9.突然の訪問
それから数日。
紫乃は、極力弘晃のことを思い出さないことで平静を保ち、妹たちは見合いの話を姉の前で蒸し返さないことで自分たちの身の安全を確保した。
この間。紫乃にとって一番厄介なのは自分の母親だった。彼女は、娘の縁談が決まりそうなので、いつになく浮かれていた。成り上がりの六条家とは違い、数百年に渡って日本橋の大通りに店を構え、幕府や大名などの御用商人を勤めてきた中村家は、特に体裁を気にする母にとっては、同じ商売人でも商売人の格が違う。今から結婚式の相談などされても紫乃にとっては鬱陶しいだけだが、かといって邪険にすれば母の不審を招く。彼女は紫乃がこの縁談に乗り気だと信じているのだ。仕方がないので紫乃は笑って彼女の話し相手になるしかなかった。
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見合いから10日ほどたったある日。
「ああ、よかった。ようやくお戻りになられた!」
いけ花の稽古から帰ってきた紫乃を、女中頭が取りすがらんばかりの勢いで出迎えた。
「そんなに血相を変えて、どうしたの?」
「中村さまが、お見えになっているんです!」
「なんですって?」
紫乃は顔色を変えた。あの男……。事前に連絡もいれずにいきなり家に押しかけるとは、いったい、どういう了見なのだ。紫乃はムッとしながら、稽古から持ち帰った花材を束にしたものを抱えたまま、まっすぐに応接間に向かった。女中頭が後ろから彼女に追いすがりながら、「先ほど奥さまが戻っていらっしゃいましたが、それまでは、お嬢たちがお相手を…」と、紫乃に報告する。
その妹たちは、応接間の入り口に群がって中の様子をうかがっている。姉を見つけると、彼女たちはクスクスと笑いながら彼女に道をあけた。
「あなたたち、はしたないわよ。向こうに行っていなさい」
紫乃は、小さな声で妹たちを追い払った。去り際に、月子が「素敵な方ね。お姉さま」と耳打ちする。こともあろうに、「お姉さまのお相手が、とても優しそうな方でよかった」と、おとなしい夕紀までもが月子に同調した。あんな男の、どこがよいものか。全然よくない。紫乃は、ますます不機嫌になりながら応接間の扉を開けた。
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「やあ、お邪魔していますよ」
紫乃が入ってくるや立ち上がった弘晃が、げんなりするほど晴れやかな笑みを彼女に向けた。
「なにしにっ……いらしたのでしょうか?」
母の手前、紫乃は途中で言葉を改めたが既に手遅れだった。彼女は母に、「なんという口のききかたをするんです?」と咎められた。
「結婚を前提にお付き合いさせていただくのであれば、紫乃さんのお母さまにもご挨拶しておくべきかと思いましてね」
余計なことにまで気が回る男だと紫乃は思ったが、「本当にご丁寧にありがとうございます。失礼をしたのは、わたくしのほうですのに」と、母は、ほんのりと頬を染めながら弘晃に礼を言った。
どうやら、彼は、既に母親を丸め込むことに成功したらしかった。
母と親しげにしている弘晃を紫乃が忌々しく思いながら見ていると、弘晃が、母に向けていた笑顔を、そのままこちらに向けた。
「それから、なによりも、貴女にお会いしたかったので」
「は???」
紫乃の頭は、弘晃の言葉の意味するところを理解することを放棄したようだ。
「なにを言ってるの?」
紫乃は、口をポカンと開けたまま弘晃にたずねた。
「ですから、言葉通りの意味ですよ。貴女にお会いしたくて、ここまで来たんです。少しばかり、お時間を頂戴できますか。できたら、ふたりだけがいいのですが」
「困ります」
紫乃は即答した。言葉を態度で示すべく、弘晃から逃げるように数歩後ろにも下がった。
「困りますか?」
「ええ。とっても」という紫乃の返事は、「まあまあ、困ったりするわけないじゃないですか。この娘ったら照れているんですわっ!」という甲高い母の声に打ち消された。
母は紫乃に向き直ると 怖い顔で彼女の耳元に口を寄せた。
「紫乃。お客様に対して、なんて失礼なことを言うのです。今日のあなた、変よ」
