1. おとぎ話の森に迷い込みました
それは、静かな静かな朝だった。
ネアは、もう、家のどこにも紅茶がない事に気付き、しょんぼりと眉を下げて、昨晩に煮出してしまったティーバッグの残骸を持ってくる。
ぐりぐり押してお湯に漬け込めば紅茶風味のお湯は飲めるだろうかと考え、火を熾せないストーブを悲しく一瞥した。
それでも今朝は、薄切りのバタートーストがあるのだ。
バターを買う為には紅茶を諦めざるを得なかったが、焼いたパンにじゅわりと染み込む黄金色のバターを、一月ぶりに堪能したかった。
時として、人間は大義の為に犠牲を払わねばならない。
それが今朝は、お湯が色づくこともないくらいに酷使されたティーバッグだったというだけだ。
そろそろ、庭や公園に生い茂る何かが、芳しい紅茶の材料になるかどうか試してみる頃合いかもしれない。
そう考えてきりりと孤独に痛んだ胸に少しだけ目を閉じ、ぱちりと目を開くと、ネアは、美しい森の中に一人で立っていた。
「え………………」
これは一体何事だろうとぱちぱちと目を瞬き、薄っすらと青白く染まった雪の白さに立ち尽くす。
そこは、とても美しい森だった。
その美しさにほうっと息を吐き、けれども、恐る恐る周囲を見回す。
(………………森?)
はらはらと粉雪の降る森は、大きな大きな木々の天蓋から灰色の雲に覆われた空が見えた。
ふくよかな青緑色の針葉樹めいた木々にはふかふかとした清廉な雪が積もり、ざらりとした粉砂糖にも似た結晶の細やかな煌めきが落ちる。
見上げるほどの木々の幹にはきらきらと光る鉱石のようなものが育ち、森のそこかしこには、まるで春や初夏の豊かさで花々が咲き乱れていた。
百合に薔薇、鈴蘭に菫。
ライラックに似たラベンダー色の花を満開にした木や、ふっくらとした指先ほどの薔薇に似た花が咲いている小さな茂み。
どの花の上にも雪が積もってはいるが、花々が萎れてしまう様子はない。
ぼうっと内側が光っていたり、時折光の粒を細やかに落としたりしつつ、しんしんと降り積もる雪の中でも健やかに息づいているように見えた。
(おとぎ話の森だわ……………)
ふすんと感嘆の息を吐き、夢中でその森を見ていた。
自分はなぜここにいるのだろうと考えるよりもまず、おとぎ話の森の美しさに圧倒されてしまい、見たことのない不思議な光景に胸が震える。
しゃりんと、硝子のベルを鳴らすような不思議な音に振り返って見付けた小さな光に目を凝らせば、ぱたぱたと飛んでゆく真ん丸の兎のような奇妙な生き物が見えた。
もふもふむちむちとした灰色の生き物の背中には、蜻蛉と蝶の間のような繊細な羽がある。
どう考えても、あのまん丸むちむちの体を浮かせるには羽が小さ過ぎるが、その生き物は軽やかに飛びながら木立の向こうに消えていった。
「………………え、」
一拍遅れて、自分が何を見たのかを理解し、ネアは息を飲んだ。
(よ、…………妖精の羽が生えているように見えたけれど、……………これは、夢…………?)
