その名は――卑猥よ? お呼ばれして、彼の新しいペ…―、同居人と会った話
彼女の期待は――大概ではあるが、とても乙女らしいものだった。
ふふふんふ~ん。
鼻歌が自然と。
だって、久々のお呼ばれだから。
だって、大学生になって、やっと、やぁっと。初めてのお呼ばれだから。
今日こそ。今日こそは。手を出して欲しいものだわ。
付き合って何年よもう。
もう一桁年なんて越えてしまってるのよ。
どうして、恋人通り越して、熟年夫婦みたいになってるのよ。
間が抜けてるじゃないの。間が。
鏡に映った自身の額の皺に、はっとして。
作り笑いをした。
力を抜いた。
間抜けに微笑んでいた。
そうよ。だって私は期待しているもの。今日という日に。
大学生以降、という境目。それに踏み入れて初めて、だからこそ。
幼い……。我ながら。
少女漫画の中でもちんちくりんな主人公の、顔を小さくして、美人系のパーツと配置で揃えた顔。他者に対して私を表した、私がいないという認識の際の彼の言なのだから笑えない。何せ、彼はそれを口にして、まるで一切の照れも自慢も無かったのだから。
所詮私は、上背も無いし、凹凸も無い。抱き心地の悪そうな女だものね。
すらっと長く、白く細く、無駄毛なんて無縁の自慢の手足。青いフリルスカート。白い無地のTシャツ。胸元にリボンが付いたものと迷ったけれど、実際に着てみてあまりに膨らなかった。その虚しさから、私はリボン無しを選んだ。
未だ、小学生ならよかった。未だ、中学生でも、辛うじてよかった。だって、未来があるかもしれないもの。でも、大学生になってこれは。救いようがない。
顔立ちが、幼げじゃあないことだけは、良かった? 素直に良かった……とはいえないかもしれない。
ショタに告白される外見詐欺な大学生、なんてものにはお蔭でならずに済んでいるけれど……。
この、短く、肩に掛かるか掛からない程度のショート。右に流してピン留めした前髪。黒くて、艶があって、目力が強いらしい。確かに、偶に怖がられるけど。
気にしてるんだけどなぁ……。
でも、そのお蔭で、この見掛けの割にはガキに見られないから、帳尻は取れているかもしれない。
二重にしようか彼に相談したら、必死に止められたけれど。悪い気はしなかった。
さて。そろそろね。
夏とはいえ、これはあまりに涼し過ぎる。どうせ、三つ隣。人目を気にする事態に陥る筈もないのだから。
自分の部屋を後にした。
彼の部屋。
薄暗い。
私だけが照らされている。彼の後方から光源が、私を照らしている。
窓もカーテンも閉め切っていて。
それなりに暑い今日の暑さを無かったことにする位、クーラーがガンガンに効いている。
薄暗さにも十分目が慣れて。
小学生の頃から使っている学習机。すっかり固くなって色褪せた青の座面のぐるぐる椅子。
下衆い表情を浮かべているんだろうな。こっちを向いて、足を組んで座る彼。
こんなのが幼馴染で、自分の男だっていう事実がきっつい。受け入れたのは私自身だけど……。
彼は指先をこちらに向けている。
私を地べたに座らせて。カーペットの上なのだから別に酷いとかそんなことないけれど。
くっそ逆光になっている。
彼の姿は半ば影絵のよう。
頬。あ。おちた。気のせいじゃ……なさそう……。汗、ね。こんなクーラー、ガンガンの部屋で汗なんてかく?
すっ、と右手を前にかざし、手の甲を下にして、何かを渡す、でもない。だって掌の指はそのうちの四本が曲がっているから。
唯一。のびているのは人差し指。
そんな彼の指先だけはよぉく見える。見える……。見え……、る……?
ナニカ、のっている? ちょこんと。部屋の隅のホコリの塊くらいに小さい。
むし? むしっぽい。むしだこれ。むし。
ぴかっ。
一瞬まぶしさを感じた。
虫眼鏡?
