6.
コンテストで1位になったウェディングドレスは、巧みに寄せられたドレープが描く波のような優美な曲線が美しいドレスだった。薄く柔らかな生地を幾重にも重ねたベールは霞を被っているのではないかと思うほど軽く、紫乃が頭を動かすたびに、空気をはらんで、ふうわりと揺れる。
肘を隠すほど長い白手袋をはめれば、支度は完了。今日の段取りを説明するために入ってきた梅宮からの「大変おきれいです」という誉め言葉を、紫乃は微かな含み笑いと共に素直に受け入れた。梅宮が自分たちの結婚式のために大宴会場の壁を壊そうとしたという話を聞かされて以来、彼を見るたびに笑いがこみ上げてくる紫乃である。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。今日は、どうぞよろしくお願いします」
紫乃は真面目な顔に戻ると、怪訝な顔で問いかける梅宮に丁寧に頭を下げた。それから、梅宮の先導でホテル内に設けられているチャペルへと向かう。
「ご新郎様、ご列席の皆さまは式場にお揃いです。花嫁さまは、これから、お父さまと御一緒に式場に入場していただくわけですが……」
滑らかに回っていた梅宮の舌の動きが、急に鈍くなった。
「父がどうかしましたか?」
「いえ、その…… 花嫁さまのお父さまには珍しくないことなのですが、少しばかり感傷的になっておられるようでして」
父源一郎の状態を表わす梅宮の表現は、控えめすぎるものだった。まもなく、場所もわきまえずに泣く源一郎の声が、彼の姿が見える前から聞こえてきた。泣き声に混じって、微かではあるものの源一郎を宥める母親の綾女の声も聞こえる。
「お母さま、来てくれたのね」
紫乃は、ドレスの裾を持ち上げると小走りに両親に近づいた。一度は他の愛人たちに説得されたものの、綾女は、今朝になっても、まだ結婚式への出席をためらっていた。 紫乃は、直前で綾女に逃げ出されることも覚悟していたから、両親が揃っていてくれることだけでも嬉しかった。
「あなたがいけないのよ。出かけ際に、お父さまにご挨拶なんかするから」
綾女が、恨めしげな視線を紫乃に向けた。
支度に時間が掛かるため、紫乃は一足早くに家を出たのであるが、その時、彼女は父親に向かって、『行ってきます』の代わりに『今までお世話になりました』と頭を下げて出て行った。それ以来、源一郎は、『結婚式なんかヤダ!』『式になんか行かない!』と、子供のように駄々を捏ね続けているのだという。
「他の奥さまたちも子供たちも、ひどいのよ。この人のことをおいて、さっさと出かけてしまうのですもの」
源一郎と家に取り残されてしまった綾女は、泣きじゃくる彼を宥めたり脅したりしながら着替えさせ、無理矢理車に押し込んで、どうにか、ここまで連れてきたのだそうだ。
「あなた、しっかりしてくださいな。結婚したって、紫乃がいなくなってしまうわけではないのですから。ね?」
綾女は、涙と鼻水でぐしょぐしょになった源一郎の顔をハンカチでぬぐうと、「あとは、よろしくね」と紫乃に彼を押し付けた。嫌々ながら父親を受け取った花嫁は、父に手を引かれて……ではなく、メソメソと泣いている父の手を引っぱりながら祭壇へと向かうことになった。
なんとか祭壇まで到着すると、紫乃は、再び綾女に源一郎を押し付けた。
普段は父の愛情を取り合っている他の愛人たちは、今日だけは妻の役割を全面的に綾女に譲ってあげることにしたようである。彼女たちは、苦労している綾女に目もくれずに、しれっとした顔で中村家側の席に座っている。
「お義母さんは責任感の強い方ですから、今日は1日中、六条さんの傍を離れるわけにはいかないでしょうね」
紫乃の手をとった弘晃が、彼女を引き寄せながら耳元で囁いた。
「そうですね。これまで駄々を捏ねていた報いですわ」
紫乃は、弘晃に腕を絡めると、彼と共に前を向いた。
泣き虫の父の面倒は、母に任せておけばいい。
母にしたところで、心の底では父の面倒を見ることを楽しんでいるに違いないのだ。
紫乃は、心置きなく自分の結婚式に専念することにした。
牧師が読み上げる誓いの言葉のひとつひとつを、紫乃は心の中に納めるようにして聞いた。『病めるときも、健やかなるときも』という言葉通りに、この先、幸せなときも辛いときも必ず巡ってくることだろう。病弱なことこの上ない弘晃と結婚するとなると、辛いときは、普通の健康な人と結婚した場合よりも、きっとずっと多くなると思われる。
『あと3年』と生まれた時から言われ続けている。この先も、ずっとそう言われ続けることだろう。
そう告白してくれたときの弘晃の悲しそうな顔を、紫乃は忘れていない。
そんな事情すら教えてもらえずに、弘晃から一方的に別れを告げられたときの悲しさも覚えている。