これは夢だろうか。
そう考えて強張った吐息を吐き、そっと手を伸ばして落ちてきた雪の一欠片を手のひらに乗せる。
(冷たい……………)
ひんやりとした雪の冷たさに首を傾げていると、手のひらの温度で溶けた雪は、しゃわりと深い藍色の光の粒子になって解け消えた。
これは自分の知っている雪とは違うのだろうかと目を瞠り、ネアは雪片が消えてしまった手のひらをお行儀悪く袖口で拭う。
ふと気付いたらここにいたので、勿論ハンカチなどの持ち合わせはないのだ。
それどころか、着の身着のままである。
幸いにも、仕事に出かけようとしていたので着替えは済んでおり、しっかりとした厚手の靴下にニット地の膝下までのワンピースを着ていたが、それでも雪の降る森なのだ。
コートがあればと思う。
幸い、積雪の浅いところに立っているらしく、足首まで雪に埋もれるだけで済んでいる足元は、踵にじんわりと伝わる冷たさからすると室内履きのままなのかもしれない。
現在、少しばかり異世界感が多めだが、場合によっては犯罪絡みの遭難かもしれないという抜き差しならない恐ろしい予感に少し震えた。
(ここは、どこなのだろう。…………家の近くにも森林公園があるけれど、こんなに深い森が街の近くにあるとは思えないわ…………)
目を閉じている間に眠ってしまって、夢遊病者のように森まで出かけたのだろうか。
だとしても、窓の外で雪は降っていなかった。
となるとやはり、ここはどこなのか。
ぎりぎりと眉を寄せながらポケットを探れば、なぜか見たことのない飴玉のようなものが出てきた。
どこかクラシカルな紙包みの飴玉は、金色の紙と油紙を重ねて包まれており、フルーツケーキと優美な文字が印字されている。
くんくんすれば、微かなお酒と果実の甘いいい香りがしていて、思わずお腹がぐーっと鳴ってしまう。
これが夢ならば遠慮なくいただくところだが、夢ではなくて誘拐的な事件だったとするのならば、自分で買った記憶のない食べ物を口に入れてしまうのはかなり危うい。
(けれど、事件……………なのだろうか?)
ふと、そんなことを考えた。
自分の履歴がまっさらなものだとは思わなかったが、今更誰かに誘拐され、そしてこんな雪の降る不思議な森に置き去りにされる理由はなさそうな気がする。
何しろこの森には、妖精がいるのだ。
では、やはり夢だろうか。
そう考えても首を傾げてしまうのは、ふくよかな森の香りに、清しい雪と花の香りがあまりにも瑞々しいからだろう。
頬に触れる冬の冷たさや、吐き出した吐息の白さにも、これが夢だとは思えなくなる。
もしかすると、本当の自分はあの一人ぼっちの屋敷でとうに死んでしまっていて、ここは死後の世界なのかもしれない。
そう考えかけ、ふつりと心が軋んだ。
(……………けれど、それでは不公平だわ)
ネアは、かつて、許されない罪を犯した人間である。
しかしながら、たいそう身勝手で強欲な人間でもあったので、罪を犯した後にも幸せになろうとじたばたしたし、その罪を償う為に慎ましく生きたとは言わない。
しかし、曲がりなりにも罪を犯した人間なのだから、こんなにも美しいところが死者の国だとすれば、いささか贅沢過ぎるのではないだろうか。
今もまだ、目を閉じれば瞼の裏の暗闇にあの秋の日の夜の雨音が聞こえる。
遠いその日の自分は、両親を殺した人の取り巻きに紛れ込む為に、その街に暮らす名家の者達が集まる店を訪れたのだった。
煙草の煙と雨に滲む音楽の揺蕩う店の中で短く言葉を交わしたその人の眼差しは、なぜ今も鮮明に思い出せるのだろう。
あの、はっとする程に疲弊した瞳をこちらに向けた彼を破滅させると知りながら、毒を含みシャンパンの入ったグラスを呷ったあの進水式の日の青空も、こんなにも月日が流れても容易に思い出せるのだ。
殺されてしまった両親の復讐だったとは言え、自分の意思で誰かを憎み、そして破滅させたことのある人間に、こんなにも美しい死後の世界が許されるのだろうか。
それなのに、森の木立の向こうを駆けてゆく儚い水色の牡鹿を見付けると、子供の頃のおとぎ話で見たような美しさと不思議さにわくわくしてしまい、唇の端が持ち上がってしまう。
