神様狂言 神の領域に到達する読者
最近、神様が猫や犬を拾ってきます。飼ってはダメですよと言うものの何処から探してくるのでしょうか? こう言うと失礼な話なのかもしれませんが、子供は私たちとみている世界や関わっている世界が違うのかもしれませんね! すぐちかくにファンタジー世界はあるのでしょうか?
あれから何日経っただろうか? 梨花は夕食に出された病院食とは思えないコース料理を事務的に口に運び、鉛のように味のしないそれらを処理すると紅茶を二人分淹れて神様を待っていた。
この紅茶はまた今日も冷めていくのだろうなと梨花は思いながらそれを飲み、『礼装の小箱 著・九藤朋』を開いた。
桜子という女性に晶を奪われる華夜理。
桜という花は出会いと別れを意味する花だ。言葉通り、晶は桜と出会い、華夜理と離れていく不吉な名前。
「私には、桜が咲く時期まで時間がないのに……」
唐突に出会った神様と梨花は自分の感情に起伏を抑えられずに、別れる事になった。全ては自分が悪い。
一番良い方法をとろうと、華夜理と晶はもがき、そして迷宮の中で当然の如く迷子になっていく。
「神様が龍なら、私は……誰?」
今なら胸を張って梨花は言える。
自分は華夜理でありたい。あの、世間知らずでみんなに愛され可愛がられ、なんだかずるいと思えた彼女に自分はなりたいとそう心から願っていた。
梨花は自分の取り繕っている物を全て捨てる事に決めた。年相応の無力な少女に戻ろう、死ぬ事を恐れ、誰も来ない寂しさに夜な夜な涙で枕を濡らしていた本当の自分に戻ろう。
気が付くと本のページが雫で濡れていた。変な意地を張らずに、自分の思いのたけを華夜理も、晶も吐き出してほしい。
「貴方達にはやり直す時間があるじゃない……」
相手を思っての自己犠牲、そんな物に何の美学もない。時期に終わる自分だから言える。愛は従順でなければならないのだ。
そういう意味では自らの想いを貫いた浅葱には賛美を送りたいとすら梨花は思った。彼はそして彼を選んだ瑞穂は光溢れる世界が待っているのだ。
自分にはもう絶対に手に入らない時間だから……
「神様ぁ……」
誰もいない広い病室に嗚咽が漏れる。涙し、神様を呼んでも神様が姿を見せる事は無かった。神様は本当に存在したのだろうか?
自分と神様を繋ぐ物は今手にしている『礼装の小箱 著九藤朋』の本しかない。彼、あるいは彼女は何の為に自分にこの物語を薦めたのだろうか? それも分からない。
閑話休題の詩を読み、このリフレインに何の意味があるのかと梨花は考えて、やはり分からないのでページを進めた。
龍の愛車ベンツ。それは梨花の父の愛車の一つでもあったなと思い出す。確かバッハの名を冠したベンツだっただろうかと、正式名称メルセデス・ベンツ、これは女性、聖母マリアの名前の意味があると父に昔教わった事があった。
在りし日の父の姿、母の姿、そして殆ど会った事のない弟を思い出し、梨花は泣いた。
そして、龍が物語に登場する度に神様を思い出す。龍は最初こそ、華夜理をよくない所に引き込む悪い虫かと思っていたが、一途に幼い華夜理を一人の女性として愛する龍。もはや彼の尊さに梨花は華夜理を幸せにできるのは彼以外にはありえないとすら感じ始めていた。
トクン、トクン。
妙な鼓動が胸を打つ。これは終わりの始まり、梨花の記憶を空に還す時がやってきたのだ。それを梨花自身気づいていた。
(嫌……この記憶は誰にも渡さない)
息が苦しくなってきた。
されど、梨花は本を読むのを止めない。機能停止のカウントダウンを始めた心臓に送られる血液とそこから脳に運ばれる酸素、そして消え入りそうな意識のすべて、梨花の残る最後の生命力を読書をする事に使う。
地獄の門では生前の善い行いを問われるらしい、語れる程まともに生きてきたわけではない。だが、読書量ならどうだ? 文庫本にして二千冊、文字数にして二億五千文字程は人生で読んできた。
なら死後最高のユーモアに、エンマ大王様にはこの『礼装の小箱 著・九藤朋』の話でも土産にしてやろうか……等と考えていたが、今は違う。
あの……神様との最後の繋がりを読了した時、彼はいなくともその心は彼と共にあるのではないかと……
今ならまだナースコールを押せば助かるかもしれない。文字が霞んで読みずらい、胸の鼓動は切れかけの電灯のような不安定な挙動を行い。
息が苦しい。
されど梨花がナースコールに手を伸ばす事はなかった。桜子が華夜理の元にやってきて彼女の心を折りに来るシーンだ。
(そうか……私は……桜子なんだ)
そして、今の自分であれば到達しつつあると梨花は思った。今が現実なのか、あるいはもはやここは死した者の世界か……あるいはその境目にあるという常世なのか?
