『琥珀』という本がそこ(現実)にあるのはおかしくない?
ここ数日秋文さんがお店に来ません。きっと宿題に取り組んでいる事でしょう。えぇ、でも今日は来るかなって大きなパンケーキを焼いて待っていたんですが、来られなかったので二人分頂いてしまいました。
明日はお店に来てくれるかな?
秋文は、楽しい友達とのお泊り会でご馳走を食べ、テレビゲームに盛り上がり、普段より少し夜更かしをしてその日を楽しんだ。
そして、それ故にセシャトと話をしていた『琥珀』の話を考えた。
もうこれ以上に楽しい事が来ないなら、ここで自分を終わらせるという選択。
(怖い)
自分は死ぬのが怖い。
楽しい日が来なくなる事より、自分が世界からいなくなる方がもっと怖かった。やはり、自分から死を選ぶという事は理解できない。
この物語を読むのに自分の年齢が適していない事はだいたい分かっていた。
でも読み続けた。
背伸びをして、母親に褒めてもらいたくて、セシャトに会いに行くのがうれしくて、そんな子供らしい理由が秋文の最初の行動理念だったのかもしれない。
今、彼等の物語の最後を読む責任が読者としてある事を確信していた。できればハッピーエンドで終わってほしい。
そう願いながら、一文字一文字目で追っていく。
霧島さんは、空太君に宿題を出した。最初は病室でもできるデートプラン、そして次は何故だか背比べ。
秋文はその理由が知りたくて、翌日小学校の保健室に向かった。普段訪れる事のないそこは病院のような薬品臭で包まれていた。
「失礼します」
保健室には女医のように白衣を来た保険医、桜井良子先生が笑顔で秋文を出迎える。
「あら、秋文君。具合でも悪いの?」
「ううん、身長を計らせてください」
桜井は何か思うところがあるのか、笑って身長を図るのを手伝ってくれる。前に計っていた時とのデータを見せてくれて、少しばかり秋文の身長が伸びている事を教えてくれた。
素直に大きくなっている事は嬉しかったが、自分の身長が伸びている事を知っても空太の気持ちに近づく事はできなかった。
空太は小柄な男子である。
そして、自分もどちらかと言えば小柄だった。背の高さ順に並ぶと真ん中より前にいるし
自分より背の高い女子もわりといる。
「好きな女の子でもできたの?」
保険医の桜井が自分の身長データを見つめて無言になる秋文にそう言うので秋文は少し考える。いくらか仲の良い女子はいるし、好きか嫌いかといえば好きなんだろう。
ただし、恋心を抱いているかと言えばそれはノーだろう。
「そんな事ないです」
「ほんとかなぁ~?」
桜井が面白がってそう言うので、少し秋文もムキになった。
「そんなのいませんから!」
ムキになって少し恥ずかしくなる。
よくよく考えればいなくもなかった。いつも優しい声で自分の名前呼び、いつも自分の知らない事を沢山教えてくれる女性。
恐らく桜井が秋文をからかう理由は秋文は無意識に顔が赤くなっていたからだろう。少し乱暴に保健室の扉を開くと、これまた少し強い口調で秋文は言った。
「失礼しました!」
国語の授業中、『モモ 著・ミヒャエル・エンデ』について先生が、黒板に大事なポイントについて冗談を交えながら書き入れていく。
秋文もそのクラスメイト達もその黒板の内容を書き写し、適度に先生が質問を行うと、それを手を上げた生徒達が答えていく。
本日の授業内容も一息ついたところで、先生はこう言った。
「読書感想文の出来はどうでしょうか? 終わっている人がいたら先生のところに持ってきてください」
先生のその言葉を号令に、クラスでも勉強が得意な男女が先生に書き上げた読書感想文を持って行く。受け取った課題図書で書かれたそれらに先生は嬉しそうに何事かを述べる。
「来週の月曜日が回収日ですからね。皆さんしっかりお願いします」
狙っていたかのように授業を終わらせるチャイムが響く。
秋文は十分少々しかない休憩時間の間に速足に図書室へと向かった。分からない事が一つあり、セシャトに聞いている時間はなさそうだった事。
『シュレディンガーの猫』
ざっくりとしか書かれていないその言葉、小学生である秋文はまだ出会った事がなく、殆ど意味が分からなかった。
図書室でその言葉に関係する書物を探すが見つからない。秋文は図書室の係りにそれを質問し、専用の端末でキーワードを検索してもらうが、どうやら小学校の図書室にそれを書かれた書物はないとの回答が返ってくる。
「ありがとうございました」
秋文がお辞儀をすると、図書室の係りの少年が何を思ったか、呟くように言う。
「少しだけなら、知らなくはないよ」
「ホント?」
相手は年上の六年生だろうか? 何度か秋文は見た事があったが、貸出席に座りながら文庫本を読んでいる物静かな人というイメージしかなかった。
ごく普通のシュレディンガーの猫について説明を受けた。所謂猫とある環境がそろうと機能する有害物質を入れ、箱に閉じた時、猫が生きているか、死んでいるかという簡単な説明。
「そんなの分からないよ」
「うん、分からないんだよ。君はよく来る生徒だよね? どうしてそんな事が知りたいの?」
少し迷ったあげく、秋文は『琥珀』を少年に見せる。それを受け取るとペラペラと捲りそれをいくらか読むと秋文に返した。
「ふーん、中々面白いね。それ君が書いたの?」
「違うよ。僕はそんな事できないし、でもどうして?」
「いや、ならいいんだ。この『シュレディンガーの猫』って実験は僕等が見ている世界と、量子世界では差異があるとか、そういう意味に取られやすいけど、本質は理論の否定時に使われる事が本来の意味らしいよ。その本がそこにあるのがおかしくない? って感じ? いや、またちょっと違うのか」
秋文は背筋が冷たくなる。忘れていたが、『琥珀』は存在しない本。それを彼は知っているのか? ある種の恐怖と、少し大人に見える彼にお礼を言いながら秋文は図書室を後にした。
セシャトとはまた違った見解かもしれないが、疑問点は理解でき、次に進める。
5センチ、霧島さんがまだ身長で空太君に勝っている事実で霧島さんは泣いた。もし、霧島さんを空太君の身長が勝っていれば彼女は泣かなかったのか?