(………………もしかしたら、これが一生分の幸せをぎゅっと纏めた、私の最後の幸運なのかもしれない)
そう考えてしまうのは、身勝手だろうか。
ネアはとても我が儘に生きて来たし、決して不幸なばかりではなかったが、どうにも、今生で支給された幸運の量が、他の人達に比べて足りていないようだと感じる事は多々あった。
となると、これは正当な取り分なのかもしれない。
元々強欲な人間は、ちりりと疼いた罪悪感はぽいっと捨ててしまい、なんだかとても素敵なこの状況を満喫させていただこうではないかと小さく弾んだ。
もしこれが夢だったり、死者の国に向かう為の経由地のような場所で、滞在時間に上限があるのだとしたら、せめて時間いっぱいはこの美しい場所を堪能しなければ損だ。
そう考えたネアが、さくさくと雪を踏み、驚いて飛び出してきたぽわぽわの毛玉のような不思議な生き物に目を丸くしていた時のことだった。
「足が冷たくはないかい?君は、雪靴を履いていないだろう?」
周囲には誰もいないと思っていたので、不意に聞こえた誰かの問いかけにぎくりとして振り返れば、ネアは、視界に映った生き物のあまりの美しさに呆然と目を瞠った。
(……………何て、)
そこに立っていたのは、背の高い一人の男性だ。
こんな森の中なのに、貴族のような服装をしている。
(……………何て、美しい人なのだろう)
この不思議な森の清廉な雪と同じ色の長い髪には、淡く淡く、虹のように様々な色合いが宿る。
ラベンダーにミントグリーン、淡い水色にまた色相を変えた青を薄く滲ませたような影、仄かに色付くピンク色は少しだけで、檸檬色に見えるのは透けるような金色であるのかもしれない。
ゆるやかな巻き髪になっているその髪は、前に流してざっくりとした一本の三つ編みにしてあった。
そんな真珠色の髪の美しさもそうだが、こちらを見ている、水に鮮やかな紺色のインクを一滴垂らしたような瞳も、内側に光を孕むような得も言われぬ透明感と鮮やかさがある。
怜悧な程に整った美貌をどこか無垢に見せているのは、その水紺色の瞳に浮かぶ、どこか不安げな様子だろうか。
服装は色味を違えた白で統一しており、ほんの僅かに青みのある白のフロックコートに、雪のように白いクラヴァットを巻いた貴族のような装いだ。
だが、膝下までの長さのフロックコートに施された刺繍の精緻さや、縫い込まれた宝石や結晶石の光り方を見ていると、この人は果たして人間なのだろうかと訝しみたくなる。
他人の事は言えないが、雪の森を歩くような服装には思えない。
そして多分、人間の美しさは、こんなにも仄暗く艶やかではない。
「……………その、雪靴は持っていなくて」
「そのようだね。君は、迷い子なのだろう。どこから来たのか、覚えているかい?」
「……………まよい、ご?」
(でも、どれだけ美しくても、ここにいるのは見知らぬ人なのだ……………)
良いものなのか悪いものなのかも分からず、どう返答するべきか途方に暮れる。
良く知らない相手に対し、気付いたらここにいたのだと明かすのはあまりにも危険だろう。
本音を言うのであれば、ここがどこだか教えて欲しいし、見知らぬ土地で凍傷などにならない内に、誰かに長靴のようなものを是非に貸して欲しい。
冬の森の中に取り残されたまま夜になると、生死の危険に直結しそうなので、出来れば街などへの道を教えて欲しいとも思う。
けれども、なぜこんなところに一人で放り出されてしまったのだろうという疑問にかかりきりだったネアは、見ず知らずの男性と相対しているという怖さの方が気になった。
(そもそも、この人が悪い人ではなかったとしても、私自身は、どうやって自分を不審者ではないと証明すればいいのかしら………)
どちらに転んでもなかなかに難しい状況だぞと気付いてしまい、ネアは途方に暮れた。
あまりこの男性を刺激しない方向で、まずは迷子の線でどうにか誤魔化せないかなと考える。
(でも、迷い子………というのは、迷子のことでいいのだろうか。もっと、人知を超えたような壮大な迷子的意味合いに聞こえたのだけれど、その場合は、有りの侭の現状を伝えても不審者扱いされないかもしれない…………?)
