10. 飾り木の下で思います
ウィームには、リノアールという高級百貨店がある。
その中に一歩踏み込んだネアは、素晴らしいものを見付けてしまい言葉を失った。
入り口を入ってすぐのところにある吹き抜けのホールに、見上げるほどの大きさの見事な飾り木があったのだ。
深緑の針葉樹に、リボンと金色の装飾の古典的なものではなく、見たこともない装飾をかけられた大きな木が、薄っすらと目視出来るくらいに透明な、巨大な硝子ケースに入れられていた。
恐らく、高価なものなので警備上の措置だろうか。
「ディノ、………あ、あの硝子の檻の中の、かじゃりぎの上の飾りは何ですか?」
「ネア、興奮し過ぎて言えてないよ」
「あの、淡い白金色にきらきらしていて、時々虹色にしゃりんと光るあやつです!」
「…………ずるい、可愛い………」
どの装飾も素晴らしいが、ネアが釘付けになったのは、飾り木の先端にある星の形をした装飾だ。
とろりとした煌めきと、きらきらしゅわりと小さく輝き落ちる輝きの双方を併せ持つその幻想的な美しさに、ネアは、うっとりと祝祭の象徴を見上げる。
「ほら、ここに説明書きがあるよ。これは、凍った雪原に映った、月とオーロラの結晶だね」
「その説明だけでも、うっとりとしてしまいますね。…………ここには、そういうものが沢山あって、見付けても見付けてもまた素敵なものが出てくるのです…………」
ディノが説明書きを読み上げてくれた情景は想像出来るが、それをどのようにして結晶化するのだろう。
ネアは、晩餐までにリーエンベルクに戻らなければいけないので、リノアールは時間が許す限り隅々まで見ようと思っていたのだが、それも忘れて美しい飾り木を見つめてしまった。
(子供の頃から、クリスマスは大好きだった…………)
家族が誰もいなくなって一人きりになっても、毎年の恒例行事として、食事を削ってでも一つオーナメントを買った。
そうして揃えられ受け継がれてきた古いオーナメントの手入れをし、緩んだビーズは丁寧に糸を解いて縫い直した事を思い出す。
(でも、この飾り木はクリスマスツリーとは違う。…………沢山の魔法とおとぎ話が込められた、特別で素晴らしいものだわ…………)
目の前に聳えるリノアールの飾り木は、吹き抜けのホールに白緑の葉の美しいモミの木のような木を配置し、菫色がかった水色と淡いシャンパン色の結晶石で飾られていた。
ところどころに混ざる青い結晶石のオーナメントは氷河の割れ目のような深く澄んだ色で、ここから見上げると、雪景色の中の不思議なツリーのように見える。
インスと呼ばれる木の実なのだろう。
その真っ赤な木の実が鮮やかに映え、しゃらりと揺れているのはシャンデリア型の結晶石のオーナメントで、陽光にかざしたプリズムのように煌めく。
こちらもあちこちに飾られたリボンは深みのあるロイヤルブルーで、飾り木の足元には結晶石で作られた味わいのある色合いの林檎が沢山置いてある。
結晶石の林檎は中に魔術の火を燃やしており、それぞれに微妙に違う色合いがなんとも美しい。
その根元には、床から直接に生えているとしか思えない草原の花々がふんわりと揺れていて、いっそうにおとぎ話の様相を強めているのだった。
荒ぶる思いに小さく足踏みしてしまい、ネアは、どうかこの光景を死ぬまで忘れずにいられますようにと誰かに祈る。
そっと手を伸ばして、ツリーの頂で光る星飾りからこぼれた光を手のひらに映した。
「ふぁ、…………綺麗です…………」
「………君は、飾り木が好きなんだね」
「……………ええ。こちらの世界とは違いますが、私の生まれ育った世界にも、イブメリアのような祝祭がありました。その祝祭も大好きだったのですが、…………こちらにある飾り木は、おとぎ話の中に出てくる宝物のようです」
イブメリアは、前の二日も祝祭となり、最後にあたる三日目のイブメリアでは、大聖堂でミサがあるという。
クリスマスのように、各家庭でケーキを作って祝祭の夜を祝う風習もある。
その季節が迫ってくると、人々は飾り木と災厄除けのリースに飾りをつけながら、家族でどんなケーキを作るのか相談するのだ。
これはエーダリアに聞いたのだが、イブメリアの夜のミサで祝祭が終わると、大聖堂の横にある立派な飾り木を焚き上げるのだそうだ。
その火を小さな配布のランタンに貰い、家族の幸せを願って、ソリにつけて雪山を滑るのだと聞いて、ネアは、そんな祝祭の風習に参加してみたくてうずうずした。
「……………むふぅ。私は、この光景をずっと忘れません。ディノ、こんなに素敵なものを見せてくれて有難うございます」
ネアがそう言えば、ディノは不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「これは、私が用意したものではないよ?」
