18. それは物語だからです
その問いかけに、ネアはすぐには答えられなかった。
物語のあわいに落とされたネアとディノ以外の人々にとって、ここは正しい場所なのである。
だから勿論、ここは物語のあわいなので、脱出の為の協力関係にあるだけなのだとは答えられない。
まだ四日しか経っていない協力関係なのだから、観察力に長けた者から見れば関係の歪さが目につくのも当然の事だろう。
リーエンベルクでは、託宣があったことと、ネアとディノのそれぞれの特異性からこの契約が嘘かもしれないなどとは疑われなかったので、ネアもすっかり油断していた。
(もし、私が本物の歌乞いではないと露見したら、ウィリアムさんの対応も変わってしまうかもしれない…………)
ディノこそが共犯者なのだが、ディノがいないこの場所でそれを証明するのは難しいだろう。
場合によっては、魔者達を謀ったとして報復されてしまう可能性もあるのだ。
何としても、誤魔化さなければならない。
「それは勿論、しっくりはきていないでしょう。私の生まれ育った土地には人外者の方がいませんでしたから、そもそも歌乞いという立場にまだ馴染めていないのです」
「……………であれば、尚更だ。その術符を買うようなお前が、出会ったばかりの魔物の指輪を特に疑問も持たずに受け入れているのはなぜだ?…………そうだな。妙に表面が整い過ぎている」
ふっと、アルテアは唇の片端を持ち上げた。
それは面白そうな獲物を見付けた獣が、さてどうやって遊ぼうかと嗤うような鋭さだ。
(…………確かに、ここが物語の配役の中だと聞いていなければ、私はこの指輪を受け取りはしなかっただろう…………)
アルテアの指摘は、間違ってはいない。
ネアは、魔物の鋭さを侮っていた自分を恨めしく思った。
交渉の一環として安易に術符のことを明かした事で、逆に大元のネアの肩書きが揺らいでしまったのだ。
この場合一番怖いのは、ネアがディノの歌乞いであることを前提として良くしてくれていたウィリアムだが、幸い今は何も言わずにネア達のやり取りを見守っていた。
ネア自身を気に入っている訳でもないウィリアムにとっては、アルテアがネアに問いかけた事は聞き流せない問題に違いなかった。
「であれば、無意識に整わせているのかもしれませんね。私はウィームがすっかり気に入ってしまっていますし、ディノとも仲良くやってゆきたいとは思っていますから。それにディノも、私がじたばたするのを上手に落ち着けてくれているような気がします」
「…………ほお。であれば、お前の守護がわざと緩められたのはなぜだ?」
アルテアは、その一言を告げる瞬間を図っていたに違いない。
勿論、そんなことは知らなかったネアは思わずぎくりとしてしまい、向かい合った魔物がしたりと笑う。
(わざと、…………守護を緩めた?)
その言葉を突き付けられて、ネアは、ディノがまだ自分には話していない事が沢山あるに違いないと考えながらも、貸し与えられた守護を取り上げられるとは思わないくらいに、すっかり甘えていたのだと思い知らされた。
(でも、物語を成立させる為には、悪いものと戦う必要がある。ディノに守られていてその害意に晒されないのであれば、物語は進まないままなのかもしれない…………)
であれば、こうしてネアが戦場に落とされたのはやはり、ディノの思惑の内なのだろうか。
そう考えてしまうと、さすがにこの仕打ちは厳しかったとしょんぼりはしたが、膝の上で組んだ手に視線を落とせば、鈍く光った指輪の美しさに、残酷な言葉に震えた心がしんと静まり返る。
(…………あなた達が思うよりも遥かに、人間は悪食なのだ)
ネアは、ここが自分のものにはならない、やがて終わるお話の中だと知っている。
だから、この程度であれば致し方ないと受け流し、物語の中に残ることを優先してしまうのは、人間のしたたかさ故なのだろう。
ネアはここで、少しだけ考え、会話の風向きを敢えて変えてみることにした。
このまま追求を受けていると、ボロが出るかもしれないと考えたのだ。
「ディノが守護を緩めたことをご存知なのは、リーエンベルクの前に祟りものを呼んだのが、あなただからですか?」