これでもネアは、子供の頃から父の影響で、騎士や竜、妖精や魔法使いが出てくるおとぎ話を沢山読んだのだ。
近年は大人向けの読み物も沢山あり、その手の知識には事欠かない。
孤独で貧しいという事はとても疲れるので、大人になった今も、そうした物語本を飽きずに読み耽っている。
であればと、また少しだけ考え、探りを入れてみることにした。
因みに、冷静に策略を練れるくらいのまだ五割くらいは、これは夢かなと思っているし、この美貌の男性がどのような生き物であれ、人間というものもなかなかに狡猾なのである。
「ええと、…………気付いたら森に迷い込んでいたようなのですが、私は、迷子なのでしょうか?」
「いや、君は道に迷ったのではなく、魔術的な理由でこちらに呼び落とされた者だ。私達の間でも、君達人間の間でも、そのような者を迷い子と言うんだよ」
「……………まぁ。という事は、あなたは人間ではないのですね?……………念の為にお聞きしますが、好きな食べ物は何ですか?」
「……………食べ物、かい?」
唐突な質問に、男性は不思議そうに澄明な水紺色の瞳を揺らした。
しかし、魔術という言葉が飛び出し目の前の生き物が人間ではないと判明した以上、脆弱な人間が真っ先に確認しなければいけないのは食料問題ではないか。
これで、実は美味しく人間をいただきますと言われた場合には、とんでもない事になってしまう。
「……………その、新鮮なお肉とか、魂的なものは食べません?」
「いや、そのようなものは食べないよ。食べるのであれば、君達と同じようなものを食べるし、……………好きな食べ物は、フレンチトーストとグヤーシュかな」
凄艶な美貌には不似合いな可愛らしい好物を告白し、真珠色の髪の男性は僅かに視線を彷徨わせる。
おや、これはいい人かもしれないぞという回答に、ネアはすとんと肩の力を抜いた。
無知な人間を騙して悪さをするような生き物が、素直にフレンチトーストが好物だと教えてくれるだろうか。
けれど、そう考え出すと、そもそも不正解のメニューは一体何なのかという思考の迷路に入りかけ、ネアは慌ててその壮大な謎を振り払った。
(……………結論は、出さないでおこう。でも、今はこの人と話してみようかな…………)
また少しだけ考えてから、そう覚悟を決めることにした。
このまま何も言わずに目の前の人物をやり過ごしても、明らかに森の奥深いこの場所で、また別の、それも優しく親切な誰かに偶然出会える可能性なんて、ほぼないに等しい。
(これが物語の冒頭ならば、森の近くに住んでいそうな村娘さん風のお嬢さんだとか、優しそうな仲良し大家族に遭遇するのが望ましかったけれど………)
ネアは事勿れ主義でもあるので、この際、ちょっぴり種族性に問題はあるものの、フレンチトーストが好きな綺麗な男性でも問題なしとしよう。
「不躾な質問をしてごめんなさい。あなたは人間ではないようなので、もしも、人間を食べるような怖いものだといけないと思ったのです」
「…………君は、それを私に言ってしまうのだね」
「……………む。うっかり、そのままお伝えしてしまいました。…………気分を害すると人間を齧ったりしますか?」
おずおずとそう尋ねたネアに、男性は困ったように微笑んだ。
くらりときてしまいそうな美しい微笑みだが、ネアの質問があんまりだからか、明らかに困惑している。
「君を傷付けたりはしないよ。もし不安ならば、そのような内容で、魔術誓約を交わせば安心してくれるだろうか」
(……………一気に怪しくなった!)
この状況でそう言われて、何と親切な人だろうと素直に受け取れる人間は、余程に心の綺麗な人に違いない。
残念ながらとても心が汚れているネアは、途端に遠い目になった。
目の前の男性が、通りすがりの良い人外者かもしれない誰かから、何か企みがあるかもしれないずる賢いものに思えてくる。
「なぜ、………見ず知らずの人間に、そのようなことまでをしてくれようとするのですか?ご親切で声をかけてくれたにせよ、あなたがそこまでをしてくれる理由にはならないと思うのですが…………」
抑えようもなく冷ややかな声になってしまったネアのその問いかけに、男性は淡く微笑む。
その微笑みは、はっとする程に美しく、そして、どこか悲し気であった。
だからだろうか。
手を伸ばして、はらはらと降る雪が触れることもない真珠色の髪の毛の頭を、そっと撫でてやりたくなってしまって、ぎくりとする。
迷子なのはネアの方なのに、なぜだか、森に一人ぼっちで置き去りにされた綺麗な獣と向き合っているような気がしたから。
「君に、……………会えたからかな」
とは言え、相変わらず返答は胡散臭い。
じりじりとまた少し警戒を深めたネアに対し、男性は、明らかにしょんぼりしてしまう。
(くっ、…………表情が狡い!)
