17. パイに罪はありません
「…………エマジュリアだな」
「エマジュリアさん……………」
じゅうじゅうと音がして、ぷわりと漂うのは美味しい匂いだ。
ネアは、爪先をぱたぱたさせて、アルテアの手元を凝視している。
あの後、ウィリアムはにっこり微笑んだまま、唐突にアルテアを持っていた剣でばっさりやってしまっていた。
先程アルテアが連れていた獣は、ウィリアムが排除してしまったようだが、鳥籠の中を荒らすらしい。
その報復を、終焉の魔物は何とも荒々しく果たしたのである。
幸いにも魔物は頑丈らしく、串刺しにされたくらいではけろりとしていたが、こうなってくると、この魔物は繊細だと考えた少し前の自分の判断は無かったことにしてしまうしかなく、ネアは、この魔物だけは怒らせないようにしようと心に誓う。
決して、あの狼を撫でてみたかったなど言ってはならないのだ。
魔物達が落ち着いたところで、なぜかネア達は、三人で晩餐を囲む運びになっていた。
そして、アルテアからもネアがここに落とされた理由を尋ねられ、もう一度説明したところ、リーエンベルクの通用門のところで会った女性の名前が判明したのである。
「髪の毛の色や瞳の色だけで、個人の特定が出来てしまうのですね…………」
「と言うより、シルハーンと親しかった者は限られているからな。黄菊の魔物で間違いないだろう」
(あの方は、黄菊の魔物さんだったのだ…………)
金貨色の瞳の美女の姿に摘んだばかりの菊の清しい香りを思い出せば、あのような形でネアを糾弾しに来たのだとしても、貶める為だけに用意された言葉ではなく、真っ向からネアという人間の愚かさを貫いた鋭さに納得する。
雨上がりの庭に咲く菊の花の香りが好きだったネアが、どうして彼女を気に入ってしまったのかも。
「…………だとしても、妙な引きの良さだな。パーシュの小道に迷い込んでまだ二日だぞ」
「シルハーンが、それまでに訪れのなかった特定の場所に留まるのであれば、土地の魔術基盤に影響が出ているのかもしれませんね。彼女は迷い子という事ですし、シルハーンもそれを懸念していましたから」
軍帽を脱いだウィリアムは、こちらで選択の魔物の対処にあたるとし、死者の行列を離れている。
けれども、本来であれば、終焉を司るウィリアムが、死者の行列の先頭に立ち、亡骸から立ち上がった死者達を死者の国に導くのだそうだ。
そんな終焉の魔物を、人間達は死者の王と呼ぶのだとか。
(その死者の王が、マグカップで珈琲を飲む事を知っている人達はどれだけいるのだろう…………)
一度に飲める量が多いから気に入っているのだと、ウィリアムは何処からともなく出した自分のマグカップで珈琲を淹れていた。
深々と椅子に座って湯気を立てている珈琲を飲む様子は、連日の激務に疲弊して帰ってきたお父さんのようにも見え、ネアは終焉の魔物の背中をぽんと叩いてあげたくなる。
一度剣でさっくりやって満足したのか、もう、アルテアとのやり取りには特に含むものはない。
なかなかに奥深い関係のようだ。
「ともあれ、黄菊の代替わりは必至だろうな。年明けにかけて、あの女の信奉者達が煩くなるだろう」
「はは、うんざりですね。年明けにかけてこれ以上は仕事を増やせないんですが。………ああ、君が気にする必要はないからな。エマジュリアの事は、シルハーンが対処するだろう」
魔物達曰く、ネアがあの場から消えてしまった事は、指輪の魔術を繋いだディノにも、その場で伝わっただろうという事だ。
ウィリアムが、鳥籠を超えられる系譜の精霊の一人に、ディノへの使いを出してネアの無事を知らせてくれているので、夜明けに鳥籠が開き次第、迎えに来てくれるだろうと言われている。
それまではこちらから連絡が取れないので、ネアは、自分をどこかに落としたのがあの女性ではないと言い添えられないのが心配でならなかった。
(契約の魔物は狭量だと言われているけれど、私達の契約は見せかけだけのものだから心配ないと思うけれど…………)
しかし、ディノは王様なのだ。
今回のように物語のあわいを出るという明確な目的があり、その為に必要なネアを危うく失いかねなかったとしたら、王の邪魔をしたという理由であの女性が罰せられる可能性はあるのではないだろうか。
ネアの知るディノは優しい魔物に見えたが、それと王としての顔はまた別のものかもしれない。
「実は、私はあの方がちょっぴりお気に入りですので、私がその場からいなくなってしまった事でご迷惑をおかけしていないといいのですが…………」
