(6)
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「…………まんが」
その名を、ルーティアは呟いてみた。
武術書や魔物の生態に関する学術書は何度も読んだ事がある。
それは自分の強さを高めるため。スキルを向上させるためにやっていた事だ。
面白い、つまらないの観点ではない。自分自身のために。本とは彼女にとってそういう存在であった。
しかし、マンガという存在は、聞くところによると絵と文字で構成された娯楽的な本である。
教養的な面があるマンガも多いとは聞くが、こう数が多いとルーティアにはそれが分からない。
本という存在と、娯楽という観点が彼女には全くマッチせず、しばらく本棚の間を行き来しては目に付いたタイトルを心の中で読んでみる事に注力していた。
どれを読めばいいのか。その答えは出そうになかった。
「あれ。まだ選んでるの?アンタ」
腕組みをして本棚を睨むルーティアを見かけたリーシャが近づいてくる。
手に持った籠には、数冊のマンガが既に入っていた。どうやら読む本を決めたようだ。
「……どれを読めばいいのかさっぱりわからん」
「まあ、ルーティアのことだもんね。マンガなんか読んだことないんでしょ」
「……ああ。リーシャは、どんな本を読むんだ?」
「へっへっへ。わたしはコレ。前から読みたかったんだよね~♪」
嬉しそうに籠の中に入っている本をルーティアに見せてくる。
表紙にはカワイイ絵柄の犬や猫。それに白衣を着た女の子が描かれている。いずれも力強いタッチではなく、淡い色使いの繊細なイラストだ。
「ある日動物の声が聞こえるようになった女の子が、実家の獣医のお手伝いをするところから始まるお話なの。出てくる動物がカワイイんだ~♪」
「なんで動物の声が聞こえるんだ。そんな事が可能なのか」
「ばーか。どうしてそうなったのかを知っていくのがマンガの楽しいところじゃん。現実にはあり得なくても、マンガは自由に空想の世界に飛び立てるから面白いのよ」
「…………。ふむ」
自由に、空想の世界に。
本にそういう読み方があるのは、ルーティアにとって新鮮なものだった。
現実の知識を自分の中に取り入れるのは興味深い。
しかし、空想の知識を自分の中に取り入れるのは……どういう感覚なのだろうか。
考え事をしていると、リーシャはいつの間にかルーティアのところから離れて自分の席に座っている。
にやにや微笑みながら、片手で自分のとってきたマンガを開き、片手では既に二杯目となっているジュースを飲んでいた。すっかりこの場所を楽しんでいる様子だ。
…………。あれ、なんで私は、マンガ喫茶なる場所でこんな事を?
疑問が頭に浮かびそうになった時。
今度は隣にクルシュが歩いてきた。
「お困りのようですね、ルーティアさん」
「……クルシュ。ああ、実は……私はどうしてここでマンガを選んでいるのかわからな――」
「読むマンガに困っているのですね。読んだ事のない人は誰しも経験する事なのです」
ルーティアの疑問は、クルシュの言葉に掻き消されてしまった。
「ルーティアさんに、面白いものを見せてあげるのです。これはボクが独自に調査をした、オキト国のマンガの売り上げランキングなのです」
「ランキング?」
クルシュはローブのポケットから一つのメモを取り出してルーティアに渡した。
その紙には、クルシュの丁寧な字で様々なマンガのタイトルが書き記されている。幾つかは、この本棚の中にあったタイトルだ。
メモを心の中で読み上げるルーティアに、クルシュはアドバイスをした。
「困ったら、王道から入るのがいいのです」
「王道?」
「そのメモに書いてあるのは、この国の書店で過去数十年に渡って売れたマンガをランキング形式にした、僕の調査記録なのです。記録には数年かかりましたが、データは確実なものです」
「…………どうしてそんな事を」
「趣味なのです」
神童、と呼ばれる少年の趣味は、ルーティアには理解が出来なかった。
「売れているマンガが必ず面白いとは限りません。ですが、海路に悩む航海士の羅針盤にはなるのです」
クルシュは背伸びをして、本棚の上にある一冊のマンガを手に取る。
「騎士団のエースであるルーティアさん。マンガを読んだ経験はなく、それがどんなものなのかも未知数。だとすれば、王道の少年マンガからまず入門するのが鉄則なのです。……というわけで」
クルシュは手に取ったマンガを、ルーティアに手渡す。メモと一緒に手に乗せたそのマンガには、ツンツン頭の少年が元気な表情で描かれていた。
「その本は、そのメモで1位となっているマンガなのです。願いがかなうという龍のオーブを探して少年が諸国漫遊の旅をする冒険活劇。僕からルーティアさんへのオススメなのです」
「……な、なるほど……。それは、面白そうだ」
何故だろう。
マンガ、という存在を初めてルーティアは手に取る。
その中身を見た事はおろか、触れたのも今初めてなのに……。
表紙を見ただけで感じる、この胸のワクワクは、一体……?