そうすると、ぺそりと耳を寝かせてしまった大型犬か何かのように見えてしまうし、こちらは女性としての正当な危機管理をしているだけなのに、何だか虐めているような気持になるのでやめていただきたい。
「……………私に、ですか?」
「君がいないと、……………一人だから」
(……………っ、その言葉を、この人は何て悲しげに言うのだろう………)
あまりにも寄る辺なく、そして怯えているようにも見えて、ネアは胸が苦しくなる。
けれど、孤独というもののやるせなさならば、ネアだってよく知っているのだ。
「……………あなたは、ここに一人でいたのですか?」
もしやと思ってそんな質問をしてみると、男性はこくりと頷いた。
注意して見れば、近付いてネアを怖がらせないようにしているものか、その場から動く様子はない。
ただ、ネアの足元を何度もちらちら見ているので、履物の心配はしてくれているようだ。
(いい人、……………なのかしら?)
「君がここに迷い込むと知っていたから、ここで待っていたんだよ」
「…………とてもぞわっとしました。私を待ち構えていたのですか……………?」
「……………うん」
「どうしてあなたは、私がここに迷い込むと知っていたのですか?」
逃げた方がいいのかなという事を言うくせに、なぜだか稚い姿に、ネアは、もう少しだけ頑張ってその理由も聞いてみる事にした。
「ここは、物語のあわいだからね」
「物語の、あわい……………?」
「物語本から生まれる、既存の物語の通りに、物事が進む場所のことだよ」
「……………物語の、中なのですか?」
「うん。…………説明をしてあげるから、まずは森を出ようか。魔術を使って君が寒くないようにはしてあるけれど、森には良くないものもいるかもしれないから、陽が落ちる前に街に出た方がいい。……………私と一緒にゆくのは、不安かい?」
そう言われれば確かに初対面ですのでという感じでもあったが、どちらにせよここでは初対面の人にしか出会えない気がする。
ネアは、夜の森で凍死する予定も、お腹を空かせた森の獣のおやつになる気もなかったので、その問いかけにふるふると首を横に振った。
目の前の男性の言葉を信用した訳ではないが、ここで意固地になって心証を悪くしても仕方ない。
「まだ、状況がよく呑み込めなくて、失礼があったら申し訳ありません。ひとまず、森を出て街のようなところに行けるのなら、そこまでお世話になってもいいですか?」
「うん。……………まずは、靴を履き替えようか。足元を整えてあげるから、このブーツに履き替えてごらん」
そうしてどこからともなく取り出されたのは、綺麗なシェルホワイトの柔らかそうな革のブーツであった。
優美なラインが上品で、お店にあったら一目惚れしてしまいそうな婦人用のブーツなのだが、初対面の、それも人間ではない生き物から靴を借りてもいいのだろうかと、少しだけ悩んでしまう。
一瞬躊躇い、けれども室内履きで雪の森を歩きたくないという欲求に負けてしまい、ネアは、目の前の綺麗な人の言うままに雪の中を歩くには心許ない室内履きと決別してみることにした。
しかし、雪の中で靴を履き替えるとなると、全身の筋肉を使って片足を頑張って持ち上げていなければならない。
(座れるところなんて…………ある訳もないもの…………)
ネアが、果たしてこの体にそのような筋力があるだろうかと絶望していると、目の前の男性はくすりと笑った。
するとどうだろう。
ふかふかと積もった雪が、しゃりりっと音を立てて雪の色をしたタイルのようなものに変化するではないか。
ネアは、森の中に突然現れた人工的な空間に驚いてしまったが、虚空から取り出されたブーツといい、人間ではない生き物なのだから魔法のようなものが使えたりするのだろう。
座り心地の良さそうな椅子まで現れたので、そこに腰掛けて有難く室内履きをブーツに履き替えさせて貰うと、心許なさが一つ解消されて嬉しくなる。
見ず知らずの場所では、しっかり靴紐を結べる履き心地のいいブーツがあるという事が、こんなにも頼もしいのだと初めて知った。
森には、相変わらず静かな雪が降っている。
頭に積もった雪で濡れてしまわないのはなぜだろうと気付き見てみると、どうやら雪片は、ネアの体に触れる前に儚い水色の光となって消えてしまっているようだ。
(何もないところから、忽然と美しい椅子が現れる世界なのだ…………)
もしかすると、雪除けの魔法のようなものを、目の前の優しそうな男性がかけてくれているのかもしれない。
ちょっぴり、剣と魔法の冒険物語の主人公の気分になってしまい、ネアは訳知り顔で尋ねてみる。
「…………もしかして、私が雪で濡れてしまわないようにしてくれていますか?」
「うん。体が冷えるといけないからね。まだ、どこか寒いかい?」
「い、いいえ!…………その、お気遣いいただき有難うございます」
(やっぱり、魔法のようなものだった……………!!)