「ほお、どうしてそう思った?」
「どうしても何も、アルテアさんが先程使った魔術の香りは、リーエンベルクの周囲に立ち込めていた煙と同じ匂いがしましたし、あの素敵な狼さんに拘ってこちらを訪れた体でしたのに、あっさり捨て駒にしました。あの狼さんは、とても素敵な胸毛を持っていたのですよ…………」
「…………あれは、豊穣の障りの獣だ。言っておくが狼なんてものじゃないからな」
ネアの狼への執着に呆れた様子は見せたが、アルテアは、祟りものへの関与については否定も肯定もしなかった。
恐らく、それだけの猶予もなかったのだろう。
ふっと翳った視界にネアがおやっと思う間も無く、誰かの腕がしっかりと体に回される。
ふくよかな森や夜の香りにも似た、ネアのよく知る香りに包まれた。
「確かに、あの魔術を敷いたのはアルテアだったようだ」
「……………ディノ?!」
座った椅子の背もたれごと背後から抱き締められ、驚いて振り返ったネアに、こちらを見た魔物はどこか悲しげではあったが、水紺色の瞳は澄んでいて優しい。
ぱさりと揺れた美しい三つ編みには、ネアが結んであげた濃紺のリボンが綺麗に結ばれている。
「ネア、怪我はなかったかい?」
「……………はい。戦場を歩いたのは初めてでしたが、幸い、転んだりはしませんでした」
「うん、…………でも怖かっただろう。…………ごめんね、君を一人にしてしまった」
ネアはふと、自分を抱き締めている魔物の腕が微かに震えたような気がして短く息を詰める。
見上げた微笑みは魔物らしい酷薄さで、こんなに近いのにその揺らぎを見せはしない。
けれどもネアは、この魔物がとても怯えているように思えたのだ。
「…………ディノ、迎えに来てくれたのですか?」
「うん。ウィリアムが、夜明け前よりも早く鳥籠を解除してくれたからね」
ディノのその言葉に、アルテアがゆっくりとウィリアムの方を見る。
静かにマグカップを傾けていた終焉の魔物は、そんなアルテアの方を見ることなくゆったりと微笑んだ。
「幸い、夜明けより早く粛清とその事後処理が終わりましたからね。彼女の事もあるので、無駄に引き延ばす必要もないでしょう」
「…………それを、一言も言わずに進めていたあたり、お前の性格の悪さは隠しようもないな」
「はは、早く仕事を終わらせたくらいでそう言われては堪らないな」
ウィリアムはにっこり微笑んでいるが、ネアと目が合うと、ふっとその微笑みを深めてくれる。
人差し指を唇に当ててみせられ、ネアは、終焉の魔物が鳥籠の解放を密かに早めてくれた理由を悟った。
「…………さて。系譜の者達を引き上げさせる為にも、俺はそろそろ戻った方が良さそうですね。シルハーン、アルテアは少し削いでありますが、問題があれば呼んで下さい。それとも、連れていきますか?」
「いや、彼とは少し話そうかな。…………ウィリアム、ネアを見付けてくれて有難う」
ゆっくりと立ち上がったウィリアムは、ディノの言葉に驚いたようだ。
お礼を言われるとは思っていなかったのか、無防備に瞳を揺らして僅かに口元をもぞもぞさせる。
国一つを滅ぼしてしまうような高位の魔物が、王様にお礼を言われて恥じらう姿はたいへん見応えがあったが、残念ながら軍服姿の魔物はすぐに平常心に戻ってしまったようだ。
「いえ、彼女がいてくれたお陰で、俺も気鬱なばかりの夜を過ごさずに済みました。…………シルハーン、最後に一つだけ確認を。彼女はあなたの歌乞いなんですよね?」
「おや、この子には私の指輪を持たせているのに、そうではないと思ったのかい?」
そう尋ねたディノに対し、ウィリアムは苦笑して首を振る。
ネアは、アルテアの言葉を受け、疑念を持たれてしまったのかとはらはらしていたが、続いた言葉はまるで別の問題であった。
「いえ、アルテアが言うように事情があるにせよ、あなたがそれを贈ったことを疑ってはいませんよ。ただ、もし正規の手順を踏んでいないのであれば、アルテアとの間に唱歌による契約が結ばれた事が心配なので、そちらの放棄を手伝いましょうか?」
「……………アルテアとの、契約かい?」