「でも、今日は何かとばたばたしましたが、こうしてリノアールに連れてきてくれました」
「………………うん。君には、沢山のものを見せてあげたいからね」
そう微笑んだ魔物の姿に、ネアはぎゅっと引き絞られるように胸が痛くなる。
そうやって思ってくれる人が側にいてくれたなら、毎日はどれだけ彩り豊かで優しいものになるだろう。
そんな風に思える人が隣にいたら、どれだけ世界は明るいのだろう。
「ディノ、…………先程話した事は私の本音なので変えるつもりはありませんが、私は、こちらで出会ったのがあなたで良かったと思います」
「……………ネア、」
「どうしてなのでしょうね。ディノとこうしてあちこちを見て回るのが、とても楽しいんです。……………私はとても冷たい人間なのに、こんな綺麗な飾り木を見せてくれたディノのお陰で、胸の中がほこほこしてきました…………」
「……………これからも、色々なものを沢山見られるよ。だから、……………」
ディノは、その言葉の後に何と続けようとしたのだろう。
けれども、続く筈だった言葉がネアに聞こえてくる事はなく、魔物ははっとするほどに美しい悲しげな微笑みを浮かべた。
「…………っ、」
伸ばされた手が頬に触れ、頬にそっと落とされたのは淡い口付けだ。
目を丸くして固まったネアに、ディノは、どこか男性的な艶麗さで、これからも沢山のものを見られるように守護を重ねておかないとねと呟く。
「ネア、あちらに薔薇菓子と雪菓子の詰め合わせが売っているようだよ。君が気に入る味ではないかな」
「……………むむ!お名前からして素敵そうなお菓子ですね。見てみてもいいですか?」
あるかなきかの淡い秘めやかさと甘さはすぐに消え、ネアは口付けの落ちた頬を押さえてあわあわしたい気持ちをぐっと堪える。
街に出る前に、エーダリアから、祝福や守護は口付けの形で成されるが、見ず知らずの人外者の口付けを受けてはならないと注意されていたのを思い出したのだ。
こちらは立派な淑女であるので、野良妖精や野良精霊からの口付けはご遠慮差し上げたいところだが、ディノは一応にも契約の魔物である。
別に不自然ではない口付けなのだが、ふっと微笑んだ光を孕むような水紺色の瞳の鮮やかさに、まだ心臓がばくばくしていた。
(……………び、びっくりした……………)
けれど、と思う。
けれど、ネアも小さなころは、クリスマスツリーの下で両親から頬に口付けて貰っていたではないか。
大事な人を思い、その人が健やかで幸福でありますようにという思いは、口付けに守護を込めるこちらの世界と共通のものなのかもしれない。
それは多分、あなたがとても大切なのだと伝える為に。
「まぁ、なんて素敵な売り場なのでしょう。…………もしかして、この薔薇の木は本物なのですか?」
「風景の移植をしたのだね。ご覧、木の根元に元の風景が残っているだろう?」
「…………こちらでは、風景を移植出来てしまうのですね」
ディノに教えられたお菓子は、この季節の目玉の贈答品のようだった。
入り口近くに高級宝飾品店のような特別ブースがあり、満開の薔薇を咲かせた大きな薔薇の木がその中央に茂っている。
ただ、薔薇の木ではあるのだが、果実を実らせるような木の形をしているので、その形に育つように剪定されたものか、或いはこちらの世界にはこういう薔薇の品種があるのかもしれない。
時折はらりと落ちる深紅の花びらが、なんとも華やかだ。
いそいそとお店に入って商品を見てみると、薔薇菓子は、薔薇の糖蜜を薔薇の妖精が結晶化させたもので、飴細工の小さな花びらのような繊細な形をしていた。
試食の小さな欠片を貰って口に入れれば、ふわりと薔薇の香りが広がり、含んだ欠片は、舌の上で酸味のあるジャムのような食感になる。
このお菓子には一時的な幸福感を与えるという魔術が込められており、クリスマスに相当する季節だからか、恋人達にも人気の商品であるらしい。
また、年の瀬の忙しさの中で心を緩める為に、自分用のご褒美お菓子としても人気なのだとか。
「…………じゅわとろの美味しさですね。…………むむむ、確かに気持ちがふんわりします。小さな欠片でも効果があるのですね…………」
「薔薇の系譜のものは、元々愛情の祝福が豊かだからね。ほら、こちらには雪菓子もあるよ」
ディノがそう指し示した商品棚には、冬季の人気商品で毎年店頭に並ぶという、雪菓子も売られていた。
雪菓子は、雪深い国の満月の夜にしか収穫されないもので、雪を被って凍った月の滴が、宝石に変化する一歩手前のものなのだそうだ。
果たしてそれはお菓子の領域でいいのだろうかと訝しんでしまうが、黄水晶の欠片のようなものを口に入れると、月光の酩酊を残す。
月光の酩酊とは何だろうと警戒しながら試食してみたネアは、爽やかな貴腐葡萄酒に浸した、砂糖菓子のようなものだと認識した。
(……………美味しい!)