ここまで来たら、多少のことでは驚かないぞときりりとしたネアだったが、その直後、ずしんずしんと音を立てて森の向こうを巨大な羊のようなものが歩いてゆくのを見てしまい、ぎゃっと飛び上がることになった。
因みにその羊は、雪雲の系譜の大型の精霊であるらしく、雪が降る日に森を歩いているくらいで、特に人間に害を与える事はない生き物なのだそうだ。
雪の日の冷えた空気を食べ、穏やかな雪の日を過ごせる祝福を落としてくれる穏やかな生き物らしい。
ちっぽけな人間などぷちっと踏み潰してしまいそうだが、霧のような体なので周辺で暮らす人々や、森の木々にも影響はないのだとか。
「……………とても大きいですが、よく見るとふかふかしていて綺麗な生き物ですね」
「…………そうなのかな」
ゆっくりと森の向こうに歩いてゆく羊の後ろ姿を見送り、すっかり感動してしまったネアがそう言えば、隣に立った男性がどういう訳かしょんぼりとしている。
(もしかして、通りすがりの羊を褒めて、この人を褒めてあげていないからかな…………)
どこか老獪で酷薄な気配もある大人の男性姿なのだが、そんな事を考えてしまうのはなぜだろう。
ネアは仕方なく、綺麗な三つ編みですねと声をかけてみる。
すると、もじもじした魔物は、なぜかネアの方に、三つ編みを差し出すではないか。
「引っ張るかい?」
「…………綺麗な三つ編みなので、引っ張りません」
「そう、……………なんだね」
「なぜ落ち込まれたのでしょう…………」
渡された靴は、まるで自分のもののように足に馴染んだ。
雪に直接触れていた筈の靴下はなぜか濡れてはいなかったのだが、それでも冷え切っていた足を柔らかく包んでくれる。
(物語のあわい……………?)
どうしてこんな事になってしまったのかは、それがどのようなものなのかを知る事から紐解けるのかもしれない。
「あの、お名前を伺ってもいいですか?呼びかける時に使いたいだけなので、偽名でも構いません」
「…………ディノと、そう呼んでくれるかい?君には多分、そう呼んで欲しいんだ」
「はい。では、ディノとお呼びしますね」
ネアは自分の名前も伝えたが、人ならざるものに名前を取られてしまう系の怖い物語を読んだ事があったので、ただ、ネアとだけ伝えるに留めた。
森を抜ける道中、あちこちに落ちている光る鉱石の欠片が欲しくてちらちら見ていたネアに気付き、その一つを拾ってくれたディノは、ネアの中でなかなかに好感度を上げた。
歩きながら、どのような生き物なのかなとそれとなく聞いてみたところ、魔物だと答えられた際には震え上がったが、こちらの世界では魔物は沢山いる人ならざる者達の一種というくらいであるらしい。
対する生き物もいるのだろうかと神様の所在を探ったところ、教会で信仰の対象になっているものも信仰の魔物だと知り、ネアは、ディノが魔物だということはあまり気にしないことにした。
しかし、はぐれると危ないからと、手を差し出すのではなく、長い三つ編みを差し出してくるのはちょっと困るのでやめて欲しいと思う。