「ええ。どうやらネアは、唱歌でアルテアを捕まえたようですよ」
「……………え」
思わぬ飛び火に、ディノがじっとりとした目でこちらを見るので、ネアは慌てて弁明しなければいけなかった。
「…………そ、そんなに悲しい顔をしないで下さい。危うく悪さをされそうでしたので、手っ取り早く無力化する為に歌ったのです。捕まえようとした訳ではないんですよ?」
「ネアが、アルテアに浮気した…………」
「なぬ…………」
まさかネアがアルテアに向けて歌うとは思っていなかったのか、ディノはすっかりしょげてしまった。
こちらこそ聞かなければいけない事がある筈なのだが、ぺそりと項垂れた魔物があまりにも悲しげなので、ネアはあわあわしてしまう。
ここで、ふうっと深い溜め息を吐いたのはアルテアだ。
「……………元より、その魔術の繋ぎは、ウィリアムに切らせるつもりでいた。俺としても望まない歌乞いなんぞに縛られるのは御免だ。残しておくつもりはない」
「君がこの子を狙ったことも、その歌声に縛られた事も事実ならば、だとしてもと思うのも当然だろう。…………それに君は、この子を気に入っているからね」
「…………は?」
アルテアは怪訝そうな顔をしたし、ネアもそれはないだろうと半眼になったが、なぜかウィリアムは頷いている。
それとも、魔物のお気に入りとは、ちょっと甚振ってみようという感情からのものも含まれるのだろうか。
となるとこれはもう早急に、名称の区別をつけていただきたい。
「君が向ける執着がどのような形をしているにせよ、私の目を盗んでこの子を拐おうと思うくらいにはね」
「守護を緩めたのはお前だろう。それに、俺がこいつを呼び落としたのは、一度結ばれた魔術の証跡が厄介なものだからだ。俺の作業場に足を踏み入れた以上は、その余計な資質と結びの魔術は剥離させておく必要がある。お前が勘繰るような執着なんぞ持ってないぞ」
「…………前にも話したけれど、それをすると人間は簡単に壊れてしまうんだよ」
「そう思うのなら尚更疑問だな。俺の介入を知りながら、そいつの守護を緩めたのは何故だ?…………何を急いでいる?」
そのままアルテアの言葉には答えず、ディノはこちらを見た。
光を孕むような澄明な瞳に、ネアはこくりと息を飲む。
(あ、……………)
ネアは勝手に、物語を終えるまでディノはこの疑問には触れないまま、受け流して曖昧にしてしまうのだと思っていた。
触れられ明らかにされてしまったら、物語の中の日々が終わってしまうような気がして、もう少し待って欲しいと言いたくなってしまう。
(…………そうか。…………でももう、終わらせてしまう事は出来るのだわ。私は、悪いものと戦って、それを切り抜けた。後はもう、財宝に相当するものを手に入れてしまえばそれで終わる………………)
けれども、その事に気付いて愕然としているネアがまだ心を立て直していない内に、この物語のページは捲られていってしまうらしい。
「どうして守護を緩めたのか、説明してもいいかい?」
「……………はい。…………む、椅子になりましたね」
「うん。この方が君の顔が見えるからね」
ネアは、隣の椅子に座ったディノにひょいっと膝の上に持ち上げられてしまい、眉を下げる。
籠絡の手間をかけずとも、物語が終わるまでは大人しくしているのにと考えたが、そこに収められるととてもほっとしたので、じたばたはせずにいた。
「君の守護を緩めたのは、想定された他の可能性よりも、アルテアの策に乗せるのが一番安全だったからだ」
「ディノが話してくれた、妖精さんの介入があったかもしれないから、でしょうか?」
「うん。それが、例え今回ではなくてもね。………だから、あの梟の祟りものがアルテアの仕掛けだと気付いた時に、済ませられるのであればここが最良だろうと考えた。けれど、だからと言って君がそれを無条件に許すべきだとは思わないよ。私は、そちら側で予測される危険も知ってはいたのだから」
「…………だとしても、それが必要な事だったから、なのですね?」
思っていたよりも静かな声が落ち、ネアは、ああやはりこの人も魔物なのだと、静かな諦観を感じていた。