人間という矮小なれど、生き物の芸術。この芸術を作った者は誰か? その頂に挑戦する権利を梨花は得た。命という一回限りの切符を燃やし尽くして……
作品の理解を超越した同化。あの神様の朗読がそれだったのかもしれない。あの神秘的で魅力的な朗読は人知を超えた存在故なのだろう。
同時に愛という物がその存在を高位に高める事がある。浅葱の瑞穂を受け入れてからのそれを浅羽は感じ取ってた。
生ある者は方法は違えど、変わる事ができる。それも天上の頂に与する存在とは違う方法の成長……
(いいなぁ……いいな)
いつしか、梨花は涙し、嫉妬とし怒り、苦しみ。今や『礼装の小箱 著・九藤朋』という作品との同化を果たそうとしていた。
あと七章にあたる『其ノ漆拾』から終章である『其ノ捌拾』を残すだけだった。それを読み切った時、梨花は神様と同じ場所に到達できる……
「……ッ」
梨花の眼前には水族館が見えた。これは小説の物語の情景だろう。ゆっくりと自分の姿を確認する。このワンピースは華夜理なのだろうか? 巨大なガラスに映る知らない少女。その少女は頭にジンベイザメの髪留めをつけている。
この少女が誰だかはこの際どうでもよかった。これが神様の朗読の世界なのであれば堪能させてもらおう。
神とは幼いものだと何処かで聞いた事がある。それは神以外にも人ならざる者は何処かそのイメージがある。それは人間の感性や常識ではそう認識せざる負えないのか……?
ならば、彼女。
華夜理の幼児退行もまたその領域にPTSDという引き金が到達させたのか? 尊い。ただの個人の予想や読み取り方。
(嗚呼、私は華夜理ではないのね)
何故なら、遠くで恐らくは華夜理、恐らくは晶が向き合い何かを話している。彼らはこれから起きる最後の試練に耐えうる事は出来るのだろうかと梨花は考え、ガラスに映る見知らぬ少女の顔と見つめ合っていた。
巨大な水槽から回遊してきた巨大な魚。現在存在する魚類の中で最大の大きなを誇るジンベイザメ。おおよそ六千年前から存在していたと言われているこのジンベイザメ、まさに神話の時代から現れた存在である。
なんと優美に泳ぐのだろうか? そしてこの巨体なのに恐怖はおろか、なんと可愛らしいのだろうかと梨花は思う。龍という生き物が世の中に存在するかは分からないが、この姿を昔の人は龍と見たのかもしれない。
物語の中の龍、彼は脊髄を損傷し、両足の機能を失ってもは心腐らず、尚華夜理を想っていた。彼女が自分に面会する為に自分の家名を出してまで来た事を叱り、それでていて彼女を責める事もない。彼は紛れもなく大人だった。
梨花は思った。
もしかすると、あれだけひどい事を言った自分を神様はもしかしたら許してくれるのではないかと、希望を持って……
(あれ?)
文字が入ってこない。
情景が浮かばない。
彼女の開いたページは其ノ漆拾陸、華夜理が自分の綺麗な御髪を鋏で切り取ったところで終わっていた。
一瞬とはいえ神の頂に到達した梨花の最期。人は人を辞める事は出来ない。梨花は何が起こったのかもわからないまま、本を持った姿勢のまま意識を失っていた。
その手にあった『礼装の小箱 著・九藤朋』がゆっくりと消えていく。食事を運びに来た看護師が梨花の様子を見て近寄り声をかける。
「梨花様?……梨花ちゃん!」
すぐにナースコールを押すと、人工呼吸と心臓マッサージを行う。そして緊急で梨花は手術室へと運ばれていく。
そんな様子を一部始終見ていた神様は何もないところから栞の刺さった本を取り出す。そして、梨花の病室に備え付けられている冷蔵庫を開けるとまだ神様が作ったカナッペが残っていた。それを取り出すと神様は食べる。両手に持って残りのすべてを平らげると、梨花の飲みかけであるミネラルウォーターで喉を潤した。
「食べ物も飲み物も、死人には不要の物だからな」
神様は冷蔵庫の中を空にすると神様は梨花の病室を見渡した。二十畳はあるだろうか? これは両親の愛の揺りかごであり、彼女の魂の牢獄だった。そんな部屋の中で神様は取り出した本の栞を刺してあるページを開いて中を見る。
「梨花ならあるいはとも思ったんだが、やはり人間には無理だったか、せめて船頭くらいは私がしてやらんとな、私が撒いた種だ。必ず最後まで読ませてやる」
神様は梨花が運ばれていった手術室へとゆっくりと向かう。その途中で何度か神様に食べ物をくれた老人が神様に声をかけた。
「おい、ぼん! どら焼き食っていくか? お?」
神様はそれに対して無表情で振り返る。普段とは違う神様の反応に老人も身構えるが、段々と口角が緩み、頬を染めて神様は笑った。
「いただこう!」
最後まで読了する事なく、梨花さんが亡くなってしまいました。
一体神様は何をお考えなのでしょうか? クライマックスまであと2話です。
是非、礼装の小箱を読んで当物語をお楽しみ頂ければ嬉しいです!




