第一章 011 捜査編
僕と白咲は陸上部の練習が終わる頃を見計らって、伊陀夏織が仲良くなりたい一年生女子、浄瑞乙羽に話を聞くべく、女子更衣室の出口を見張っていた。
なんら下心のない僕には、磨りガラスごしにみえる人影で、浄瑞乙羽が練習着から制服に着替える姿が悠々と想像できる。
――さっきからずっと白咲が僕の足を踏んでくるのはなぜなのか。
下心が全くない僕には見当もつかなかった。
「人くん、浄瑞さんが更衣室から出てきたわよ」
浄瑞乙羽の姿形が分からない僕は白咲におめあての女子を判別してもらうしかない。
学校生き字引の白咲は全学年の生徒の名前と顔が一致するらしく、ちょっとした個人情報まで知っているため、顔が狭い僕にとしては、非常に重宝する。
「いつまで鼻の下を伸ばしているの。たまには人くんから知らない人間に話しかけてみてはどう。あなたの人見知りもそろそろ治さないと不便よ」
冒頭部分は理解に苦しむが、どうやら白咲は僕のことを思って言ってくれているらしい。
伊陀夏織と仲たがいした直後である。ここで白咲に僕のコミニケーションスキルを披露するのも悪くない。
それに、僕にはもう、砕けるハートの欠片すらも残っていないのだった。
「浄瑞乙羽というのはお前か?」
僕は伊陀夏織戦の序盤、下手に出すぎたという僕なりの自己分析を元に、浄瑞乙羽には本来の僕の姿そのままで臨むことにした。
「はい……そうですけど、何かご用ですか」
突然物陰から現れた、あろう事か声までかけてきた僕を、ポニーテール姿の浄瑞乙羽は不審そうな目で見てくる。
「僕は別に怪しい者ではない。ちょっと浄瑞乙羽に聞きたいことがあって来ただけだ」
浄瑞乙羽は運動部であることを悟らせないような色白の顔で僕の顔面を下から凝視してくる。
瞳は大きく、高校生というより中学生を彷彿させるような幼い印象をうける。
「まずはあなたの名前ぐらい、名乗ってくれませんか」
身長は女子の平均よりやや下といったところだろうか。必然的に上目遣いになる浄瑞乙羽の視線はどこまでも真っ直ぐで、常人と話す機会が極端に少ない僕には居心地の悪さを感じさせる。
「それはすまなかった。僕の名前は椰戸部人。この学校で一年生をやっている。自己紹介も終わったことだ。早速本題に入るが異論はないか、浄瑞乙羽」
「言いたい事はたくさんあります。ただ夏織部長から時間を貸してあげてと申し付けられいるので大目に見ます」
「それは助かる」
僕は伊陀夏織の根回しの良さに、少し感服した。
「ですがひとつだけ、気に入らないことがあります。私の名前をフルネームで呼ぶのはやめてくれませんか。長ったらしくていらいらします」
「分かった。これからは乙羽と呼ぶことにする」
僕はこれまた伊陀夏織のときの失敗点をしっかり修正した。
――女子は下の名前で呼ばれるのが好きなのか。
僕の中に実体験に基づく、生きた教訓が蓄積された。
「なっ、何でいきなり下の名前で呼ぶんですか! なれなれしいにもほどがあります!」
こいつは噂に聞く、照れ隠しというやつだろうか。正面の乙羽は目に涙を溜め、彼女のもつ瑞々しさが倍増している。
後ろから白咲の邪気を感じたが、意味が分からないので無視することにした。
「乙羽、そろそろ話を始めたいのだが構わないか」
「もう勝手にしてください!」
声を荒らげ、興奮気味の乙羽はすんなり僕の言うことをきいてくれる。
伊陀夏織から得たデータを元に改造した僕の会話術が効果を発揮しているようだ。
「では遠慮なく、伊陀夏織について乙羽に問いただしていく」
「ちょっと待ってください。夏織部長について私、いまから尋問されるんですか」
「何か問題でもあるのか」
「いっ、いえ、特に困るというわけではないのですが……」
乙羽はちょっと前までハキハキと、歯切れよく受け答えしていたのが嘘だったかのように、まごついた口調になってしまった。
やはり伊陀夏織に関することは聞いて欲しくないらしい。
しかし、ここで追及の手を緩める僕ではない。
「なら最初の質問だ。乙羽は伊陀夏織のことが嫌いなのか」
「そんなことはありません! むしろ私は夏織部長を心からそっ、尊敬しています」
「本当に尊敬しているだけか?」
「もっ、勿論ともです」
乙羽の歯切れは依然悪く、日本語も崩れ始めた。明らかに動揺している。何故だかは分からないが、顔もほんのりと赤くなっている気がする。
「尊敬している伊陀夏織のタオルを一ヶ月ほど借りたままとの情報が入っているが、これはどういうわけだ」
「そっ、それはちゃんと洗濯して、アイロンもかけて返そうと思ってたんです」
「一ヶ月延滞の理由説明になっていないが」
「わっ、私にだって事情があるんですよ。本当に汚れとか臭いとかとれたか心配で、何度も洗濯機にかけたらバサバサになっちゃて……」
「もはや嫌がらせじゃないか」
「うるさいです。私だってがんばったんです」
何を頑張ったのかはあえて聞かないことにした。乙羽の伊陀夏織に対する闇は予想以上に深いようだ。
