19. 最後の日が始まりました
その日、ウィームは静かな雪の日となった。
はらはらと降る雪を眺め、ネアは祝福の光を宿して蕾をゆっくりと開いた一輪の薔薇の花の美しさに口元を緩める。
この薔薇は、少しだけ気が早かったようだ。
開いてから仲間達がまだ花を閉じていると気付き、しおしおと項垂れてしまった。
雪曇りの日の薄暗さは、上質な灰紫の天鵞絨を撫でるよう。
さくりと雪を踏めば、この美しい森を独り占めしているような贅沢さで、澄み渡った森の冷たい空気を吸い込んだネアは、握りしめた三つ編みをにぎにぎした。
「…………可愛い」
「ディノ、夜明けの森に連れてきてくれて有難うございます!あの木の上を見て下さい!光る宝石のようなものが、沢山ぶら下がっていますよ」
「流星のようだね。誰かが拾い集めているのかな…………」
「シャンデリアみたいに飾られていて、なんて綺麗なのでしょう。夜明けの森がこんなに綺麗だなんて、ちっとも知りませんでした…………!」
ふくよかな濃紫の夜が明けると、ウィームの夜明けの森にはダイヤモンドダストが見られた。
ディノが、まだ寝惚けているネアを持ち上げてコートにくるみ、この森に連れてきてくれたのだ。
おとぎ話の森にきらきらと光るダイヤモンドダストは息を飲む美しさで、ネアはすっかり目も覚め、ご機嫌であちこちを見回している。
「……………ほら、雪竜だ。このような夜明けには、空を飛ぶことも多い」
ディノにそう言われ、ネアは首がもげそうな勢いで空を見上げた。
既に竜は一度見ているが、雪竜と言えばおとぎ話的憧れの竜種の一つである。
「……………り、竜さんです!……………淡い紫に薄っすら白混じりで、狼さんに少し似た、毛皮の美しい竜さんですね……………」
「君は毛皮の生き物が好きだから、雪竜や氷竜は好きだと思うよ」
「……………もしかして、氷竜さんは、とげとげしていないのですか?」
「……………うん。氷竜はとげとげしていて欲しかったんだね……………」
「氷なのに、とげとげしていないなんて……………」
ネアは、氷竜がとげとげしていないことに少し落ち込んだが、夜明けの淡い光が森に差し込み、蕾を閉じていた残りの冬薔薇が一斉に開く瞬間を見てしまい、また笑顔になった。
しゃりしゃりと音を立てて嬉しそうに花を鳴らしているのは鈴蘭で、木の枝の上にはふくふくとした水色の栗鼠のような妖精がまだぐうぐうと鼾をかいて寝ている。
先程見たばかりの雪竜が、森の天蓋の向こうにもう一度姿を現し、ネアは大きな翼を伸ばした竜をしっかりと見る事が出来た。
両手で頬を押さえてみたが、あまりにも楽しくてどうしても口角が持ち上がってしまう。
(ああ、ウィームの森は何て美しいのだろう…………)
「ディノ、時折ムームー鳴いているのは何でしょう?」
「雪蛍かな。踏んでしまうとべたべたするから、近付かない方がいい」
「………べたべたする………蛍」
踏んでしまうとと前置きされたことで、ネアの脳内ではたいへん悲惨な光景が思い浮かべられてしまったが、千切り餅のような体をしていて靴裏にくっつくだけであるらしい。
またしてもおかしな生き物がいたようだと思いながら頭を振り、目が合ったディノに、気になっていた事を尋ねてみる事にした。
「ディノ、昨日の夜は、どなたかがいらっしゃっていたのですか?」
「アルテアが、今日は予定があるからと、頼んだものを持って来てくれたんだ。…………ただ、まだエーダリアには渡していないよ」
昨晩、ディノが部屋を出て行く気配がした。
ネアは戦場を沢山歩いたからか眠くてならず、瞼が重たくて目を開けられなかったのだが、すぐに部屋に戻ってきたので安心して眠ってしまって、そのままになっていたのだ。
何となくだが、誰かが来たのかなと思っていたのだが、アルテアが物語のあわいを終わらせる品物を持って来たのだと知り、ネアはぎくりとした。
(でも、どうしてまだエーダリア様に渡していないのかしら……………?)