「だって、困ります。だって……あの……持って帰ってきたお花だって、活けなおさなくてはいけないし……」
紫乃は、まるで自分の身を守るように、持っていた花束を両手で抱えこんだ。花束から不恰好に突き出た藤の花房が、いやいやするように、母の顔の前で大きく揺れた。
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「……で、なんで、こんなことになるのよ……」
数分後。紫乃は、カーペットが敷き詰められた応接間の片隅に正座して花を活けていた。
紫乃の傍らには、同じく床に敷いた座布団の上に正座をした弘晃が、穏やかな微笑を浮かべながら、彼女のすることを興味深げ眺めている。
母は、すでに席を外していた。花を活けかえなければならないので弘晃と話す暇はないとごねる娘の主張は、母には通じなかった。
「そうね。では、活けかえておしまいなさい。弘晃さん。この子の活けた花は、母親のわたくしがいうのもなんですが、なかなかのものですのよ」
母は、紫乃の特技を弘晃にアピールする丁度良い機会だと言わんばかりに、女中頭に命じて、活けかえるのに必要な道具や花器を応接間に持ってこさせた。そして、「では、ごゆっくり」と微笑むと、紫乃と弘晃を残していなくなってしまった。母は、愛娘をこの男を二人きりにすることについて、何の心配もしていないらしい。本来は用心深い人なのに、短い間に、よくもそこまでこの男を信用したものだと、紫乃は苦々しい思いをしながらも感心せずにはいられなかった。
「逃げそびれてしまいましたね?」
母がいなくなったのを確認すると、弘晃が、内緒話でもするように紫乃にささやいた。
「べ……別に、逃げようと思ったわけではありませんわ」
紫乃は、弘晃から、つんと顔を背けた。
「そうですか?」
「そうよ。誰が逃げたりしたりするものですか。ふ、藤が……」
泳いだ紫乃の目が、紫色の花のところでとまった。
「藤?」
「そう、こ、この藤が」
紫乃は、藤の枝を掴むと、弘晃に突きつけた。花の重みに耐えかねるかのように藤の蔓が大きくたわむ。花の房の動きに合わせて、弘晃の視線が上から下へ大きく動いた。
「ほらね。蔓だから花の重みで曲がってしまうのよ。だから……だから、後で活け直すことにして、バケツに入れといても良かったのだけど、それでは花を傷めてしまいそうだったの。だから、決して逃げようと思ったわけではないんです」
「なるほど、扱いが難しい花なのですね?」
弘晃は、紫乃の言い分をニコニコしながら聞いていた。終始こちらに向けられた微笑といい、やんわりとした話し方といい、紫乃の空威張りなど百も承知だといわんばかりである。彼の何もかも見透かしたような態度は、紫乃をひどく落ち着かない気分にさせた。それどころか、この男が紫乃をわざと怒らせて喜んでいるように思えてしかたがない。
紫乃に突きつけられ、まるで、びっくり箱から出てきた人形のように上下に揺れている藤の花を見みながら弘晃が無邪気に言った。
「それにしても、この色といい、人の目を引きつかずにはいられない美しさといい、まるで紫乃さんのようですね」
「それは、つまり、私の扱いが難しいっておっしゃりたいんですか?」
たちまち、紫乃の声が尖る。
「違いますよ。素直に綺麗だなって思っただけです。紫乃さん。お願いですから、花鋏をこちらに向けるのは、やめてくれませんか?!」
弘晃が、刃物の先端から逃れるように、わずかに身を引いた。
「もう。本当に、いったい何しにいらしたの。用がないないなら、とっとと帰ってくださいな」
紫乃は、プリプリと怒りながら弘晃から視線を外して花器に向き合うと、花を活けることに集中しようとした。
「だから。貴女にお会いしたかったのですよ」
弘晃が答えた。
「嘘ばっかり」
紫乃はにべもない。
「本当ですよ。貴方に、ぜひ伺いたいことがありましてね」
「なんでしょうか。なんでも答えて差し上げますから、答えを聞いたらさっさと帰ってくださいな」
「では、遠慮なく」
弘晃が居住まい正した。
「紫乃さんは、どうして僕との交際を断らないんですか?」