「…………おい、あれは、シルハーンの愛妾だった女だぞ」
「アルテア!」
あからさまな言葉にウィリアムが窘めたが、ネアはそのくらいは察しておりますの、静かな表情で頷いた。
「魔物さんは、とても長生きなのですよね。寧ろ、これまで恋人さんがいなかった方が心配なのでは…………」
「……………ああ、そうなのかな。…………ん?そうなのか?」
ウィリアムは困惑しているようなので、もしかしたら、そのあたりの価値観も魔物と人間とでは違うのかもしれない。
「はい。それにエマジュリアさんは、私に苦言を呈しに来られたのですが、耳が痛いくらいに至極真っ当なご意見を言うばかりでした。罠にかけられて貶められることもなく、拉致されて、奴隷商人やならず者に引き渡される事もなく、ばらばらにされて森に埋められてもいません」
「…………うーん、もの凄い想定と比べた上で良しとしたんだな…………」
「あのような凛々しくて可憐な感じの方であれば、ディノにとっては良いお相手なのだと思うのです」
「…………いいか、それを絶対にシルハーンには言うなよ」
「むぐ?!淑女のおでこを指でびしっとやりましたね!許すまじ!!」
アルテアのしなやかな指先でおでこを弾かれ、おでこを赤くなどしたくない可憐な乙女は怒り狂った。
ここはまず、アルテアの作っている鶏肉のクリームソース煮が入ったパイを強奪するしかあるまいと、ネアは鋭く目を細める。
あの壺の代替品をという話の流れの途中、ぐーっとお腹が鳴ってしまったネアが、もう魔術道具ではなく美味しいご飯で構わぬと厳かに告げた結果、ネアの歌声でくしゃっとやられたアルテアが食事の用意をしてくれたのだ。
どうやらこの魔物は、色めいた仄暗い美貌からは想像出来ないくらいにお料理上手らしい。
盛り付けられたばかりのパイのお皿を奪い取りぐるると唸った残念な人間に、アルテアはどこか遠い目をして溜め息を吐いてみせた。
「……………ったく。魔術の繋ぎは切っておいてやるから、さっさと食え」
「…………魔術の繋ぎ?」
「…………お前はそんな事すら知らないのか。本来、人外者から食べ物を与えられるのは、求愛や求婚だ。作って与えるとなると、より強い魔術の繋ぎになる」
「…………まぁ。……その、とても申し訳ないのですが、そちらについてはお断りさせていただきますね。なお、パイは美味しくいただきます」
「うーん、アルテアが振られたみたいになりましたね」
「…………やめろ」
食事の準備もあったのと、厨房なんかで食事は出来ないと我が儘を言う者もいなかったので、ネア達は厨房でそのまま食事をしてしまう事になった。
さすが、一国の王が暮らした城の厨房である。
床石や石壁は優しいミントグリーンの森砂岩で揃えられており、整然と並んだ銀色のお鍋を、大きな天窓から夜の光が照らしていた。
誰もいないこの厨房は、きっと昨日までは働く人々で賑わっていたのだろう。
厨房の扉を開ける前に、アルテアが杖で床をコツコツと鳴らし何某かの魔術を動かしていたので、或いはその前まではここにも粛清の痕跡があったのかもしれない。
ネアは、初めて見る大きな厨房に目を瞠っていたが、アルテアからすると調理器具の揃えが悪く、尚且つ手入れも行き届いていない三流の厨房なのだそうだ。
香草類の揃えも趣味が悪いと酷評されており、ネアは、限られた香草の種類の中で趣味が悪いとまで言われる揃えとは何だろうと首を傾げる。
そして選択の魔物は、そんな三流の厨房で、パイ生地はどこからか取り出した自前のものだとしても、手早くパイを焼いてしまったのだ。
さっと鶏肉と香草のクリーム煮を作り上げ、そのクリームも香辛料を効かせてあるので、もったりと重たくならず鼻に抜ける香辛料の香りが食欲を刺激する。
更には、パイ一品だけを出すなどお料理好きの矜持が許さなかったものか、さっぱりとした鮭のタルタルな前菜と、小さなサラダまでがテーブルに並び、ネアは椅子の上で小さく弾んでしまう。
(魔術でぽいっと出せるのかなと思ったから、おかずパイが食べたいと言ってしまったけれど……………)
まさか、スリーピース姿の魔物が上着を脱いで袖を折って料理を始めると思わなかったが、ネアは、正当な報酬であるパイをはぐはぐと美味しくいただいた。
結果として、ネアを襲った悪い魔物は労働で罪を贖ったことになったので、これもまた良い裁きと言えるだろう。