彼のあいていたもう片方の手が、翳された指先の前に、虫眼鏡を添えつけた。ぴくぴくしてるから結構無理してそうだけど、まあ、見える。ちゃんと、できてるよ。
うん。むしだ。むし。むしだね。むし。
へんなむしだね。
はねがあるね。羽じゃなくて、翅。
それはいいんだよ。うん。
扁平じゃあないね。三角錐っぽい形だね。ちょっと縦に長いね。腹側を若干見せるように沿ってるね。若干蝉っぽくもあるね。あんなデカくないし、蝉の裏側みたいに気持ち悪くないけど。
そんな胴体は短いね。短小だね。……? なにかに似てるね。うんうん。うんうんうん。ザリガニだね。当然あんなにはデカくないけどね。手足と胴体のそれ。まさしくそうだよ。でも、鋏脚は矮小だね。……私の知っているアレだとするなら、ザリガニっぽい鋏脚は矛盾……。
気を取り直して。
うんうん。つの、だね。枝についた木の実、みたいな。分かってるって。スルーしないって。まさしくこいつならではの特徴、だよね。
二本はえてる。それぞれに身が二つ。んで、もじゃもじゃだね。実のまわり。
実……? 本当に……? 実は、目、だったりする? ザリガニの目となんか似ているともいえなくないし。でも……毛……。睫毛……? う~ん……。
「わ……。我が名はボッキディウム・チンチンナブリフェルム! 復唱せよ、小娘!」
クーラーの横風に耐えながら、それは確かにそう言った。
うん……ひどい……。色々と。
「……。ヨツコブツノゼミ。いいよね。意味いっしょだし」
彼の溜め息が聞こえた。
腹が立つ。
「…………。まあ、良い」
彼じゃなくて、お前が言うんかいっ? いやさ。溜め息そのものが彼の答えそのものでもあったのだし、お前も別に見解返してもいいけどさぁ。いっしょじゃん。彼と。見解。
「腹話術じゃなさそうね」
「嘗めるな小娘!」
「あぁん? 嘗めてんのはそっちでしょうに。それに、口どころか、目も顔も、というか表情も糞もないそんななりで凄まれても、怖い筈がないでしょう」
「なら、我にも考えがある! こうだ!」
ぶぅううんんんんん――
ぴっ。
「な……なにぃいいいいいいいいいいい!」
「私、虫とか平気で触れちゃうのよ。彼から聞いてない?」
人差し指と親指で、飛来してくるそれを掴んで、目の前まで近づけただけ。むしの癖に、若干というか……結構柔らかい気がする……。ソフトシェルな感じ?
「き……貴様ぁああああああ!」
と、器用に首……? 首? を傾けるように。上と下から抑えられているにも関わらず、彼の方を向いて、多分、彼に向けてそう言った。
彼は溜め息を吐いた。少しばかり、頭を抱えるように。首を項垂れながら。
「ねぇ。何のつもり?」
私は彼に向かってそう言った。
苛立ちがある。
残念さに心がぐったりしそうになる。
私は今日、限りなく、彼の男らしさなんて、ありもしないものに、限りなく大きく期待して、ここへ来たというのに。
服の下だって。準備はしっかりと……。しっかりと……。
「小娘よ……。分かってやれよ……とは、言えんよなぁ……。どう言えばいいものか……」
「何よ。喋るボッキディウム・チンチンナブリフェルム。矮小でふにゃふにゃの癖に!」
すると、それは再び、ぐるんとこちらを向いた。
やろうと思えば、私の指のはさみから、容易くこいつは逃れることができそうに思えるが、どうしてそうしないのか。
「我にようなものに縋る男なのだ。そして、我が名。この男が期待したのが何か! 貴様がそれが分かるような察しの良い奴なら、こうは拗れんかっただろうになぁ」
「何よ! 訳知り顔で! 顔なんて無い癖に!」
「若干錯乱してないか? 貴様」
「私だって察して欲しいのよ! 私が今日どういう気持ちで、ここに来たと思ってんの!」
ああもういい。
そう思って。
目を瞑り、スカートをぐわんとたくし上げた。
「ほらの。我の言った通りであったであろう。我は出掛ける。今日は戻らん。主よ。これでまだ、もしも思い違いだったら、なんて言うのならば、我が権能で…―」
声は途切れた。目を開けると、羽音すら無く、むしの姿は消えていた。指先にも何かを挟んでいる感覚はもう無い。
彼も、消えていた。椅子に、彼がいない。
びくり。
下から。
彼の息遣いを感じた。
遮るものは何もない。隔意はきっと、もう無いのだから。夢かもしれない。それでもいい。今だけは、これから始まる甘美に、身を任せたい。そう思うから。
あの喋る虫の正体も。彼がこの謎のシチュエーションを整えたことも。事が終えてから。それでいいのだから。
【余談(彼女の脳裏に浮かんだ、かの、むし、についての情報)】
ボッキディウム・チンチンナブリフェルム(Bocydium tintinnabuliferum)
偶々よ。本当に偶々なの。ラテン語で命名されるというルールに則って、付けられた学名が、偶々、日本語読みしたら、そうなるっていうだけなの。よくある話よ。よくある話。空耳ってやつよ。
ただ、こいつの場合、複数形にしたら、 ボッキディウム・チンチンナブリフェラ(Bocydium tintinnabula)って、卑猥度が更に上がるし、学名を構成する一部である、tintinnabulumの意味が、本当に偶々なのっ? て、疑わせてくるのよね。
そういう意味で、ネットのおもちゃ的な人気のある、数あるネタ生物のうちでも、こいつの芸術点は極めて高いと言わざるを得ないわ……。酷い空耳よね。空耳なんてそんなもんだけどね。
【余談終えて、ちゃんとしたあとがき】
彼の期待もその為の準備も――大概であるが、もしかすると、ある意味浪漫あるものだったかもしれない。
何れにせよ、破れ鍋に綴蓋。そう締めくくっていいと思う。顛末なんてものは蛇足以外の何物でもないのだから。