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16. 魔物に命を狙われました




脳震盪とまでは言わないが、打ち付けられた頭はまだくらくらする。


それでも何とか、這々の体でお城らしい広さでかなり距離のある隣の部屋の扉まで辿り着くと、ネアは、背後の白い闇を振り返り、アルテアの姿がないかどうかを確かめた。



(良かった…………。追いかけてきてはいないみたい…………?)



幸いと言っていいのかどうか、ウィリアムの方が標的なのか、或いは振り切るのに手間取っているのか、こちらに向かうような人影は見えないようだ。


ほっとしながら、重たい扉を両手で引っ張って開けると、先程この部屋を覗いたウィリアムが顔を顰めただけの理由があるに違いない、小さな広間に体を滑り込ませた。



「……………ぐ」



中に入った途端、猛烈な血臭に喉が詰まり、既に亡骸の失われたこの部屋で何が行われたのかまざまざと思い知らされた。


慣れない臭気に吐き気が込み上げたが、一度飲み込むと何とか収まった。



(この広間に、…………お城が落とされる迄は、誰かが立て籠もっていたのだろうか…………)



華やかな内装の広間には、飾り棚や装飾用の家具などを集めたバリケードがあったが、それも全て無残に破壊されている。


そんなバリケードの残骸の奥に広がる血溜まりを見れば、ここで粛清されたのが女子供だろうことは想像に難くなかった。


へしゃげて落ちた宝石飾りのある扇に、子供が持っていたであろう小さなぬいぐるみ。

誰かがきつく握り締めていたような丸まり方をしたレースのハンカチと、千切れ落ちた羽根飾りや転がる指輪なども。



その人達も、死者の国への侵攻にかかわったのだろうか。


それとも、男達の決定に従い、何も知らないままに人ならざる者達の粛清を受けたのかもしれない。


記された痕跡は無残で悲しく、今はもう、物言わぬ残骸が残るばかり。




(ウィリアムさんは、私にこれを見せないようにしてくれたんだ…………)



その優しさを無駄にしてしまうが、今は一刻も早くどこかに身を隠さねばならない。

ネアは、やっと保護されたばかりなのにどうしてまた逃げているのだろうかと、あんまりな仕打ちに地団駄を踏みたくなった。



もう既に、あの戦場を見てきただけで心の容量はいっぱいになっているのだ。

これ以上の怖さや不快感は、どれだけ耐えられるのか分からない。



それでも奥歯を噛み締めて広間の壁を探ったのは、このような城の広間には必ず、使用人達用の通用口の隠し扉がある事を知っていたからだ。


如何にもな継ぎ目などはないにせよ、必要な通路を確保するのに適しているのはどの辺りかという想像は出来る。


しかしネアはすぐに、やっと見付けたその扉の継ぎ目が、押しても叩いてもびくともしないと絶望することになった。



(ま、まさか、魔術仕掛け…………?!)



そう思って泣きそうになっていると、背後からくつくつと愉快そうな笑い声が低く響いた。



ぞっとして振り向いたネアが見たのは、逃げ場をなくした人間を弄うような微笑みを浮かべ、ゆったりと部屋に入って来たアルテアの姿だった。



ざわりと、陽炎が立つようにその足元がけぶる。

その様子が如何にも魔物という感じがして、ネアはじりりと後退した。



「残念ながら開かないだろうな。その扉は承認魔術を知らなければ開錠されないし、それ以前に、お前の可動域では開錠術式自体が反応しない」

「………………こちらに何の御用でしょうか?ウィリアムさんとのお話があったのでは?」

「そうは思わなかったから、お前はあの場所から逃げたんじゃなかったのか?」

「……………っ、」



向けられた眼差しは、暗い城内を照らすシャンデリアの明かりを切り裂くような鮮やかさでずしりと重い。


意地悪な獣が獲物を嬲るような微笑みは凄艶で美しく、この魔物は、その美しさこそが悪意の鋭さを示すようだった。



ああ、これはとても良くないものだ。



ひたりと背筋を伝う冷や汗に、ネアは心の内でそう呟く。

これは、微笑んだまま人間を誘い込み、破滅させるような生き物に違いない。



(それなのに、この魔物はこうして私を見ていて、先程の言葉は、やはり私にかかってくるものなのだわ……………)