口の中でしゃりしゃりと溶ける味わいとしては、ネアは雪菓子派かもしれない。
しゃりしゃりしながら溶けると、じゅわりと瑞々しい味わいが口いっぱいに広がるのだが、それが堪らない美味しさなのだ。
どちらも非常にロマンティックな菓子なので、冬の祝祭に向けたこの季節、リノアールでは重厚な木箱に入れた薔薇菓子と雪菓子のセットを売っているようだ。
保冷魔術のショーケースには、金の文字で店名が記された品のいい墨色の木箱が並んでいて、見ているだけでも多くの人々が買い上げていた。
なお、すぐに食べたい人用のものは、個包装にして保存魔術をかけた紙袋に入れてくれるらしく、そちらの測り売りもあるようだ。
薔薇菓子を一粒ずつ買って帰ってゆく恋人同士がいたので見ていると、頭に羊の角のようなものを持つ女性と背の高い男性は、仲良く手を繋いで品物を受け取っている。
「……………むぐ。お買い上げします」
「気に入ったかい?」
「はい。どちらもとても美味しいですし、特別に素敵なお菓子という感じが贅沢な気持ちにしてくれますね」
ネアはお値段を見てぴっとなってしまったのだが、予算はあるのだしここで怯んでいたら二度と買えないものかもしれないと、一番小さな小箱を買おうとした。
「ネア、こちらにしようか」
「ディノ…………?!」
すると、ディノが一番大きな箱をさっと買い与えてくれるではないか。
屋台の買い物ではあんなにおろおろしていたのにとネアは呆然としたが、どうやらこのような店での買い物は問題ないようだ。
綺麗な琥珀色の紙袋に入れて貰い、ネアは渡された菓子箱を途方に暮れて見つめる。
しかし、残念ながらとても正直なネアの体は、さっと手を伸ばして袋を受け取ってしまっていた。
「……………ディノ、とても高価なお菓子なのです」
「うん。食べ終わったらまた買ってあげるよ」
「貰ったもので充分ですので、大事に食べますね。ただ、この贈り物は、ディノにとって負担になってしまいません?」
おずおずとそう尋ねたところ、魔物は不思議そうに首を傾げた。
念の為に聞き取り調査をしてみたところ、どうやら、高位の魔物は潤沢な財産を持ち、それ故に金銭的な感覚はかなり緩いようだ。
場合によってはお支払いをと考えていたネアは、気負わなくてもいいのかなと安堵する。
しかもディノは、貰った木箱の入った紙袋を大事に抱えたネアに、もう一つの贈り物をくれるではないか。
「それと、…………君は持っていないようだから、これを使ってみようか」
そう渡されたものに、ネアは眉を下げて魔物の水紺色の瞳を見上げる。
こちらは、思わずで受け取ってしまう訳にはいかないものだ。
ディノが差し出したのは、繊細な作りが美しいブレスレットだった。
「……………ディノ、指輪を受け取っておいてなんですが、これは宝飾品にあたるのでさすがに……………」
「これはね、魔術金庫なんだ。この石の内側に品物を収納できるからね」
「……………ど、どうやって収納するのですか?綺麗な一粒石ですが、この大きさだと丸薬くらいしか収納出来ないのでは……………」
「その石の中に、魔術で空間を作りつけているんだ。持ち主しか扱えないようになっているから、君が着けると君にしか開かない金庫になる」
そう言って、ディノがネアの左手首にかちゃりと付けてくれたブレスレットは、細い金の鎖に淡い菫色の宝石が一粒ついた華奢で美しいものだ。
楕円形の宝石は、目を凝らさないと見えないくらいの葉を模した艶消しの金色の金具で鎖に固定されており、まるで宝石の果実が実っているような作りになっている。
透明度の高い菫色の宝石ではあるものの、少しくすんだような色彩が優しく、ネアはあっという間にこのブレスレットの虜になってしまう。
(……………綺麗)
堪らずに、手首を持ち上げてしげしげと眺めてみれば、ころんと揺れた宝石はイブメリアの飾りつけを映してきらきらと光る。
ディノは、魔術金庫がネアに必要だと思って渡してくれたのだろう。
ここで受け取りを拒否してもないと不便なものならば余計に迷惑をかけてしまうと考えたネアは、こちらに滞在している間はこのブレスレットを借りていようと考えた。
「ディノ、こんなに素敵なものを有難うございます。どう使えばいいのかを教えてくれますか……………?」
「うん。君はただ、収納したい品物を当てるだけでいいんだよ。内側にある空間は、小さな一部屋になっていて、荷物を押し当てると、どの辺りに置きたいのか映像が浮かぶだろう?」
