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塗り潰される思考


 七色の星が輝く、夜空を眺めていた。


 ――良かった。夢の中にいる。


「マーサ? どうしたの、空を眺めて……何かあったの?」


 正式な式典が終わり、ニケと、共に戦った軍の功績が称えられた。英雄となったニケはしばらくあちこちに呼ばれ、忙しくて茉麻を喚ぶ余裕がなかったらしく、やっと人心地ついたと、苦笑しながら話した。


 褒美は何でも取らせるというから、田舎に小さな土地と家を貰って、ゆっくりしたいと話したら、その年で隠居かと笑われた――とニケが苦笑しながら話すのを聞きながら、茉麻は少しぼうっとしていた。

 ニケの後ろの窓の星空を眺めていた。それに気付いたニケが、心配そうに茉麻を覗き込む。


「……私ね、少し辛いことがあったの」

「――!」


 聞いたニケの耳と尻尾がピンと立つ。ニケは茉麻の手を取って、矢継ぎ早に尋ねた。


「何!? 幻獣界で何があったの!? マーサにもどうにもできないことなんて……!」

「……大したことじゃないよ。よくあること。私、……あっちの世界ではすごく弱いから」


 よくあること。

 そう、理不尽なんてよくあること。


「誰かに何かされたのか!?」


 茉麻が目を伏せて小さく頷くと、ニケは牙を食い縛った。


「僕が、その時、こっちに喚んであげていられたら……! 僕は、呑気に何を……!」

「ニケのせいじゃないよ。ありがとう」


 茉麻はニケの柔らかくてしなやかな毛皮の、けれど芯はしっかりした体に、自分の身を預けた。ニケはそれを抱き止めてくれる。


 ……ああ、今日は、帰りが遅くて、眠ったのが遅いから、早くお別れになってしまうな。

 そんなことを頭の片隅に思い、茉麻は体を起こすと、ニケの手を取った。


「ねえニケ。……一緒に、空を飛ばない?」




 茉麻が望めば、ニケと茉麻の体は光の粒を散らしながら、ふわりと浮かび上がる。


「行こう」


 二階の窓から、手を繋いで、まるで絵本のピーターパンのように軽やかに宙に浮かぶ。ニケは慣れない感覚にちょっと戸惑っていたが、手を握って微笑む茉麻を信じて、そのまま二人で上を目指す。


 家の明かりが小さく下に見える。丸い国の形の中で煌めく金色の灯りは、まるで地上に星座盤があるようだ。夜風も心地いい。

 そして二人は、七色の光を放つ、水晶がたくさん浮かぶ場所まで来た。


「すごい。星に手が届くところまで飛んでる」

「星……? これが星なの?」


 茉麻は、水晶のような形の、空に浮かぶ輝く物体をちょんと指でつついた。りん、と鈴が鳴るような、心地いい音が響く。同時にパラパラと、七色の光の粉が落ちる。


「そうだよ。天の星から魔力が降り注いで、僕達の世界に命と恵みをもたらすんだ。昼は昼、夜は夜の星が正しく巡って、常に光を注ぐんだ」

「そうなんだ。なんて綺麗……」

 

 二人で星の間を飛び回り、笑い合う。


 そして二人は、ゆっくりと、近くの丘に降りた。初めて出会った場所だ。


「マーサ」


 ニケは、真っ直ぐに茉麻を見つめた。青い瞳が、ただ真っ直ぐに。


「初めて君を見たときから、僕はずっと君に見とれていた。とても綺麗で、それだけじゃなくて、優しくて……こんな気持ちになったのは初めてなんだ」


 時間が来る。ニケは光の粒になって消えていく茉麻を抱き締める。吐息が耳にかかるのも、はっきりと感じられる。


「ずっと一緒にいたいんだ、僕は、マーサを、」


 愛しているんだ。






「――――っ!」


 秒針の響く、真っ暗な部屋で伸ばした腕が、宙を切る。涙が溢れて、頬と枕を濡らしていた。




 重い体と心を引きずって出社した翌朝の午後、茉麻は書類を叩きつけられた。


「お前のミスでとんでもないことになったぞ」


 慌てて書類を見るが、まったく見覚えがない。この作業の担当は自分ではないはずだが、なぜか担当の名前は茉麻になっていた。


「違います、こんな、私の仕事じゃないです」

「言い逃れする気か!」


 男性である上司に激しく怒鳴りつけられ、声が出なくなる。そうだ、この上司は簡単に嘘を言って、ミスを押し付ける人だ、これは間違っている、と茉麻は分かっていたが、反論できない。反論できる証拠がない。上司の権限で担当者欄まで改竄されるなんて、どうにもならない上、そこまでやるのかと信じられない。


