5. 上品でいいと思います
唐突に、エーダリアがディノの方を向き、しっかりと頭を下げた。
ネアが、何事だろうと目を丸くして見守っていると、ややあって顔を上げたウィームの領主は、とある王家の事情を律儀にネアに説明してくれた。
「実はな、託宣に示された迷い子を探すにあたり、王から、その者を保護次第に私の婚約者として据えよと命があった」
「……………婚約者」
「勿論、既に契約の魔物を得ていることを理由に、王都にはそれは不可能であると一報を入れている。だが、どこからその話が漏れ聞こえてくるか分からないので、そのような話があったということは知っておいてくれ」
その説明に、ネアは暫し考え込んだ。
元とはいえ、王族の婚約者になどされてしまったら、ネア一人でそこから逃げ出すのは不可能だっただろう。
そして、思ったより、エーダリアは王都からの干渉に悩まされているようだ。
「つまり、………ディノと契約していなければ、私はあなたの婚約者になる予定だったのですか?」
「折を見て破棄させて貰うつもりではあったが、その通りだ。私の方にも王の指示のままに伴侶を娶れない理由はあるが、その婚約は、迷い子を国に繋ぐ為の手段に過ぎないからな。………私との婚姻を、権力の承認として望むような者達もいるだろうが、お前はそのようなものを望まないだろう」
エーダリアは、見目麗しい男性だ。
おまけに元王子で、今はこの国で最も魔術の潤沢な土地を治める領主だというのだから、敗戦国の王家の血を引く者としての肩身の狭さはあれ、それでもと彼を望む女性も多いだろう。
だが、ネアは限定契約を申し出るにあたり、この交渉は、あくまで住まいの確保とウィーム滞在の許可を目的とした共闘を望むものであり、国の顔となるような権限や恩恵は本来は望まないのだと付け加えていた。
そんな説明をしたのは、エーダリアの慎重な態度のどこかに、ネアが、ディノの真意を推し量ろうとしていた時と同じ、探るような気配を感じたからだ。
今回の言葉を聞いて、そこまでの意思表示をしっかり済ませておいて良かったと、ネアは安堵する。
(でも、ディノと出会う前にここに保護されていたら、私はこの方が納得していないその婚約者の肩書きを、見知らぬ世界で暮らすのに必要な保険として欲してしまったかもしれない…………)
そうしたら、ネアをその手の人種だと考えるエーダリアは、こんな風にネアと誠実に話し合ってくれる人ではなかったかもしれない。
幸い、ディノが早々に味方になってくれた事と、元の世界に戻れると教えて貰った事から、本当は望んでいない婚約などにネアが縋る必要はなくなった。
このような場面でも感じるが、備えがあるということは、選択肢を広げる手段に他ならないのだ。
食後の美味しい木苺の小さなタルトまでをいただき晩餐を終えると、ネアは、早速魔術可動域とやらを計測して貰うこととなった。
(おや、……………)
ネア達との契約を終えた事を、王都に知らせるのかもしれない。
食後に一度席を立ち、エーダリアは護衛騎士の男性と何かを話していたようだが、なぜだかこの騎士があまり印象に残らない。
造作が薄いということではなく、それどころか、微かな目元の皺が柔和さを添え、いいお父さんになりそうな木漏れ日のような微笑みがとても素敵な男性だ。
本物の歌乞いでもあるというその騎士の契約の魔物も共にいて、そちらも、儚げな雰囲気の美青年といった感じでとても美しい。
それなのになぜか、記憶の中では、二人の印象がぼわんと滲んでしまうのだ。
(…………魔術は、こんな風にして影響を及ぼすものなのだ…………)
理由は分かっている。
この現象については物語のあわいの特性であるらしく、あわいを形成している本の中には出てこないものの、物語の構成上存在しているような人物はそうなるらしい。
ディノによると、実際に彼らはエーダリアの護衛騎士とその契約の魔物として、外側の世界にも存在しているのだそうだ。
だからこそ、本には記述がなくてもここにいて、その結果、ぼんやりとした印象になってしまう。
(物語の中に入り込んでいるのだと自分で考える以上に、ここは、不思議なところなのだわ。……………規則性のようなものを知らないまま一人でいたら、きっと怖い思いもしたのだと思う……)
それもまた物語の仕様だが、ディノに会えて良かったとしみじみ感じてしまう。
「さて、計測と観測を済ませてしまおう。可動域と抵抗値、そして、こちらは登録上必要になる余命観測となるが、…」
「む。………余命」
「……………魔術を無計画に使えば、削られることもあるものなのだ。労働環境に問題がないかどうか、国内の歌乞いは登録の際に必ず観測するものだからな」
「まぁ。しっかりした制度があるのですね……………」
(もしかして、エーダリア様の歯切れが悪いのは、歌乞いの契約が人間の命を削るものだからなのかしら…………?)