こてんと首を傾げたネアに、こちらを見たディノが淡く微笑む。
その微笑みがはっとする程美しくて、ネアは小さく息を呑んだ。
「それをエーダリアに渡せば、この物語は終わってしまうだろう。……………君には、まだ見せてあげたいものがあったから、せめて今日くらいはゆっくり過ごして欲しかったんだ」
「……………それで、待ってくれているのですか?」
森に連れて来てくれたディノから、今日の仕事はお休みだと伝えられた。
ネアが戦場に迷い込んだばかりであることと、その結果、仮面の魔物対策となる魔術道具を手に入れられそうなのでと説明し、エーダリアから休日を貰っておいてくれたのだ。
どうやらディノは、ネアが最後の一日をゆっくり過ごせるよう、あれこれと手配してくれていたらしい。
「うん。けれど、あまり先延ばしにも出来ないんだ。渡さずにいる内に何かが起こってしまって、物語を閉じられなくなるといけないからね……………」
だから、今日の夜くらいまではと申し訳なさそうに伝えた魔物に、ネアはこくりと頷いた。
「……………ええ。そうですね」
ネアの手の中には、ディノが見付けて拾い上げてくれた森結晶がある。
鈍く光る澄んだ青緑色の結晶石は、この深い森の雪のない季節を思わせてくれるようだ。
(春はどうなるのだろう。……………夏や、紅葉に色付く秋の景色は、どれだけ美しいのかしら…………)
そう考えると胸が苦しくなったが、それでもディノは猶予を設けてくれたのだ。
この時間を喜ばなければと、ネアは唇の端を持ち上げてみせた。
こちらを見ている美しい魔物を、安心させてあげたかったのだ。
「ごめん。……………もう少しゆっくりさせてあげたかったけれど、注意を払っている者達に目を付けられなくても、あまり長く物語のあわいに留まると、物語の本編が始まってしまうかもしれないからね」
「……………まぁ。その可能性もあるのですか?」
「物語の開始についての描写に、私達が財宝を得てから始まるという記述がないようなんだ。序章として語られた物語の後の事だと思わせる書き出しではあるけれど、そうではないかもしれないという推理の余地もある。曖昧な物語は危ういからね」
「では、あまり長居しても危ないのですね。……………その、この時間は大丈夫ですか?私には、待つ人もいないので帰れなくても問題ないのですが、ディノは、待っている方がいるのでしょう?」
ネアがそう言うと、ディノが僅かに苦笑する。
その微笑みの苦さは、どこか男性的で艶やかなもので、ネアはなぜだかどきりとした。
夜明けの風にはらりと揺れる真珠色の髪に、頬に落ちる睫毛の影の中で鮮やかな水紺色の瞳がこちらを見る。
「……………君の帰りを待つ者も、きっといると思うよ」
「ふふ、だといいのですが」
ネアはここで、もう誰もいないのだとは言わなかった。
ディノには両親が亡くなってからは一人きりで暮らしていたと話してはあるものの、それ以上に踏み込んだ話はしていない。
ディノを困らせるつもりがないのだから、帰れなくても問題ないと言うのが、ネアにとっての精一杯の主張であった。
そのまま二人はまた少し森を歩き、徐々に明るくなってくる禁足地の森の中で、清廉な雪景色を楽しんだ。
本日の夕方には、リーエンベルクにも大きな飾り木が立てられるのだそうだ。
ネアはそれを見られるのが嬉しくてならず、ディノはその前にもう一度、街歩きや買い物に付き合ってくれるらしい。
貰ったお給金は沢山残っているので、ネアは、今迄の人生で縁のなかった、思う存分の買い物をしてゆこうと今から意気込んでいる。
「……………君に、幾つか隠していたことがあるんだ」
森からの帰り道に、ディノがそう呟いた。
ネアは小さく息を詰め、それは果たして聞きたいことだろうかと考えたが、結論を出すよりも前に頷いてしまっていたようだ。
「私は君に、………良くないものと戦いそれを下すことが、物語に必要だと説明したね?」