(分からない)
これもまた答えのない、疑問。
最後の宿題と称した霧島さんの願い。
もう病院にこない事、自分より可愛い彼女を作る事。
もし自分が空太なら、そんな事できるだろうか? いや、自分には出来ないと秋文は思った。そして、それは空太君も同じだったようで、心底安心した。
学校が終わると、秋文は普段買い食いなんて絶対にしない生徒だが、わけがわからなくなった空太がゼリーチューブを食べるシーンを思い出し、無性にそれが食べたくなった。
三十円、実際食べると、思っていた通りの味以上でも以下でもない葡萄味。
そして、秋文は一つに事実に衝突した。
あれは『シュレディンガーの猫』なんかじゃない。確実に箱の中の猫は死に行く運命にあったのだ。それを一番理解していたのは、空太であり、それを疑似的に追体験している読者自身なのだ。ただ、彼女に死んでほしくないそう願う気持ちがその事実を受け入れたくなかった。自暴自棄になりかけた空太を救ったのもまた、セシャト曰く彼がいる事で物語の進め方が上手く行くお助けキャラ。
確かに、今回も空太の心を支えたのは彼だったかもしれない。霧島さんの病気『サスペクトパシー』の事を言えず、それでも何処か達観した視線で彼を導いてくれた狩谷。秋文はこんな友達が欲しいと感じたくらいだった。
しかし、さすがに今回ばかりは彼でもフォローしきれないのだ。秋文も本を読む手が次のページをめくるのを躊躇した。
霧島さんの死。
チープな味のする駄菓子のゴミを握りしめながら、秋文は家へと帰る。今は古書店『ふしぎのくに』へ向かう気が起きなかった。セシャトに会いたくないわけじゃない。
今、彼女に会うと自分の今の気持ちが変わってしまうような気がして、秋文はあえて家に帰る事としたのだ。
「ただいま」
家に帰ると、手を洗い冷蔵庫の中を覗く、その中から麦茶を取り出すとそれをグラスに注いで、グラスを持ち自分の部屋へと戻る。
母親には宿題をする事を告げ、原稿用紙と『琥珀』の本を取り出した。
「ぐすっ……」
霧島さんの死を受け入れながら、最終項を読む。もう、秋文は泣く事を恥ずかしいとは思わなかった。
空太に霧島さんの母親が、空太が入院していた霧島さんに渡した便箋を形見分けとして持ってきた。そこには霧島さんの想いが赤裸々に書かれている。
そこで秋文は安心した。
「霧島さんも、怖かったんだ……」
秋文は、可愛くて少し不思議ちゃんな霧島さんがどんどんおかしくなっていく事が辛かった。彼女は死ぬ事すら大した事じゃないと思っているのだと、『琥珀』となる為にそれを選んだのだと、しかし違った。
彼女は病気と闘い、死にゆく事に震え、そして空太の為に選んだのだ。箱を開けた猫は死んでいるという事実を……
そして、彼女は確かに『琥珀』となった。
空太の心の中にいつまでも残る形で、彼女は救われたのかは分からない。
秋文はただ、筆箱から綺麗に削った鉛筆を取り出し、原稿用紙に向かった。
フォロワー様800名様突破となります。ありがとうございます^^
最近は私のイラストなんかも描いてくださる方もいて、大変うれしく思います。
そして、次回ひと月にわたり紹介させていただいた『琥珀 著・FELLOW』最終話となります。是非まだ読まれていない方がいらっしゃいましたら、『琥珀』をご拝読頂ければと存じます。とても胸に刺さる物語です。