であれば、ディノはその限りではないと教えてあげたかったが、それは魔物側の秘密のようなので我慢する。
そしてネアは、いよいよ、この世界での自分を知る為の測定に挑んだ。
まずは可動域だったが、こちらは角が丸い正方形の懐中時計のようなものの表面に指先で触れると、触れた人物の数値が計測される。
森の出口で出会ったエーダリアが、一目でネアの可動域が低いと見抜いたように、大まかな予測値は、魔術師であれば目視で判断出来るものらしい。
この数値は生涯変わらないものとされ、ある程度の年齢で計測が済んでいる者は、その後は調べる必要はない。
(どんな数値だろう。低いとは聞いているけれど、少しくらい魔術が使えるといいのだけれど、…………)
そう考え、期待に胸を高鳴らせるネアの魔術可動域を測った途端、エーダリアはぴしりと固まった。
そこから、おもむろにどこからか装飾の綺麗な虫眼鏡を取り出し、顔を近付けて目盛りを真剣に読んでいる。
「………………九だな」
顔を上げたエーダリアから、静かな声で数値を告げられたネアは、十段階の内の九であればなかなかに悪くないのではと、嬉しくなった。
エーダリアは、なぜかとても静かな面持ちで作業に従事し、今度は抵抗値を測るようだ。
「……………抵抗値は計測不能の高さだな。可動域と抵抗値に差異がある人間は初めて見たが、これで漸く納得した。お前は、抵抗値が高いお陰で生きていられるのか…………」
エーダリアの言葉は、晩餐の前よりもくだけてきたようだ。
契約を交わし、雇用関係になったからでもあるのだろうが、こうして話してくれると何だか仲間になれた感じがして嬉しくなる。
けれどもネアは、そんな変化を喜ぶよりも、他に気になる問題があった。
「………エーダリア様、抵抗値はここに針がありますが、先程は針が殆ど動きませんでしたよね。まさか、………可動域も、この目盛りが基準なのですか?」
「ああ。そこまでを記録する者は滅多にいないが、これはガレンの計測値なので、通常の検査機関のものよりも性能が高い。千まで測れるようになっている」
「……………せん」
「お前の場合、可動域は九なので…」
「お、同じくらいの可動域の方も、たくさんいますよね?!」
「……………そ、そうだな。私は事例としても初めて目にした数値であるが、……………九であれば、蟻よりは高い筈だ。ただし、キノコや団栗、蝶などには気を付けてくれ」
「……………きのことどんぐりにすらかてないだなんて……………」
ネアは、せっかく魔術のある世界なのに、それを扱う素養がないと思い知らされてかくりと項垂れた。
残念ながら、ネアに扱える魔術はないそうで、もっと悲しい知らせがあるとしたら、ネアの可動域だとこの世界では洗濯すら出来ない。
思っていた以上に儚い存在であるらしく、このような王宮に滞在出来ていなかったら、どうやって身の回りの事をすれば良かったのかと怖くなった。
(…………それでディノは、私はここにいた方がいいと言ってくれたのだ…………)
こうなると、もしネアがここから帰れなくなった場合は、仮契約のディノがいなくなった後は、早々に生活を助けてくれるような人外者と契約をする必要があるのかもしれない。
きっと物語が終わったら返されてしまうのだろうが、すっかりこの世界が気に入ってしまったネアは、少しだけそんな事を考えてみる。
その次は、余命の観測だ。
エーダリアに手を取られ、左手首に指を添えられると、暗く輝く淡い紫色の術式陣が浮かび上がる。
古書の頁がきらきらと光りながら空中に現れたようなそれを、ネアは、おおっと目を輝かせて見守った。
(……………凄く魔法っぽい!)