「そうだね。そして今回は、それを話しておく事は出来なかった。もし君が予めそれが必要なものだと知った上で罠に落ちれば、アルテアは鋭敏に気付いただろう。余計なものが出て来てしまう前に終わらせてしまうには、この機会を逃したくなかったんだ」
「…………ディノは最初から、困った妖精さんは避けたいと話していましたし、私がしなければいけないことも話してくれていました。であれば、今回の事は仕方なかったのでしょう…………」
これが終わってしまう物語なのだとしたら、ネアがここでむしゃくしゃして暴れたところで、所詮終わってしまうのだ。
怖いことをしたら契約を投げ出すと伝えてはあったものの、この物語自体が終わるのであればそれも意味をなさない。
(それなら、もうこれでいいのだわ………)
ネアは、事勿れ主義で強欲な人間だ。
一番大変な場面が終わってしまったのであれば、文句を言う労力などぽいっと捨ててしまい、残された時間でもう一度ウィームの探索でもした方がいいと、方針を切り替える事にした。
断じて、ネア的パイ史上第一位に輝く美味しいパイを食べたら心が落ち着いて来てしまったという訳ではない。
ただ単純に、すぐに手放すものの為に割ける労力には限りがあるという、身も蓋もない理由に過ぎないのだ。
「…………そう思っていたのだけれど、まさか、エマジュリアを使って、鳥籠に誘導しようとするとは思ってもいなかった。……………そして、こちらに含みがある事も、結局のところ気付かれてしまったけれどね」
「…………私がこちらに来てしまったのは、想定外だったのですか?」
「鳥籠が使われると知っていたら、君を手放しはしなかったよ。もしもの時、君に呼ばれても行けない場所など論外だ」
「ウィリアムさんと、事前にお話をしていたのは、その為ではなかったのですね………」
「それは君が終焉の子供だからで、今回の事を見越してではない。これは、…………ただの私の手落ちだ」
どきりとするような冷ややかな声音でそう言いながら、まるで本当の歌乞いにでもするかのように、ディノは腕の中のネアに頬を擦り寄せた。
すりりっと体を寄せられ、ネアは、最後に残された一つの疑問を噛み締める。
(どうしてあなたは、偽物の歌乞いにこんな風に寄り添うのだろう……………?)
目を凝らして見てみれば、巧妙に隠してはいるが籠絡の手順として、この魔物が踏んでいるものが見えることもある。
けれど、こんな事まではする必要がないし、やはりある程度はこの魔物の素の言動な気がしてならない。
おずおずと手を伸ばし、堪らずにそんな魔物の頭をそっと撫でてしまってから、ネアは渋面になった。
もっと冷淡に事実確認をしてみせるつもりが、尻尾をぶんぶん振って甘えてくる大型犬のようなこの仕草はとても狡い。
ぐぬぬと思いながら、うっかり真珠色の魔物を撫でてしまった自分の手を睨んだ。
「…………成る程な。魔術的な制限を受けているのか」
そう呟いたのは、アルテアだった。
立ち上がったものの、会話の続きが気になって退出出来なくなったウィリアムはもう一度座ったようだ。
「…………シルハーン、その制限に彼女は関係がありますか?」
「ウィリアム、この子は私の指輪持ちだよ」
ウィリアムのひやりとするような静かな問いかけにディノがそう答えなければ、ネアはどうなっていたのだろう。
(………このような場面で、私を守る為のものでもあるのか…………)
なぜ求婚に相当する指輪をネアなどに渡したのだろうと悩んでいたが、ここ迄のことをしなければ保険にならない場面も、こうして訪れるらしい。
ウィリアムの刃物のような気配に触れて震え上がったネアは、この指輪を疑うことなく預かっていて良かったと胸を撫で下ろした。
「制限について、開示を禁止する魔術制限はあるのか?」
「いや、それはない。作られた流れを壊したくないから瑣末は省くけれど、作家の魔術に纏わるものだ」
そう告げたディノに、瞳を見開いたウィリアムの反応からすると、作家の魔術というものはかなり厄介なものなのだろう。
(それが、物語のあわいを作るものの名前なのだろうか……………?)