「ええ。そうして、財宝を手に入れれば物語は終わるのですよね?」
「……………うん。それは間違いではないけれど、全てでもない。だから、昨日起きた事について、君に全てを話せていなかった部分があるんだ。……………実際に物語に書かれていたのは、…………君が、大きな力を持つ悪しきものに命を狙われ、それを下すという表記だった。だから君は、君の命を損なおうとする者と相対する必要があったんだよ」
「……………まぁ。……………ええと、つまりディノは、その表現を少し柔らかく伝えてくれたのですね…………?」
「君にはそのままの事を話すかどうか悩んだのだけれど、直接に君の命を狙う者が現れると話すよりも、この国の施策に従い危険な任務に就くと話しておいた方が、君は怖くないかなと思ったんだ…………」
となると、あの時のアルテアはやはり、ネアがつまらない事をすれば殺してしまうつもりだったのだ。
あらためて思い知らされるとひやりとするが、失敗していたらどうなったのだろうか。
「…………確かに、見知らぬ世界に来てすぐに、誰かから命を狙われるのだと言われていたら怖かったかもしれません……………。エーダリア様から言いつけられたお仕事では、任務としてそこに関わらない限りは危険がないような雰囲気でしたものね……………。ただ、知らずにアルテアさんとのやり取りに失敗していたらと思うと、少し怖くなりました……………」
そこは正直に伝えると、ディノは思いがけないことを教えてくれた。
「もし、君があの場でアルテアを退けられなかったとしても、アルテアは君を傷付けることは出来なかったよ。だからこそ、アルテアにその役目を担って欲しかったんだ」
「……………そうだったのですか?」
「君とアルテアの間には、そのような魔術誓約が設けられていたからね」
ネアとしては初耳であったが、もしかするとパーシュの小道で持ち帰った際にでも、ディノが何かをしておいてくれたのかもしれない。
(そう言えば確かに、私に触らないようにと話していたから、それなのかな……………)
ディノは王様だと言うし、そこで何か誓約を結んでしまっていたのかもしれない。
そう考えたネアに、ディノは、その事実を伝えられなかった理由も教えてくれた。
「実際にはやらなかったようだけれど、彼の慎重さであれば、事前に君の魔術証跡を洗うような形で、魔術的な問いかけが出来た筈なんだ。…………そうだね、例えば、自分からの介入や攻撃を退けるような手立てを持っているだろうか、という風にね」
それは、高位の人外者が下の階位の者にだけ振るえる、精神圧の負荷をかけた強制的な問答なのだという。
抵抗すれば心が壊されてしまうような恐ろしさで成されるそれは、高位の人外者の目を見ると自我を失くして言う事を聞いてしまったり、美しい人外者から目が離せなくなってあっさりと篭絡されてしまうようなもの。
高位者が下位の者達を屈服させるのは、主にこの精神圧による浸食と強制が大きいのだそうだ。
「それをされてしまうと、私に備えがあることが露見してしまったのですね……………」
「うん。これは、アルテアが仮面の魔物と言われる所以でもあるのだけれど、彼は他者の要素を奪うだけでなく、それを利用する事にも長けている。自分では手が出せないと知って他の者に襲わせたりすると、そこは君の守りの外側になってしまう」
「エマジュリアさんを使ったように、……………でしょうか」
「……………そうだね。彼女は君を呼び落とす門を作る為に利用されたようだが、彼女に君を襲わせる事も出来ただろう」
ネアがエマジュリアを気に入っていたことに気付いているのか、それとも、過去に寵愛を与えた相手だからこそ心が痛むのか、ディノは、黄菊の魔物について話すと少しだけ憂鬱そうな顔をする。
ネアは、あの事故は彼女のせいではないのだとは伝えておいたが、黄菊の魔物がどうなったのかは聞けずにいた。
