美しい空
茉麻は、さっと鞄を抱え、時計の針が6時を差す音がしたと同時に席を立った。そこに上司が近付いてきた。定時になって仕事を押し付けにきたのだ。
「今メールをした仕事、今日中に片付けておけよ」
「いえ、今日中に提出しなければならない仕事は全て終わりました。……用がありますので、お先に失礼します」
茉麻は上司に軽く会釈すると、頭を下げたまま、早歩きで退社する。茉麻の机には、大きな紙が張られている。そこには、全ての仕事とその締め切りが、大きな字で書かれている。
ここのところ、茉麻がしている工夫だ。
茉麻は自分の仕事を、自分のデスクの前に張り出した。表向きには『仕事の締め切りを勘違いする自分への対応策』だが、もちろんこれは上司対策である。こうすれば急に仕事の締め切りを『茉麻の勘違い』を理由に変えられることはない。いくら何でも上司がこの紙をすり替えるようなことはしないとは思うが、抑止力のためにあえて手書きにした上、スマホで写真まで残している。
茉麻はできるだけ残業をしないようにしている。そうしないと身も心も限界だと、茉麻はようやくマトモな判断ができるようになってきた。定時間際になって仕事を大量に渡すことの方がおかしいし、よくよく整理すれば茉麻一人に押し付けられている仕事も少なくない。
夕焼けが見える。赤と橙のグラデーションの、今まで残業続きでは見ることもなかった夕焼け空は美しいものだと思うけれど、どうしたって都会の空は濁っている。
夢で見た、夕焼けはもっと美しい。燃える炎みたいな赤を背景に、沈みゆく太陽を追うように、金の輝く筋が西の空へ、そして昇ってゆく月を追うように、銀の輝く筋が東の地平線から空へと上がり、やがて七色の星が輝く夜に変わる。それは流星群をいくつもいくつも集めてきたような光の奔流で――あまりの美しさに茉麻は涙を流した。
夢の世界に存在する生物らしいものは、大きく分けて四種類。
まず、ニケ達のような人々。茉麻の感覚からすると、動物と人間の間のような姿を取っているけれど、知性があって、少なくとも人と考えていい。
そして、召喚獣。夢の世界で見る、動物――茉麻自身も含まれるが――は、すべて召喚術士によって喚び出された他の世界の獣らしい。だから、戦場に向かうため、バリスタを引く獣車(茉麻の感覚でいえば馬車だ)も、召喚獣が引き、召喚術士が御者となっている。
召喚術を学んだ術士が、その人生で呼べる獣がひとつだけということを考えれば、家畜の労働力はとても貴重である。どうしても重い荷物を運ぶ必要がない限り、この世界の人々は自分の足で歩くようだ。
木や草などの植物。これは茉麻の世界のものと概念も姿もそう変わらない。
最後に魔物。ニケに言わせれば、これは生き物ではなく、世界の淀み、害悪としか言いようのないものなのだそうだが。
そしてこの世界の生物が決定的に違うのは、魔力によって生きているということだ。
この世界において、生きることというのは、世界に満ちている魔力を取り込むこと、らしい。したがって、この世界の生き物は食べる必要がなく、同時に、排泄の必要もないようだ。
(そうだよね、召喚獣を、普通の家畜みたいに食べるなんてありえなさそうだし……草食動物の獣人と肉食動物の獣人がいるんだもん、食事っていう概念がないんだ)
それに、夢の中で食事をしたりトイレに行ったりしない、というのは何となく納得がいく。
そんな世界の在り方を、毎晩、ニケは茉麻を喚んでは話してくれた。人々や世界の在り方が違えば、文化も驚くほど違っていて、ファンタジー小説を読み解くようだった。
「マーサは僕の話のひとつひとつに驚いてくれるから、僕はマーサのいる幻獣界がどんなところなのか気になるなあ。召喚獣がたくさんいる世界なんだっていうのは分かったけれどね」
「……ううん、全然。話すようなことじゃないよ。私は、自分のいた世界ではちっとも強くないし、むしろ弱いくらいだし。ここではなんでも思い通りになるけれど、私は……」