この状況は楽しめそうだと話していた魔物は、ディノが鳥籠の中には入れない事を知っているのかもしれない。

そんな状況を幸いとし、前回は取り逃がしたネアを嬲って遊ぶつもりなのだろうか。


粛清であれ、ウィリアムのような魔物ですら国一つを滅ぼしてしまうのだから、魔物から向けられる悪意の一つが、人間にとってどれだけ深刻なものを齎すのかは想像せずとも明らかだ。


この状況で、ディノからの忠告を無視するのかと尋ねることはするまい。


分かっていてもやるのであれば、彼は只そう決めたのだろう。

あの時の会話を失念する程愚かな魔物には見えないし、考えなしに自身の身を危うくするような人物にも見えないので、何某かの手は打ってあると思った方がいい。



(ここには、ディノがいない。それを好機と捉える相手なのだから、この人が私を殺す事はないだろうと安易に考えるのはやめておこう…………)



アルテアに焦る様子がないことを見れば、ウィリアムがすぐにこちらに駆け付けられる状態にはなさそうだ。

そもそもウィリアムも、ディノの知人に過ぎないのだから、無理をしてまでネアを助けに来てくれることはないだろう。



であればネアは、魔術も使えず特別な武器も道具もなく、おまけに一人で、命を狙っているかもしれない魔物を退ける方法を考えなければなるまい。



動けずにいるネアに焦れたのか、艶々とした黒い革靴が一歩踏み出し、じゃりりと割れた陶器の破片を踏む音がした。



すうっと息を吸い、ネアは背筋を伸ばした。



真っ直ぐに暗い微笑みの美しい魔物を見据え、怯みそうになる心をぐっと押さえる。



「…………あまり、私を怖がらせるのは感心しませんよ。これでも人間は我が儘で獰猛な生き物なので、悪い生き物の噛んで振り回す玩具にされるのは我慢ならないのです」

「ほお、不愉快だと喚くだけなら、この辺り一帯に転がった死者達にも出来ただろうな。まさか、そんな稚拙な振る舞いが全てだと言って、俺を失望はさせないだろう?」



甘い甘い囁きに、目眩がしそうだ。

手を差し出せば引き裂かれてしまいそうなのに、その柔らかな声に飲み込まれそうになる。



「…………本当に不愉快な事になるのであれば、早々に失礼させていただこうと思いますが、……………そうですね。現段階ではまだその限りではありませんので、不本意ながら、あなたをどれだけ削り取れるかどうか試してみてもいいのかもしれません」

「ほお、俺を?………お前がか?」



睦言でも呟くかのように微笑んだ魔物に、ネアは、だんだんとむしゃくしゃしてきた。


本来であれば、今日の午後には美味しいウィーム風のお菓子を食べる予定があったのだ。

エーダリアを含めて、仮面の魔物対策ともなるような魔術道具を調べる作業もあり、ネアは、初めて魔術書というものを見せて貰えるのを密かに楽しみにしていた。


この一件が折り込み済みでなければだが、もしここでネアががいなくなってしまえば、ディノはきっと心配するだろう。

雇用したばかりの歌乞いが行方不明になったりしたら、エーダリアにも迷惑をかけてしまうに違いない。


しかし、そんな尤もらしい理由だけではなく、単純にネア自身の不快指数が上限いっぱいになりつつあった。



そんな時に、人間は自暴自棄になるのかもしれない。


ネアは小さく息を吸い、動揺を鎮めているかのようにして呼吸を整えた。

そんなネアの様子を見ている美しい魔物は、エーダリアの護衛騎士の契約の魔物とどれだけ階位が離れているのだろう。



(……………だとしても。今の私にある武器は、これしかないのだから)



使えるものであれば、何でも使おう。

ネア自身の心をも損なう攻撃であるが、証人となるこの魔物は、ここで滅ぼしてあの死体の山にでも隠しておけばいいのだ。


まずはこのちっぽけな人間が何をするのか見届けてやろうとでも言わんばかりにこちらを窺っていた魔物は、まさかネアが、この状況で呑気に歌うとは思ってもいなかったのだろう。



「おい、まさか唱歌で俺を従えさせるつもりか?」



嘲るような微笑みに過ぎったのは、ぞくりとするほどの失望だった。



然しながら、契約は偽物であったとしても、ネアの役柄は一応は歌乞いなのだ。

たいへん不本意な結果ではあるが、その歌声の効果は同僚の魔物で証明済みである。



だからネアはまず、教本にあった聖歌のようなものをしっかりと歌った。


恐らく、少しだけ歌わせてみて、下らないと黙らせてしまうつもりだったのだろう。

アルテアが白けたような顔で杖を持ち上げるのが見えたが、それも、ネアがその旋律をしっかりと唇に乗せるまでのことだ。




「……………っ、……………」



赤紫色の瞳をどこか無防備に瞠り、艶麗な漆黒のスリーピース姿の魔物の体勢が崩れる。

足元に纏わせていた黒い靄も、ざらりと崩れて灰になった。


白い杖をがりっと音を立てて床に突き、ぐらりと傾いだ体を支えた魔物を容赦なく叩き潰す為に、ネアは、短いその唱歌が終わるのと同時に、元の世界で大好きだった歌に切り替える。