「……………こ、これは!!」
言われた通りに試してみたネアは、初めて触れる魔術の仕掛けに驚愕した。
なんと、金庫石に品物を触れさせるだけで、中の金庫室を覗いているような映像がぽわんと頭に浮かぶのだ。
それも、金庫室の映像に視界を独占されてしまう訳ではなく、視界の隅にその映像が浮かぶといった感じである。
そちらに集中し過ぎなければ、歩きながらでも荷物の出し入れが出来そうな便利さに、ネアは魔術の叡智に圧倒されてしまう。
「……………これはきっと、こちらでも高価なものなのでしょうね。なくさないようにして、帰る時にきちんとお返ししますね」
「……………いや、これはずっと君に持っていて欲しいんだ」
ネアがそう言えば、ディノは微笑んで首を横に振った。
魔物らしい静かな眼差しは凄艶で、重ねて断る事も出来なかったネアは、大事な薔薇菓子と雪菓子の入った紙袋をしまった宝石を指先で撫でる。
「…………こちらに来てまだ数日なのに、宝物がまた増えてしまいました」
受け取るのであれば、その喜びをきちんと示そうと思いそう呟いたネアに、ディノも嬉しそうに微笑んでくれる。
元の世界に戻ると魔術が使えなくなってしまいそうなので、帰る前には荷物を取り出しておく必要がありそうだが、戻ってからもこのブレスレットはネアの宝物になるだろう。
しかし、その時までは貰ったブレスレットがあれば宝物はもう充分だと考えていたのだが、欲深い人間はすぐさまリノアールに夢中になってしまった。
花の色や、景色、髪色や瞳の色から宝石を紡ぐ妖精の店や、魔術が仕込まれたカードや、色とりどりのインク達。
リノアールでは、目が回りそうなくらいに様々なものが売られている。
潤沢な魔術を含んだインクは、古くなると鉱石の花が咲くこともあるそうで、ネアは寧ろそちらの効果を期待して、夜明けの霧雨色のインクをひと瓶買った。
また、食品売り場で売られている蜂蜜やジャムの小瓶も、ネアの知っているものとは違うようだ。
良い品物には祝福が宿り、時折内側に精霊や妖精が住み着いてしまうが、綺麗なものであれば、金貨や宝石が紛れ込んだりもするらしい。
こちらでは雪林檎と月光の祝福の蜂蜜を買ったのだが、瓶を明かりに透かしたところ、中には金貨が入っているようだ。
それを見付けたネアは、小さく弾んでしまう。
幾つかの安価だが心踊る買い物を終え、ネアは、どうしても緩んでしまう頬を両手で押さえる。
(普通のインクや蜂蜜のお値段で、こんな素敵なものが買えるだなんて…………!)
中でもネアを夢中にしたのは、フィンベリアと呼ばれる小さな置物だった。
これは元の世界の有名な窯元の陶器人形くらいのお値段はするのだが、自然気象が化石になったものを研磨して加工していると聞いてすっかり夢中になってしまった。
台座をつけてあるものも売られており、景色を切り取って作られたスノードームのようでたいへん美しい。
雪の夜のものや、夏の夜の雨の情景など、うっとりするようなものが沢山ある中で、ネアは、雪の降る夜の森に聖堂と鹿のモチーフがあるものを一つ購入した。
ディノが買ってくれようとしたのだが、こればかりは自分で買わせて貰った。
「大満足です。今夜は胸がどきどきして眠れないかもしれません…………」
「可愛い。ずるい……………」
「前から思っていたのですが、ディノのずるいは、正しい使用方法が迷子になっているのでは…………」
なお、リーエンベルクを模した硝子細工のオルゴールを買ったディノから、それも貰ってしまったが、あちらの世界にあるオルゴールでは出せないような素晴らしく透明な音色を響かせるので、ネアは、物欲を抑えきれずにそれも受け取ってしまった。
その夜は、興奮冷めやらぬネアは、金庫の中から買ったものを出したりしまったりしてしまい、はしゃぎ回るネアを見ていたディノはすっかり恥じらってしまい、へなへなになっていたのであった。
ネアは子供のように、貰った指輪とブレスレットをつけたまま寝た。
どちらも肌に触る感触はあまりなく、意識するとそこにあると分かるという感じのものだ。
眠りに落ちる直前に、誰かに頭を撫でられたような気がしたが、それがとても心地良かったので、ネアは安心して微睡みに身を委ねたのだった。
「……………君を殺そうとするのは、誰だろう。いや、誰がそうするのがいいのかな……………」
その静かな囁きは、すやすやと眠るネアの耳には届かないままだった。