茉麻は、魔法で小さな星のような光を生み出し、ランプのようにテントの内側を照らした。この世界では、茉麻は、強い。思うがまま、自由に魔法が使えるからだ。
ここ数日の夢は、ニケは武器を背負った兵士や他の召喚術師達と一緒に従軍を続けていて、茉麻はその途中での戦闘で喚び出されて戦ったり、こうして休んでいる時にそっと召喚されて、話したりしたというものだった。ニケ以外の人々とも会話を交わすこともあり、続く日常のようになりつつある。
魔物と戦うのは、爽快だ。茉麻の思うまま、魔法で敵を一蹴できる。起きている間にも、こんな魔法が使えたらいいんじゃないか、いやもっとこんな魔法の方が素敵なんじゃないか、と妄想を膨らませている甲斐(?)あってか、想像力の許す限り強力な魔法を夢の中で使いこなせている。
最近は、自軍はほぼニケに万が一がないように控えているだけで、敵の魔物たちの大群の前にはニケと茉麻だけということが多い。その方が魔法を放つイメージがしやすくて楽なのだけれど。
いや。そもそも。
茉麻が望めば、全ての魔物をこの世界から消し去ることも可能なのではないか。
ただ――それをしないのは、この夢が終わるのではないか、という恐れがあるからだ。
ゲームで全ての敵を倒したらゲームクリア、物語は終わりになる。そもそもニケも、力を貸してほしいとはっきり言っていた。魔物が消えれば、茉麻は喚び出されないだろう。さっさと物語を終わらせるより、茉麻はこの夢をしばらく見続けていたかった。
「ん……結構眠っちゃったな」
茉麻は時計を見て呟いた。今日は平日だけど、有休を取って午後まで寝ていた。よくもまあこんなにも眠れるものだと自分に呆れながら、茉麻は軽くストレッチをする。
体をほぐした後は、朝食兼昼食を、簡単なインスタント食品で済ませ、身なりを簡単に整えて買い物に行った。
帰ってから、スマホのメッセージアプリに通知が来ているのを見る。彼氏からかと思えば、実家に住む妹からだった。家族で妹の誕生日会をやるので来ないかという連絡だった。
(何が誕生日会よ……)
二十七にもなって、というのが茉麻の感覚だ。
仕事で忙しくて行けない、と返信しようと思ったが、また嫌味を言われそうなので、面倒になり、返信せずそのままにしておいた。
実家には、両親と妹が住んでいる。この二つ離れた妹と反りが合わないため、茉麻は実家に顔を出すことを極力避けていた。
高校卒業後、しばらく実家でフリーターをしていたかと思えば、知り合いが起業したアートの会社が成功したらしく、そこでアート作品の制作を手伝っているらしい。それ自体はいいのだが、妹はいつも茉麻に対して、「苦しい思いして受験勉強して大学行って、それで苦しい思いして就活して、それで今は社畜とか本当、くだらない。私はずっと好きなことして毎日楽しいよ」と茉麻を馬鹿にした態度を取ってくる。
茉麻も言われっぱなしだったわけではない。それは運がよかっただけで、ベンチャー企業にはリスクもたくさんある、一概に自分のやり方が間違っているわけではないし、実際は茉麻のような生き方をしている人間が多いと反論した。
しかし、実際妹の方が収入もよく、日々充実しているのは明らかだ。成功者として見下してくる態度に嫌気が差したのと、自分の境遇への引け目を感じて、次第に距離を置くようになった。
そうすると、実家に寄り付かない茉麻のことを、両親も非難するので余計、行きずらいという恰好になる。大学まで出してやったのに、妹と違って親の面倒をみない親不孝者と詰られて以来、何年も帰省していない。
家のことを考えると、より憂鬱になった茉麻は、ため息をついた。
「もう寝ちゃおうかな……」
昼過ぎまで寝ていて、今はまだ夕方六時を過ぎたところで、今眠ったら明らかに寝すぎなのは分かっている。それでも、眠れば確実に。彼のあの、温かくふわふわの毛並みと青く落ち着いた瞳、穏やかな言葉が、癒してくれる。
シャワーも浴びず食事も取らず、茉麻はベッドに倒れ込んだ。