こちらを見た赤紫色の瞳が、呆然と見開かれた。



(きっと、楽し気で可愛い歌ではなく、大きな奔流のような、強い流れがある曲がいいのだろう)



だからネアが選んだのは、滅びゆく国とその最期を歌った鮮烈なものであった。


あちら側ではあまり一般的と言える類の曲ではなかったが、ネアはその向こう側に物語が見えるような歌詞が大好きだったから。




(何だか、不思議な気がする……………)



ネアの母親は、体の弱い弟が生まれる前までは、歌劇場で歌う仕事をしていた。

ネアが舞台に立つ母を見たのは一度きりだったが、真っ白なドレスを着て喝采を浴び歌うその姿は、今でも記憶に焼き付いている。



(…………それなのに今、私は見たこともなかった不思議な世界にいて、私を守る為に魔物の前で歌うのだ…………)



じわりと目の奥に滲む涙は、恐怖ではなく奇妙な感慨に近い。

拍手もなく、仕損じれば命も危ういかもしれない異世界のお城の中で、在りし日の母のことを思い出すことになるとは思わなかった。



歌って歌って、何とか目の前の魔物を無力化してしまおうと頑張ったネアがその音を収めたのは、ふと、そう言えば高位の魔物を滅ぼしてしまうと、その土地がとんでもないことになると聞いたような気がするぞと思い出してからであった。



「……………むぅ。その教えをすっかり失念していました。このあたりでやめておき、後はもう、アルテアさんをお城の井戸にでも捨ててくればいいでしょうか」

「…………………………何で井戸なんだよ」

「そして、残念ながらまだ生きています。魔物さんが死んで土地が厄介な事になるのは困るのですが、証人としては口を封じる必要があるので、……………この場合は、何か鈍器のようなもので頭を強めに殴ればいいのですよね……………」

「やめろ。……………くそ、何だ今の歌は……………」



よろりと後退し、美しい男性姿の魔物が、壁に寄りかかって乱れた息を吐く姿はどこか煽情的にも見えた。


ネアとしては狙ったよりも元気なのでがっかりしているのだが、指先を襟元にかけてクラヴァットを緩めているので、ある程度は弱ってはくれたのだろうか。



ネアは、念の為に鈍器を探しておき、床に転がっていた壺のような置物を持ち上げる。

見た目よりずっと重いので振り上げるのは大変そうだが、場合によっては足先にでも落とせばそれなりにダメージを与えられそうではないか。


しかし、ネアがちょっと悩ましい感じに弱ってしまっている魔物の頭を壺で殴りつける前に、どがぁんと物凄い轟音を立てて大きな扉が蹴破られた。



「……………ぎゅわ」



そこに現れたものを見た時、ネアは、アルテアが現れた時よりも百倍は怖いと、消し飛びそうな意識の隅で考えた。



「……………ここか、」



長剣を構え柔らかな微笑を浮かべたウィリアムの姿は、純白の軍服姿の筈なのにどこまでも暗い。


扉を蹴破った長い足を優雅に戻し、凍えるような静謐さで室内を見回すと、まずは呆然と立ち尽くしているばかりのネアの方を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。




「……………良かった、無事だったな?アルテアは?」

「……………っえっく。……………そ、その、奥の壁際でちょっぴり弱っているのがアルテアさんです」

「…………アルテアは、何で弱っているんだ?」



その直前までは、完全にアルテアをばっさりやってしまいかねない雰囲気を纏っていたウィリアムは、壁に体を預けて若干ぐったりしている仮面の魔物の姿を見ると、困惑したように眉を顰める。