『あと三年と言われ続けて30年近く生きてこられたのだから、これから後の30年は、私が彼を生かしてみせる』と、強がりを言ってみたところで、運命は必ずしも紫乃の思惑通りには進んでくれないかもしれない。そう思うと、怖くてしかたがないときもある。
それでも、弘晃と別れるよりはまし。
彼と一緒にいたいと思ったから、紫乃は全てを受け入れる覚悟を決めた。
幸せはもちろん、辛いことも弘晃と一緒に受け入れる。そして、ふたりで乗り越えていく。
なにがあろうと、彼とは決して離れない。
良くも悪くも婚約してから3年間もあったから、紫乃の心の用意は、すっかりできていた。
ベール越しに隣を盗みみると、弘晃も神妙な面持ちで牧師の口元を見つめていた。婚約前には、紫乃に迷惑をかけることを気に病んでいた弘晃も、3年の間に心の準備をしてきたに違いない。
最近の弘晃は、紫乃に世話をかけさせても無闇に謝らなくなった。その代わりに、紫乃が傍らにいてくれることが自分にとって何物にも代えがたい幸せであるということを、折に触れて、心のこもった感謝の言葉と共に伝えてくれるようになった。
『誓います』と答えるふたりの声は、どちらも力強く、そしてキッパリと式場内に響いた。
誓いのキスは、弘晃が紫乃の空気のように軽いベールを外すのに、いささか手間取った。大勢の人間に見守られながらのキスは唇をかすめる程度の軽いものだったが、弘晃はかなり照れていたようだった。式の終了間近の賛美歌の終わりに、それまでの厳かな雰囲気をぶち壊しにするような盛大な父の泣き声が被ったのは御愛嬌というものだろう。
笑みを交わす新郎新婦の幸せそうな顔を見れば、誰もがふたりの幸せが末永く続くようにと願わずにはいられない。そんな心温まる結婚式だった。
その後の披露宴のことを、紫乃は、ほとんど覚えていない。
司会者に促されるままに退場し、ドレスを着替えて、また会場に戻る。その繰り返し。慌しいばかりの披露宴の間に紫乃が気にしていたことといえば、弘晃の体調のことだけだった。
何時間にもわたる披露宴の間、弘晃のために用意された控え室には彼の幼馴染でもある岡崎医師とその父親が待機してくれていた。梅宮もなにくれとなく弘晃に気を配ってくれるので、彼は疲れたようすも見せずに比較的元気に過ごしていた。それでも、披露宴が早く終ってくれるに越したことはない。しかしながら、来賓たちのスピーチは、よくもそんなに話す事があるものだと感心してしまうほど、ひとりひとりが持ち時間を大幅にオーバーしていた。
「これでは、10時間かかっても終わらないかもしれませんね」
梅宮が、絶望的な予測を口にしながら司会者をせっつきに行った。とはいえ、この披露宴でスピーチを頼まれている来賓は政財界の重鎮ばかりである。自尊心の塊のような彼らのスピーチを『時間が押しているから』という理由で途中で打ち切れるほど、司会者は命知らずではなかった。
「大丈夫。手は打ってきたよ」
予定の半分も消化しきれないうちに4時間近くが経過した頃、和臣が控え室に顔を出した。
「笹倉のお父さんに、こっそり事情を話してきたんだ。喜んで憎まれ役を買ってくれるそうだよ」
和臣が笹倉と呼んでいるのは、彼の友人である。笹倉の父親は、今日の披露宴の出席者の一人であり、これからスピーチを行うことになっていた。
『憎まれ役を買ってやる』と宣言していた通り、笹倉氏のスピーチは、長いばかりの話がどれほど結婚式のご馳走を不味くするか……という話題から始まった。そして、その後の1分ほどで、彼は、短くて気の利いたスピーチのほうが素晴らしいのだということを実証して、さっさと自分の席へと引き返していった。笹倉氏のおかげで、その後の来賓は長い話をしづらくなり、披露宴は、初めに想定されてい時間内の6時間半で終わることができた。
披露宴が終わると、花嫁花婿とその両親は、宴会場の出口に立ち、招待客のひとりひとりをお礼の言葉と共に見送った。全ての客が宴会場を後にするまで、およそ一時間。弘晃は、最後のひとりまで気を抜くことなく、にこやかに丁寧に応対していた。
だが、弘晃には、肺炎で倒れる直前まで何でもないような顔をして仕事をしていた『前科』がある。
「弘晃さん。わたしたち、もう、お部屋に下がらせてもらいましょう」
最後の客が紫乃たちに背を向けるやいなや、紫乃は、一刻も早くふたりきりになるべく(そして、弘晃を休ませるべく)彼の手を取った。
今晩の2人は、このホテルのスイートルームに泊まることになっている。
「それでは、みなさま、お先に失礼させていただきます」
梅宮から鍵を受け取った紫乃は、その場に残って客同士で話をしている者たちや親戚たちに優美な仕草で頭を下げた。新妻に倣って、弘晃もぺこりと頭を下げる。
「いやはや、最近の女性は積極的になったものだねえ」
そんなことを言いながら忍び笑いを洩らしている者たちに見送られて、紫乃たちは会場を後にした。