まるでそれは、マンガという存在が放つ魔力にルーティアが魅了されているようであった。
「もしも肌に合わなかったのならメモを頼りに違うマンガに切り替えてみるのです。自分に合ったベストマンガを探すのも、ここの楽しみの一つですから」
クルシュはそう言い残して、自分の席へと歩いていった。どうやら既に読むマンガは決まっているようで、机に十冊ほど束になっているのが見えた。
「…………自分に合う、マンガを……」
ルーティアは、表紙に描かれたツンツン頭の少年の、凛々しくも楽しげな表情をじっと見つめていた。
――
「…………」
時間が、過ぎた。
それだけは、分かる。
しかしそれが何分なのか、何十分なのか……いや、ひょっとしたら、更に過ぎているのかもしれないが、それが分からない。
ルーティアは、本のページをめくる。
ツンツン頭の少年が格闘術をもって敵を圧倒して打ちのめすシーンだ。
「おお……」
この国で最も売れているマンガ。その看板に、偽りはなかった。
ハラハラするバトルシーン。仲間とのコミカルな会話に、笑いがこみあげるギャグシーン。
少年が強大な敵に立ち向かうため、厳しい修行を重ねていくところや、様々な人、魔物との遭遇。
笑えるシーン。悲しいシーン。怒りのこみ上げるシーン。それらのバランスはまさに逸材という他ない、冒険活劇の金字塔。
その面白さは、マンガを初めて読むルーティアにもどんどんと伝わってくる。
空想の世界に、どっぷりと浸かる楽しさを、ルーティアは今まさに味わっているのであった。
「よし……!敵を倒したぞ……!」
気付けば主人公の少年と心を通わせているルーティア。
彼が嬉しいシーンは、自分も嬉しい気持ちになる。
「ええっ…!?こ、こんな事が……!?」
意外な事。はっと驚くシーンになれば、自分も驚く。
「……そ、そんな……。どうして……っ」
悲しいシーンには、自分の目も思わず潤む。
ページを進めるたびに、シンクロしていくマンガとルーティア。
絵と文字だけで構成されたマンガという書物には、それだけ人を魅了し、没頭させる魅力があった。
「……む」
ぐぅ、とルーティアのお腹が鳴る音がした。
そういえば、今はどのくらいの時間であろう。
カーテンで締め切られ、魔法のランタンの光が常に照らしているこの施設の中では時間の感覚が麻痺する。
ルーティアはオープンスペースの壁にかかっている時計をチラッと見た。
「……え!?」
そして、マンガに戻そうとした目線を時計に向き直させ、驚愕する。
四時間。
既に、このマンガ喫茶に入ってから、四時間が経過していた。
「ば……馬鹿な、これは、一体……!?」
驚愕するルーティアに、クルシュが怪しい微笑みを浮かべて小声で話し掛けてきた。
「ふふふ……ルーティアさん。かかったようですね。マンガ喫茶の魔力……『時間の幻術』に……」
「そ、そんな……昼をとっくに過ぎているじゃないか……!」
「これこそ、この場所の魔力。没入率の圧倒的に高いマンガという書物には、時間の感覚を狂わせる強力な幻術が仕込んであるのです……。積み上げられた冊数が、なによりの証拠なのです……」
「す……既に私は、12巻に手を出しているではないか……!!い、いつの間に……!!」
「ふふふ……もう、お分かりですね。この場所に僕が出入りしている理由。その理由が……!!」
「アンタら、もうちょっと静かに読みなさいよ……!!」
リーシャは恥ずかしそうに顔を赤らめ、口元を自分のマンガで隠して周りの目を気にしながらクルシュとルーティアに怒りの小声をぶつける。
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