ただ、あの場にいた騎士達から、ディノがエマジュリアをどこかにやってしまったことは聞いているので、何となく顛末は察している。
エーダリアから、その日の内にウィームの大聖堂に飾られていた黄菊が全て枯れてしまったと教えられたのだ。
あの女性は、もういなくなってしまったのだという気がしてならない。
(でもここで、自分の身を自分で守れない私が、あの方を生かしておいて欲しかったと言うのは我が儘だわ…………。それに、所詮私は、あの女性の事をそこまでよく知りもしないのだ…………)
だからネアは、黄菊の魔物についてはそれ以上触れないようにした。
ディノが心配しないように朗らかな表情を心がけ、何でもないように話題を変えてみる。
「私には魔術的なことはさっぱりですし、アルテアさんはそうしませんでしたが、知らずにいて良かったことというものは、沢山あるのだと思います」
魔術の理において、知るということは知られることなのだそうだ。
だからこそ階位が低く備えの薄い者達は、敢えて重要な事柄を知らないように努める。
それを教えてくれたのはエーダリアで、実は、ディノとの上手い付き合い方の手法として説明されたことだった。
「……………アルテアは、それはしたくなかったのかもしれないね。彼は選択を司る魔物だ。君に興味を持ったからこそ、君の成す選択を知りたかったのだと思うよ。……………興味を惹かれる事を不愉快に感じて君を壊してしまおうとした反面、例えそれが自分を損なうものだとしても、それでもいいからと思えたならば、得てみたいという欲求もあったのかもしれないね…………」
(そう言えば、あの時のアルテアさんは、私がどう対処するのかを観察しているようだった。歌い始めのときは、杖を持ち上げようとしていたくらいだし………)
幸いにも、ネアが選んだのが短い唱歌だったことで、早めに結果が出たのだろう。
旋律を揃えられない冒頭部分だけを聞いて、あっさり失格とされていた可能性もあったのだと思えば、また背筋がぞわりとする。
(でも、…………やられてしまうかもしれないのに、試してみたかったんだ…………)
「…………何というか、困った魔物さんですね。やはり、……………こう、少しばかりくしゃりとやられるのがお好きなのでしょうか………?」
「そうなのかな……………」
他人事のようにしているが、その最たるものはご自身なのではという魔物が不思議そうに首を傾げている。
ネアがじっとそんな魔物を見上げていると、目が合ったディノは、恥じらってしまい目元を染めるではないか。
「……………ずるい」
「ディノの狡いの用法は、相変わらず謎めいています……………」
「凄く見てくるし、腕を掴んでしまうのだね……………」
「むむ。これは、向こうの茂みに謎めいた生き物が現れたので、念の為に掴まらせていただいています」
「おや、何か現れたかい?」
「……………あの木の影に、一斤食パンのような長方形の生き物が蠢いていますが、……………なにやつでしょう」
ネアが震える指で差し示した塊を見ると、ディノの綺麗な瞳が困惑の表情を浮かべた。
「……………パンの魔物だね。街中の路地裏に住んでいるものなのだけれど、獣などに捕食されそうになって、森に持ち帰られてしまったのかな」
「パンの姿なのに、……………路地裏に住んでいるのですか?その、……………パン屋さんの中ではなく、……………路地裏に…………?」
「……………うん。よく踏まれてしまって、歩道に潰れているよ」
「……………胸がきゅっとなりました。あまりにも悲しい光景ですので、出来れば後で街に出かける際には、そのような悲劇を見ずにいられたらと思います……………」
せっかく最後に美しいウィームの風景を記憶に焼き付けようとしているのに、歩道に潰れているパンの魔物を見てしまったら、それが一番強烈な思い出になってしまいそうな気がする。
ネアは、どうか街中で潰れたパンの魔物を見ませんようにと、ひっそりと祈ったのだった。