「このサラダの、とろっとしたすりおろし玉ねぎの白いドレッシングがとっても美味しいです!かりかりに炒めたベーコンに、レーズンとオリーブが程よく効いていて、お野菜がさっぱり葉物だけなので幾らでも食べられてしまいますね。………このサラダだけでも、アルテアさんを井戸に捨てなくて良かったと思いました」
「まさかお前は、まだその前提を続けてたのか…………」
「何も見ずにご主人様の歌声は素晴らしいと復唱出来るようになったら、森に返してあげますからね」
「何で森なんだよ。それと、お前は二度と歌乞い用の唱歌は歌うな。シルハーンにもだ」
「むぐぅ…………」
「…………ん?彼女は歌乞いなんですよね?」
「ある意味、お前の系譜のものかもしれないぞ。俺の階位が一つ低ければ、代替わりしたかも知れないからな」
アルテアがそう言えば、ウィリアムは困惑したようにこちらを見たので、狡猾な人間は、何を言っているのか分かりませんという顔で、ふるふると首を横に振った。
どのような効果を齎すのかを知った上でアルテアの前で歌ったのだが、危険に晒されていない場所では封じられた禁忌の力なので、その秘密に触れてはいけないのだ。
「だが、そこにいたのがエマジュリアなら、君が鳥籠の中に迷い込んだことも腑に落ちるな」
「あの方だからこそというものがあるのですか…………?」
通用口の門のところに立っていたのが黄菊の魔物だと判明すると、ネアがこの鳥籠の中に落とされた理由が明らかになった。
ネアが、ディノが妖精避けかもしれないと話していた薫香めいたものを嗅いだと話せば、ウィリアムが、儀式用の薫香の煙と黄菊は、両方共信仰の系譜の魔術に連なるものなのだと教えてくれる。
信仰の形は様々だが、その魔術の儀式であわいや亀裂が生じると、死者の気配の濃い土地に呼び寄せられる事もあるのだそうだ。
こちらの世界でも、信仰と死は密接なものなのだろうか。
「教会ではない舞台で、たまたま信仰の魔術の儀式装置が整ったという事なんだろう。一般的には他の信仰の土地へ迷い込む可能性の方が高いが、今回の場合は、君が終焉の子供だからこっちだったんだろうな」
「…………それで、私はこちらに落とされてしまったのですね」
「今、近隣の大陸の中で鳥籠があるのはここだけだからな。死者の日を迎えている土地もなく、となれば、最も濃密な死者の国の気配がある所として、呼び寄せられたのは分かるような気がする」
面倒見がいい人物なのか、そう推理してくれたウィリアムの横顔を見ながら、ネアはやっと落ち着いて整理出来たここまでの流れを考えていた。
(……………ウィームの街を歩いたりと、普通に歩いていた事の方が多かったから、気付けなかったけれど、…………)
先程、この厨房に降りて来た時に、魔物達は転移を使った。
ウィリアムに抱えられてふわりと薄闇を踏んだその時、ネアは、祟りものの警報が出た際に、ディノが転移を使わなかった事に気付いたのだ。
(あの時、私を転移でリーエンベルクの内側に入れてしまって、その上で自分だけ正門の方に向かうということも出来た筈なのだ…………)
勿論、他に手がないという事情が隠されていたのかもしれない。
けれどもネアは、その小さな疑念を見過ごせないだけの理由を一つ得ていた。
何しろネアは、この物語のあわいを前に進める為に、悪いものと戦う必要があるのだ。
その為に必要な舞台として整えられた可能性は、実際かなり高いのではないだろうか。
それならば、ウィリアムと事前に話していた事と腑に落ちるのだが、あの魔物に、一人で戦場に放り出しても大丈夫だと思われたのであれば、ネアは少しだけ悲しかった。
(どこまでが本物でどこからが物語の為なのか、……………私がその全てを知り得る事は、きっとないのだろう…………)
とは言え美味しいものには罪はなく、ネアの中の最高のパイ世界記録を更新したばかりの逸品をもぐもぐしながら少しだけ悩んでいると、ふと、何かを探るようにこちらを見る気配がある。
「……………む。このパイはもう私のものなので、渡しませんよ」
「いらん。………この後で、ウィリアムに魔術の繋ぎを切らせる。お前が歌乞いとして繋いだものだ」
「…………そのようなものを手放すのは吝かではありませんが、その結果悪さをされては堪りませんので、相互不可侵のようなお約束をしない事にはお受け出来ません」
「人間らしい強欲さだな。手放してやるのは温情の内だぞ?」
呆れたような眼差しに首を傾げたネアに、選択の魔物はひらりと片手を振ってみせた。
アルテアの前にもパイが乗せられていたお皿が置かれ、既に綺麗に食べ終えられている。
