第一章 013 彼女編 Aパート
わたしと人くんが出会ったのは幼稚園の頃だった。
このときからわたしは世界で一番可愛かったのだけど、いまと違うことが三つある。
一つ目は、習い事を一週間で二十個こなす、とても多忙な毎日をすごしていたこと。
二つ目は、お父さま、お母さまと三人で暮らしていたこと。
そして最後は、人くんに触れられなかったこと。
わたしが人くんと初めて遭遇したのは、習い事の帰り、夜十一時のことだった。
当時の人くんは、生まれもった体質をうまく使いこなせず、光すら吸収してしまう真っ暗な存在だった。
わたしはその形の奇妙さにひかれ、道路の真ん中を車にぶつかられながらも、平気な様子で突き進む彼の姿に憧れた。
その日からわたしは人くんの背中にくっついて彼の行動を観察することにした。
もちろん、お父さまとお母さまに心配をかけないよう、習い事は通いつづけた。
だけど、習い事というのは月ごとに何かしらの到達目標があって、それをクリアすれば好きなことをやらせてくれる。というところが多かった。だから、わたしは人一倍がんばって月間目標を早々に終わらせ、残りの時間は自由時間ということで、習い事を抜け出し、人くんのあとを追った。
人くんはいつも周りのものおかまいなしに進んでいたから、人間の悲鳴が聞こえるところに行けばすぐ会えた。
その頃の人くんは、目も耳も触覚も何もかもを感じていなかったらしいけど、自分の周りをいつもうろちょろしている小さな生命エネルギーには気づいていたみたい。真っ黒な人くんとわたしはこの頃から知り合いになった。
ある日、いつものように夜遅くまである習い事を抜け出して、人くんと一緒に街を徘徊していたとき。
急にわたしは目がまわって歩けなくなった。
ああ、これが過労というものね、と幼稚園児ながらに思ったのを覚えてる。
アスファルトに仰向けに倒れたわたしは、ひさしぶりに見る満月を眺めながら、迫り来る死というものを体感していた。
頭は割れるように響き、胃は焼けるようにむかむかする。四肢が岩のように重く、いうことを聞いてくれなかった。ただ、アスファルトの揺れだけが、遠くから近づいてくる車の存在を伝えていた。
わたしは死ぬのだと思った。
習い事に明け暮れさせられた日々は、わたしの人生の中で最大の汚点と言えるけれど、真っ黒な何かと出会えたのはうれしかった。そんな走馬灯だった。
車のライトがわたしを照らし、タイヤがわたしの耳を踏みちぎろうとしたとき。
人くんがぽんっと車に触れた。車はぴくりともしなくなった。
人くんがぽんっとわたしの頭をなでた。すると、わたしの体はみるみる軽くなった。
いままで感じたことのない体の快適感。
わたしは疲労を背負わない体を手に入れた。
そして、わたしにとっての大きな変化がもう一つ。
それまで黒くて見えなかった人くんの顔が見えるようになったの。
しかも、人くんもわたしのことを目で見れるようになった。
わたしは月の光に照らされ、金色に染まった人くんの姿をいまでも覚えてる。毎日夢に見る。
あの瞬間からわたしの人生が始まった。人くんに一歩でも追いつくという生きる目的ができた。
――だから、わたしは人くんのためなら、鉄骨を人間の頭上に落とすこともためらわない。
わたしは校舎の屋上で、昨夜運び込んだ大きい鉄骨を持ち上げながら、女ども二人と、その姿を見守る椰戸部人の姿を、勇姿を、黙って見下ろしていた。




