
僕の腕は女の手によって掴まれ、そのまま強引に引きずられていった。足元がおぼつかない。抗う力はもう残っていなかった。
廊下を抜け、陽光の射す外へ。
目が眩む。
待ち構えていたのは、豪奢な馬車だった。金の装飾がきらめき、内装は柔らかな布で覆われている。
僕は無理やり乗せられ、扉が閉ざされた。
車輪が軋み、馬車はゆっくりと動き出す。
揺れは驚くほど穏やかで、背を預けると身体が沈み込んだ。
まるで夢の中にいるようだった。
──家に、帰るのか。
だが、俺には「帰る家」がどこなのか、もはや分からなかった。