ぶつぶつ言いながらではあったがウィリアムにも振舞っていたので、実は面倒見がいい一面もあるのかもしれない。
「歌乞いの契約は、お前の命を削るものだ。このパイ一つで、どれだけ削り取られたと思う?このまま俺を繋いでおけば、お前の寿命は保っても数日くらいだろう」
「あら、その理論には、私が私の命を惜しむという前提が必要になりますね」
「馬鹿げた議論だな。惜しくないものの為に、抗う筈もないだろう」
これだけ世慣れていそうな魔物がそう言うのだから、こちらの世界の生き物達はどれだけ純粋なのだろう。
ネアは小さく微笑み、やれやれと息を吐いた。
(生きたいと願うのは、それが健やかな場合に限られるのではないだろうか…………)
「私が抗ったのは、痛みや苦しみなどの、不愉快な終わり方は御免被りたいからです。同じように、契約の解除についても、ディノと合流出来る迄は保留とさせて下さい」
「選択肢は、選べてこそ振るえるものだ。今のお前にそれがあるのか?それとも、ウィリアムに泣きついてみるか?」
「アルテア」
ウィリアムが低く名前を呼び、割って入ってくれた。
表情を見ている限り、ディノと再会する迄の間は、アルテアからネアを守ってはくれそうだ。
けれどネアは、物語の進行に必要な条件を考え、もう少しだけアルテアと話してみる事にする。
「…………私はとても我が儘な人間ですからその危険を退ける為に必要な手札が揃わなければ、或いは自ら退出させていただく事を選ぶかもしれません」
「成る程、身勝手な主張だな。可動域もろくにないお前が、シルハーンから預けられた守護だけであの場から逃げおおせられたとでも?」
「あら、私は私の心さえ守られれば構いませんので、その場合は自決用の術符を使うのですよ?」
ネアがさらりと答えたことに、なぜか魔物達は暫く言葉を失っていた。
しんと静まり返った厨房には、大きな天窓からの不似合いな程に清廉な月光が落ちている。
「……………待ってくれ。まさか、その手のものを自分に添付させていないだろうな?」
そう尋ねたのはウィリアムだ。
だからネアは、この魔物はこの国を粛清してしまった魔物の筈なのにと、眉を寄せつつ頷いた。
(戦場を見慣れた魔物さんなのに、さもありなんと笑うのではないんだ……………)
「そのまさかなのです。やはりか弱い人間の立場からすると、見知らぬ土地で避けようのない不愉快な思いをする危険があるのなら、一発脱出の手段は是非とも確保しておかなければいけませんからね」
「……………その…………術符だったな。それは、破棄出来ないのか?」
なぜか、ウィリアムの顔色が悪い。
ネアは、購入した術符は、売れ筋商品として置かれていたのにとまた不思議に思う。
「はい。破棄出来ない事が売りのものが一番人気の商品でしたので、それを購入したんです。ウィームの複合商店には、沢山のものが売られているんですよ」
「シルハーンは、何も言わなかったのか…………?」
「いえ、ディノは別のものを見ていたので、まさにそのような品物を探していた私は、その隙にしゃっと買いに走りました」
低い呻き声におやっとそちらを見れば、なぜかアルテアが頭を抱えている。
首を傾げたネアに、ウィリアムは微笑んではいるがその白金色の瞳は虚ろだ。
「つまり、アルテアが軽い暇潰しのつもりで手を出したとしても、君の受け取り方次第で万象の指輪持ちが喪われる可能性があったと言うことだからな…………。万象の崩壊があれば、世界は簡単に駄目になる。はは、俺もぞっとしたよ…………」
「……………一つ申し上げますが、魔物さんの暇潰しが人間にとって害のない程度のものかどうかは、どなたが測るのです?」
まったく困った魔物達であるとそう返したネアに、ウィリアムがそうだなと呟いて僅かに苦笑する。
(………………あ、これはよく分かっていないやつだ……………)
人間は、時として物事の真理を見抜く時がある。
ネアは、人間の持ち運び方と逃がし方が雑過ぎるこちらの魔物が、まず間違いなくその線引きが出来ない人だと確信した。
しかし、ネアが、充分に慎重で賢い人間のつもりでふむふむと頷いていると、魔物がひたりと静かな瞳をこちらに向けた。
おやっと思ってアルテアの方を見れば、こちらを見た選択の魔物は、先程までの動揺の影もなく、どこか訝しむような目でネアを見ている。
「…………妙だな。お前のその立ち方と、シルハーンとの関係が符合しない。何か隠しているな」
そして、ネアが一番恐れていたことを問いかけた。