「……………余命値は、問題ないだろう」
「……………ま、まさか、余命も微々たるものだったのでは……」
「いや、余命はかなりある。……………かなりある」
「かなり……………」
ネアが怪訝そうに見つめると、なぜかエーダリアはさっと目を逸らしてしまう。
そして、こほんと咳をすると、素早く話題を変える技量を見せ、この国が託宣に頼り迷い子を探した理由を教えてくれた。
まず前提として、国の顔となるべき歌乞いは、役職として必要不可欠であること。
それが大前提である。
元々いたヴェルクレア国の歌乞いは、国境域の民族紛争に巻き込まれ命を落としており、その後任が必要なのは確かなのだそうだ。
「しかし、それについては、もう少し不在の期間があっても問題はない。ガレンには、国の代表ではなくとも、多くの歌乞い達が在籍しているからな」
「ふむ。では、その方たちでは出来ない事を望まれて、迷い子を探したのですね?」
そう理解したネアだが、残念ながら団栗にも勝てない可動域だ。
ここは、事前の話し合い通りに、ディノに対処して貰うしかないのだろう。
「ああ。実は、王都に滞在している他国からの亡命貴族の世話係として任命された伯爵が顔と名前を奪われ、屋敷に滞在していた亡命者が姿を消すという事件が王都であった。ガレンとして伯爵に接見し、伯爵自身に残された魔術証跡から、伯爵の顔や名前を奪ったのは仮面の魔物ではないかと推察されている」
「………とても凄惨な事件のように聞こえますが、伯爵様のお顔はなくなってしまったのですか…………?」
「ああ、分かりにくい表現だったな。魔術的な触りによって、顔と名前を違う人物のものに置き換えられてしまったのだ。顔や名前を魂の上に重ねた仮面と考えて、それを付け替えられたと思ってくれ」
そう聞いてしまい、ネアはさっとディノの顔を見上げたが、ディノは、微笑んで君は違うよと安心させてくれた。
エーダリアが眉を持ち上げたので、迷い子としてこちらに落とされた段階で、自分の容姿への違和感があったのだと誤魔化しておく。
ネアは自身の迂闊な言動にひやりとし、何かと面倒が多い身の上を憂いた。
(ディノからも、異世界からの迷い子だということは言わない方がいいと言われているし、エーダリア様から、どの時代のどの国からの迷い子だろうかと質問されたということは、違う世界から来た迷い子は珍しいのだと思う……………)
総じて魔術師は、いささか危険な熱心すぎる研究者気質があるらしく、異世界からこちらに来たと露見すれば、ネアは良い魔術の材料になりかねない。
また、迷い子を溺愛する傾向にある妖精たちに、特等の迷い子として攫われる危険が高くなる。
こちらの妖精達は、人間と最も近しい人外者であり、役職のある者達の補佐官を務めるなど、美しく優しい隣人であることも多いが、人間を内側から食べてしまうような人外者としての残酷さもあるらしく、怖いおとぎ話の妖精の資質も備えている。
特殊な迷い子として目をつけられるのは、とても危険なのだそうだ。
幸い、ネアの容姿の変化は、話に上がった仮面の魔物に何かをされたからではないようだ。
いつの間にか国家を悩ませる難事件の被害者になっていなくて良かったと、密かに胸を撫で下ろした。
(…………仮面の魔物と聞くと、何だか気恥ずかしいくらいに尖った名前に聞こえるけれど、実際に成されたことを踏まえれば、かなり危険な魔物なのだと思う………)
「仮面の魔物さんは、そのような事が得意の方なのですか?」
「ああ。各国から被害情報が幾つか上がって来ている。仮面の付け替えが判明するのは、自ら被害を申し立てて取り上げられる身分の被害者くらいだろうからな。実際の被害はより大きなものに違いない」
「となると、複数の国家から追われている魔物さんだったりするのでしょうか?」