「……………シルハーン、なぜそれを、もっと早くに言ってくれなかったんですか。作家はどこに?」
「もう生きてはいないよ。それに、これは記された者の言動そのものを損なうような、古の侵食魔術に比べればとても弱いものだ。物語本に使われていて、とは言え私の名前が記されている。…………この子にもしもの事があるといけないからね、あまりその物語に逆らいたくはないというだけのものだよ」
「……………ああ、それでアルテアを利用したんですね」
ウィリアムの言葉に暗い目をしたアルテアに、ネアは、この凄艶な美貌の選択の魔物が少しだけ不憫になってきた。
しかも、物語の通りにするのであれば、この後で財宝に相当するものを毟り取られるのも必至である。
「……………もう満足したんだな?であれば、さっさと繋ぎを切って終わらせろ」
「むぅ、慰謝料がまだなのです」
「…………充分に食っただろうが」
「…………ディノ、財宝はパイでもいいのでしょうか?」
「ネア、…………もしかして、アルテアにパイを作って貰ったのかい?」
「は、はい。………しかし、食べ物に纏わる魔術の何かは、切って貰いましたよ?」
そこで漸く、ディノは厨房の様子から、ネア達がここで食事をした事と、その食事を作ったのがアルテアらしいことを察したらしい。
ネアの手にそっと三つ編みを持たせてきたので、ネアはここは致し方あるまいとその三つ編みを握ってやる。
「…………ネアが浮気する。アルテアなんて…………」
「おい、文句ならこいつに言え。ハスファーレンの壺を手放す交換条件だったんだから仕方ないだろ」
「……………ハスファーレンの壺に触れたのかい?」
「むむ、あやつめはぎにゃんと鳴くとてもお利口な壺でしたが、如何せん持ち上げるには重た過ぎるのと、人間を食べてしまうらしいので置いて帰る事にしたのです」
「ご主人様………………」
目を離した隙にご主人様が壺まで手懐けたと知った魔物は少しだけ荒ぶったが、ネアが心を殺して少しだけ爪先を踏んでやると落ち着いたようだ。
ウィリアム曰く、あまりはっきりとはしていないものの、ネアのブーツには終焉の系譜の祝福が込められているらしい。
そんなブーツで踏まれてしまって大丈夫だろうかと心配したが、ディノには何の支障もないのだそうだ。
その後、ディノが物語のあわいという言葉を巧みに隠してこちらの物語の説明を済ませてしまうと、ウィリアムとアルテアもそれなりに納得してくれたようだ。
ネアの拙い聞き取りからすると、物語のあわいの元となった本を書いた魔術師が使ったのが、作家の魔術というものであるらしい。
これは本来、その魔術で記されたことを相手に強要するものらしいが、今回はその魔術の廉価版なのだとか。
(作家の魔術で書かれた物語が、あわいになったという事なのかな……………)
さくさくと雪を踏み、その夜、ネアは戻って来る事が出来たリーエンベルクの中庭に立っていた。
落とされた戦場はすっかり夜に思えたが、終焉の系譜の粛清が行われる時に、鳥籠に覆われた土地が夜のようになってしまう事があるらしい。
実際にはネアが戦場に落とされたのが、午後過ぎくらいで、パイを食べたのは夕刻くらいだったようだ。
よって、残された時間を無駄にしない人間は、リーエンベルクでも美味しい晩餐をいただく事にした。
エーダリアは終焉の鳥籠に落とされた部下をとても心配してくれたが、終焉の魔物に会ったと知るととても興奮してその話を聞きたがったので、死者の王はとても有名な人外者であるようだ。
説明しようとしたネアは、なぜかあまりウィリアムの外見的な特徴を覚えていない事に気付いた。
物語のあわいだからなのだと気付けば、少しだけ寂しくなる。
(だから、外見的な事は殆ど覚えていなかったけれど、人の印象に残らないような魔術を展開していたのだなと勝手に納得してくれて良かった……………)
部屋に帰ってきたネアが庭に出たのは、この美しい物語で過ごせる時間がもうすぐ終わってしまうからだった。
さすがにこの時間から外出は出来ないが、少しでも美しいウィームの景色を記憶に焼き付けておきたい。
ディノが、アルテアに強いた対価は、以前にエーダリアが言及していたグリムドールの鎖ではなく、ネアが初めて耳にするような奇妙な名前のものであった。
ちらりと、人間達に持たせておいても害のないものというやり取りが聞こえてきたので、魔物側でも人間の手にする力を制限しているのかもしれない。