僅かに首を傾げ、ネアの方に視線を戻した。

そこにいるのが、先程までの優しいウィリアムであることを確認し、ネアは床にへたり込みそうになった。



「……………もしかして、君がアルテアに何かしたのか?」

「人間は、とても繊細な生き物なのです。悪さをされては堪りませんので、……………歌ってみました」

「……………ん?歌ったんだな………」

「私は歌乞いなのと、………その、私の歌は特殊らしくて、蝶さんなどは滅びますので、少し弱らせようと思いまして…………」

「もしかして、その壺を持っているのは、アルテアと戦うつもりだったからか」

「……………ふぁい。これで頭をがつんとやった後、お城のどこかにはあるに違いない井戸に放り込めば、時間を稼げるかなと思ったのです」

「……………おい、いい加減にその井戸縛りをやめろ。そもそも、お前に俺を運べる訳がないだろうが」

「あら、金庫に入れて運べばいいのでは……………」



ネアとしては至極当然の感覚でそう答えたのだが、魔物達は生きているものを金庫魔術の中にしまおうとする人間に驚いたようだ。


ウィリアムとアルテアの双方から、愕然とした面持ちでまじまじと見つめられてしまい、ネアはこてんと首を傾げる。



「……………そうだな。アルテアに関しては、俺がしっかりと叱っておこう。だから、その壺は置こうか。…………気付いていないだろうが、一応はそれも、かなり厄介な魔術道具だからな」

「……………む。持って帰ったら、私の上司が喜ぶようなものでしょうか?」

「…………やめておけ。ハスファーレンの壺は、持ち主の命令に応じて、人を喰らう壺だぞ」



そう教えてくれたのはアルテアで、ふぅっと大きく息を吐きながらではあるが、壁から背中を離し、自分の足で立てるようになったようだ。


回復し始めてしまったのかとネアがじっとりとした目になると、顔を顰めてこちらを見る。



「……………壺さん、アルテアさんを食べてみますか?」

「にぎゃー!」

「まぁ!返事をしてくれました。綺麗な壺ですが、鳴き声も愛くるしいですね!」

「……………何で、九しかない可動域で、持ち手を選ぶそいつを使役してるんだよ。やめろ、どこかに捨ててこい」

「凄いな……………。ハスファーレンの壺が主人を選ぶのは百年ぶりぐらいじゃないかな」

「まぁ、慧眼な壺さんです」

「ぎにゃん!」



ネアは、なぜ壺が猫のような声で鳴くのかはさておき、滅多に現れないご主人様に選ばれたのであればと、この戦利品を持ち帰る気満々でいたのだが、魔物二人がかりで人間を食べてしまうので市街地に持ち込むのはやめるようにと説得されてしまい、アルテアに壺を取り上げられてしまう。



すっかり立ち直ってしまった魔物に壺を奪われ、怒り狂った人間はじたばたした。



「おのれ、私の壺を返して下さい!拾ったのは私なので、そやつはもはや私のものなのです!!」

「ほらみろ、腕がもう持ち上がらないだろうが」

「……………むぐ、確かに石像かなという重さの壺で、乙女のか細い腕は筋肉をやられましたが、何とか金庫にしまえば……………」

「ほぉ、小さな町一つを滅ぼすくらいの力はある、災いの壺だぞ。安易にその金庫に入れていいんだな?」

「……………なぬ。そうなると、私の大切なお土産を損なう可能性もあるのですね………」



とても身勝手な人間は、その指摘であっさり壺への興味を失った。

どう考えても、得体の知れない壺よりは、リノアールで買ったお土産の方が尊いではないか。


ネアから離された壺は、持ち主の手を離れるとただの壺に戻るというものらしく、すっかり鳴かなくなってしまう。



(でも、…………唯一の収穫だったのに………、)



扱いが難しいとなると手放すのも吝かではないが、このまま取り上げられるのも癪であるという人間が頑固な顔をすれば、呆れた顔になってしまったアルテアが、代替案を出してくれた。


歌声でくしゃりとやられた事で満足したのか、すっかり落ち着いてしまい、もうネアの命を狙うような様子はなさそうだ。

やはり魔物という生き物は、その手の嗜虐欲求があるのだろう。



「この城には、持ち主を失った魔術道具がそこかしこに転がっている。そのどれかにしておけ」

「ふむ。どれが一番素敵なものなのですか?こちらには持ち主の姿がありませんので、どれもこれも私が持ち帰って大事にしますね」

「とんだ強欲ぶりだな。……………それと、お前は自分で成したことの責任は取れよ?」

「……………責任、でしょうか?」




もしや、人間風情に弱らせられたことを根に持っているのだろうかと遠い目をすると、スリーピース姿の艶麗な魔物は、奇妙な眼差しでネアを見る。



「歌乞いが、歌で魔物を捕らえたんだ。当然だろう」



そして、そんな言葉でネアを絶句させたのだった。








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