 茉麻は助けを求めるように同僚を見たが、同僚は皆気付いていないというようにこちらを見ない。あれだけの大声で怒鳴っていて、周りに聞こえていないはずがないのに。

 上司は散々怒鳴り散らした後、リカバリーとして全て茉麻が残りの仕事をやり切るように、会社に損害を与えたのだから当たり前だと言ってどこかに行った。


「おかしいよ……」


 茉麻は上司が部屋を出て行った後、同僚に救いを求めるように近付いたが、まるで汚いものが近付いてきたように避け、話をされる前に出て行く。パソコンに向かって作業をしている別の同僚も、目を逸らして言った。


「え」

「関わらないで。こっちが標的にされるから。上司に気に入られるのも仕事のうちだから、白浜さんが悪いんだよ」


 何か感情の線がおかしいのではないかというくらい、ヒステリックに怒鳴る上司より、彼らの態度の方が堪えた。



 できる範囲で本来茉麻のするべき仕事だけでもしようとしたが、手が震えてまともに作業にならない。このままでは本当にミスを犯しそうで、どうにか定時までは粘った後、茉麻は上司が帰るのを待ってから、体調不良を理由に帰宅した。


 苦しくて、苦しくてたまらない。

 電車の広告に、「苦しい時は周りに助けを求めましょう」と書かれたポスターが目に入る。違う、あんなの嘘だ。

 誰も助けてくれないから、苦しいのに。


 電車の窓に、映る顔色は明らかに悪い。見ていられなくなって、茉麻はスマホを取り出した。すると、メッセージアプリの通信が入っている。それは恋人からで、久しぶりの連絡だった。


『来週、時間空くけどどうする?』




 家についてから、茉麻は彼に電話した。数コール鳴っている間に、茉麻は言うべきことを考える。


「あ、あのね」


 会社の愚痴を言うと、あなたは怒るから。あなたの方が忙しそうだって分かってるから。だから話せなかったけど、でも、私、今は本当に困ってて。

 ごめん、来週まで待つなんて、でも、話を聞いてほしくて。それに、職場の問題なら、あなたなら何か助けになるアドバイスが――


『なんで電話なんだよ。今、俺仕事中なんだけど』


 聞こえてきたのは、苛立った冷たい声だった。もう時間は七時を回っているが、まだ仕事中ということは、残業していたのだろう。


「……ご、ごめん……でも、どうしても話を、聞いてほしくて」

『何』


 早口で促され、茉麻は今日あったことを話す。


「あの、仕事で、ミスを押し付けられて、それで――」

『また仕事の愚痴か? いい加減にしろよ』

「で、でも、本当にどうしたらいいか――」

『こっちも忙しいんだよ。連絡もロクによこさないし、たまに連絡来たと思ったらそれか。暗い話ばっかりして何なの? 仕事でミスした? そんなの俺に相談してどうするんだよ。もう切るから』


 待って、という茉麻の返事を待たず、通話は切れた。

 スマートフォンが手から滑り落ち、音を立てて床で跳ねた。ガラスの画面が大きく割れ、白く濁る。


 落ちたスマホを拾うこともせず、茉麻はキッチンへ向かった。戸棚に入っているのは、睡眠導入剤で、茉麻はそれを一パック取り出すと、次々にケースから取り出して、まとめて水で飲み下した。


 ニケ。

 ニケ。

 私を早くそっちに喚んで。助けて。


 何も考えず、眠ってしまえば、何の救いもない現実から、今は逃げられる。


 本来よりだいぶ多い量の睡眠導入剤は、早くも茉麻を眠りに誘った。

 どうせこんな薬、いくら飲んでも死ぬことはない。


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