明日にはその品物が届けられ、ネア達のこちら側での役割は終わる。
アルテアとの間にあった魔術の繋ぎは、ウィリアムが剣でばっさりと切り落としてくれた。
これは、仮契約とはいえ先にディノとの歌乞い契約があったからこそ出来ることらしく、ネアは、物語の通りにしただけとは言え、また一つディノの備えに救われた事になる。
(それがなければ、悪さをしてはいけませんという命令を聞いて貰うのに、沢山命を削られてしまうところだった…………)
不本意な契約に縛られたアルテアが、わざわざ命を削らない方法を取る事はなかった筈だ。
危うく悪い魔物の躾だけで死んでしまうところだったネアは、料理人としての腕前には未練があったものの、アルテアとの繋ぎが切れてほっとした。
「ディノは、ただ迷い込んだのではなく、自分の意思でここに入ったのですか?」
「だから、私だけは外側の事を覚えているのかもしれないね」
「………むむ、私も覚えていますよ?」
ネアがそう言えば、ディノは小さく微笑むと、他にも外側からこちらに迷い込んだ者達がいるようだと教えてくれた。
「…………まぁ。皆さんが本の内側の方ということではないのですね?」
「ネア、先程まで一緒にいた二人を覚えているかい?」
「アルテアさんと、…………」
なぜそんな質問をされたのだろうと答えようとして、ネアは、さっきまで話をしていた筈の人物の名前すら、記憶から抜け落ちてしまっていることに気付いてぞっとした。
エーダリアと話していた時には朧げに掴んでいた輪郭すら、見失ってしまう。
慌ててディノを見上げると、伸ばされた手がふわりと頭を撫でてくれる。
「ウィリアムは、物語が補填したこちら側のものなのだろう。そしてアルテアは、自らの意思ではなく、この物語に呼び込まれたようだね。他に名前を覚えている者はいるかい?」
「……………エーダリア様のことは鳥籠の中でも覚えていましたが、あの方もなのでしょうか?」
「…………うん。そのようだ。リーエンベルクに守られていれば危険はないだろうけれど、彼にも念の為に守護をかけてあるよ」
それは、エーダリアがディノの本来の生活に属する人だからなのだろうか。
はらはらと降る雪の下で、ネアはまた少しだけくらりと揺れた欲しがりの心をそっと宥め、小さく苦笑する。
物語なんて終わらなくていいし、この美しい場所から離れたくないけれど、ディノもエーダリアもネアらしからぬ程に気に入ってしまった大切な人たちなので、二人が在るべき場所に帰れるように、ここを終わらせなくてはならない。
(今はまだ、諦められる。…………でもいつか、私はこの選択を後悔するのだろうか…………)
まだ、四日ぽっちなのだ。
そう考えると、やはりどこかが不公平な気がした。
もう少し。
せめて、もう少しだけ。
「ディノ、もし…………」
「………………ネア?」
もし良ければ、ここが終わった後で、ディノ達の暮らす場所にネアを連れて行ってくれないだろうか。
そんな事を口にしかけて、ネアは自分の執着がおかしくなった。
微笑んで首を振り、言葉を飲み込んだネアに、ディノは水紺色の瞳を微かに揺らしてこちらに手を伸ばした。
「……………それから、君がリノアールで買った術符は、添付する前に無効化してあるよ」
「…………っ、…………気付いていたのですか?」
「…………うん。君にそこまでの覚悟をさせてしまったのは、私のせいだね」
「ち、違います!あの術符を買ったのは、私が、まだこの世界の事をよく知らないからで……」
そう言われて慌てて首を振ったが、美しい魔物は淡く微笑んで小さく項垂れただけだった。
冷ややかな美貌は酷薄で、その声もどこか平淡に聞こえる。
(それなのに……………)
それなのに、ネアをしっかりと抱き締めたディノの腕に触れると、その指先が小さく震えていた。
「…………ディノ、怖がらせてしまってごめんなさい。もう、厄介な事は終わったのですよね?であれば、あれを使うような事もありませんから」
「………………約束してくれるかい?」
「ええ。それに、使えないようにしてあるのでしょう?」
「それでも、………君がそのようなものを必要とするのが嫌なんだ」
「ふふ、困った魔物ですねぇ」
ネアがそう微笑むと、ディノはもじもじしながらそっと爪先を差し出してきた。
どうかこの最終局面でのこの仕打ちはやめていただきたいとがくりと項垂れたネアは、それでも、瞳をきらきらさせてこちらを見ている魔物の爪先を、ぎゅむっと踏んでやったのだった。