「じゃあ、炎天下の中、練習中に伊陀夏織のドリンクを飲み干したのはなぜだ。嫌がらせに他ならないと僕はおもうのだが」
「嫌がらせではありません! ただ夏織部長がわざわざ私なんかのためにくださった水分を無駄にはしまいと思っただけです」
「乙羽は世間知らずなのか」
「うるさいです。私だって羽目をはずしすぎたと反省しました」
乙羽の顔はもう間違いなく真っ赤に染まっており、瞳はぐるぐると渦を巻いている。
僕が何かを言うたびに、両手の握り拳を胸の前で揺らしながら、反抗してくる。
――これは何か隠してるな。
僕の微妙に尖った直感が、僕にそう告げていた。
「最後の質問だが、伊陀夏織と同じ順番で走るのをわざと敬遠していると聞く。その理由は何だ」
「それは、あまり言いたくないです」
僕はこれまでの乙羽との会話から、乙羽の伊陀夏織嫌いは、伊陀夏織の人間としての性格、性質を嫌ってではなく、伊陀夏織の持つ、走りの才能への嫉妬から来るものではないかと考えるようになっていた。
案の定、部活での練習の話には答えたがらない。
「何を聞いても問題ないと言ったのは乙羽だが」
乙羽は僕の揺さぶりに「もう、いじる悪です」と一言文句を言いながら、答えてくれた。
「夏織部長と走ると恥ずかしくて自分の走りができないんです。どうしても隣で走ってることを意識しちゃって、胸が苦しくなるんです」
――だから伊陀夏織を敬遠し、嫌っている。
これまでの事情聴取から、乙羽が伊陀夏織を避けていることはありありと伝わってきた。
しかし、最初の僕の質問への乙羽の反応だけが、気がかりだった。
「すまない。もう一つだけ、話を聞かせてくれないか、乙羽」
「一つ増えたところで大して変わらないし、いいですど、さっきのみたいな答えにくい質問は、できればやめて欲しいです」
乙羽は嫌そうな顔はするが、基本的には協力的で、乙羽自身の持つ心の素直さが滲み出ているようだった。
だからこそ、乙羽が嘘をつくわけがない。と僕に思わせるのである。
僕はもう一度、乙羽に最初に浴びせた質問を彼女にぶつけることにした。
「本当のほんとうに、伊陀夏織のことを嫌ってはいないんだな」
「はい。ほんとうに私は夏織部長を嫌っていません」
乙羽の声はとても真っ直ぐで、どこまでも走っていきそうだった。
「そうか。なら、いい」
「何がいいのかわかりませんけど、人さんとのお話はこれでおしまいですか」
「ああ、長い間引き止めてすまなかった」
「そんなことは別にいいです。ただ、何のために私と夏織部長の仲を探っているのか。それだけは教えてほしいです」
乙羽は見た目にそぐわず、案外、勘が鋭いことに驚きつつも、ちゃっかり僕のことを下の名前で呼んでいることに、女としての底知れない恐ろしさを感じた。
「僕が青春を過ごすためだ」
「人さんの青春と、私と夏織部長の仲にどこか関係があるのですか」
「そいつは秘密だ」
「いじわるしないで、教えてくださいよ。気になるじゃないですか」
「いずれわかるよ」というくさいセリフを吐きつつ、僕は乙羽に手を振った。
「長らくごくろうさん。これで正真正銘、質問大会は終了だ気をつけて帰れよ」
「人さんも、辺りはもう真っ暗ですのでお気をつけて」
そう言って、乙羽は元気よく、玄関口を駆けて行った。
「随分と楽しそうだったわね、人くん」
ぬっと、物陰から姿を現した白咲に早速僕は悪態をつかれた。
「浄瑞乙羽はいい奴だったよ」
「とてもお似合いの雰囲気だったわよ。よかったわね。あんな私より全然可愛くない子とお近づきになれて」
「おいおい。僕はただ伊陀夏織の依頼調査をしていただけだぞ」
「ほんとうにそうかしら。だらしなく鼻の下なんか伸ばしちゃって」
白咲はぷんぷんと怒っているが、本当にご立腹というわけではない。これは白咲なりの形式美のようなものであることを、白咲との付き合いが長い僕には分かっていた。
「それで、何かわかったの」
ぷりぷりしながら調査報告を催促してきた。
「乙羽に会うまでは、十中八九、伊陀夏織は浄瑞乙羽に嫌われていると思っていたよ」
「わたしが聞いていた限りでは、その推測は十分、今回の尋問で裏付けられたと思うのだけれど」
たしかに乙羽は遠まわしではあるものの、伊陀夏織とは一緒に走りたくと僕に語った。
それは、才能の差からくる嫉妬が原因だと思う。
だけど、僕にはそれだけではおさまらない、もっと大きな、おぞましい感情が浄瑞乙羽の中に渦巻いているのではないか。そう思われてならなかった。
「いまは分からなくなってしまった」
「でも人くんのことだもの。きっと正しい答えに行き着くわ」
「軽々しく言ってくれるな」
人間の心の中を掌握する力など僕にはない。ただ、僕の心の中に引っ掛かった、知っているようで知らないあの乙羽の雰囲気は、一体何なのだろうか。
白咲の一度第三生徒会準備室にもどろうという言葉に従い、僕は女子更衣室の前を、物音一つたてず、静かに立ち去ったのだった。