問題が大きくなってきたなとそう問いかけたネアに、エーダリアは首を横に振った。
「仮面の魔物については、予測される階位から、討伐や捕縛の対象にはならない。障りを受ければ国が滅びかねないし、人間に対処が可能な階位の者ではない。今回の任務の目的も、不明者の捜索と、仮面の付け替えを防げる魔術道具の入手が主なものだ」
「………………まぁ。てっきり、その魔物さんを捕まえるか滅ぼすお仕事だと思っていました…………」
そう言ったネアに、エーダリアは顔を青ざめさせてやめてくれと呟く。
この国は、大陸において大国とされる二か国の内の一国だが、それでも高位の魔物の怒りを買えば滅亡する危険もあるのだとか。
「仮面の魔物は、白灰色を持つ魔物だという情報があるが、それ以上の情報はないのだ。だからこそ、かの魔物の特性などについて議論出来るような高位の魔物と契約し、その知恵を借りられるような迷い子が必要だったということになるのだが………」
(……………つまりこの国は、現状ではその魔物さんの正体を知るような、高位の魔物の力を借りられずにいるということなのだろうか……………)
そう考えてネアは首を傾げた。
本のあわいに落ちての事故とは言え、随分と白いディノが森にいたくらいなので、大国であるこのヴェルクレアには、他にも高位の魔物の協力者がいそうなものではないか。
不思議に思ってその質問を声に出してみると、なぜかエーダリアはとても遠い目をする。
「お前が育った場所には、あまり人外者がいなかったのかもしれないな。人外者の階位について学ぶ環境になかったようだ。……………いいか、ネア。人間が契約などで力を借りられる魔物は、この国では伯爵位までが最上位だ。お前の前任だった国の歌乞いの契約の魔物がそうであるし、そこにいるグラストの契約の魔物もそうだ」
言われてそちらを見れば、思っていたよりも凄い歌乞いだったらしい護衛騎士が、微笑んでいる。
隣に座った青年は、なかなかに偉い魔物だったようだ。
「…………言われてみれば確かに、爵位のあるような方を、そう簡単には呼び出せませんものね。……………その、仮面の魔物さんは、どのくらいの階位の方なのですか?」
「…………白灰色は、侯爵位相当と言われている。因みに、白を持てば公爵とされ、大国などの統括を任される最上位の魔物達は、人間の世にはあまり姿を見せない」
「……………白を持つ魔物」
「このようなことからも、国の求めた基準はいささか高いのだ。侯爵位である可能性が高い仮面の魔物についての情報を持つような白持ちの魔物は、そもそも人間には寄り添わないものなのだと言うのに…………」
「……………なぬ」
そこでネアは絶句してしまい、思わずディノを凝視してしまう。
すると、ここで悲しくも空気が読めてしまったエーダリアが、真っ青になってディノの方を見るではないか。
「……………ネア、お前の魔物は擬態をしているだろう?実際には、どの程度の階位の……………いや、いい」
「エーダリア様に見捨てられました……………。ディノ、もしかしてディノは、侯爵や公爵の魔物さんだったりしますか?」
「どちらでもないよ」
ディノは微笑んでそう教えてくれたので、ネアはほっとして胸を押さえた。
「ほわ。もの凄く偉い魔物さんなのかと、一瞬、どきどきしてしまいました。確かにディノは、白とはいえ虹のような淡い色を帯びていましたものね。……………ぎゃ!エーダリア様が!!」
ほっとしたネアがそう言った途端、バターンと音を立ててエーダリアが倒れてしまった。
椅子から落ちるようにして床に直行したので、控えていた護衛の騎士が慌てて駆け寄っている。
慄き震えながら、ネアは、隣で優しく微笑んでくれる魔物が、一体どんな肩書を持つのかは、自身の心の為にも深く考えないことにした。