5.
パーティーが終わると、紫乃は、六条家へ帰る妹たちと別れて弘晃の母親と共に中村家へと戻った。ドレスコンテストの結果と今日の成果を、一番先に自分の口から弘晃に伝えたかったからだ。
女性だけのパーティーということでもあり、また、姦しい女たちの毒気にあてられて疲れてもいけないというので最初の挨拶だけでお役ゴメンとなった弘晃は、一足先に家に帰り、いつものように彼の部屋のベッドの上で休み休み仕事をしながら紫乃の帰りを待っていてくれた。
「紫乃さんが一番気に入っていたドレスが3位になったんですね」
「弘晃さんがお気に召したのは、7位ですよ」
得票数が多かった順にアルバムに収められた58枚ものウェディングドレスの写真を弘晃と一緒に眺めながら、紫乃が力なく微笑んだ。気の張る会話と愛想笑いをしすぎたせいで、口角を上げる筋肉が痙攣を起こしそうになっている。
弘晃は、いったんアルバムを脇に置くと、『だいぶ、お疲れのようですね』と、紫乃への気遣いを見せた。
「なんのこれしき、ですわ」
「とても、そうは見えませんよ」
紫乃の強がりを、弘晃は簡単に見抜いてしまう。
「事前の準備も大変でしたものね。ウェディングドレスなど、もう見たくもないのではないですか?」
「まあ! わたくしが、大量のドレスを着ることになったのは、何のためだと思ってらっしゃるの?」
紫乃は口を尖らせた。
「結婚式はこれからですのよ。 あと8着や10着ぐらい、余裕で着られますわ」
「それは頼もしい」
弘晃が笑う。
「僕も大丈夫そうですよ。梅宮さんが、いろいろと考えてくださったのでね」
挨拶を終えて引っ込んだ後も、弘晃は、しばらくの間は梅宮が用意してくれた控え室で過ごしていたそうだ。披露宴の当日も、同じ控え室を使用することになるという。
「非常に快適だったので、当日も、無理をしなくても乗り切れそうです」
「そう、良かった」
紫乃は表情を和ませた。それと同時に、これまで持ち続けていた茅蜩館の宴会部長への不信感も緩んだ。彼女にとって、弘晃に良くしてくれる人とは、信頼に足りる人と同じ意味を持つ。『たいへん良くしてくれた』と弘晃が言うのならば、その人は、彼女にとっても、とても好い人に違いないのだ。
「そうそう。梅宮さんといえば」
紫乃は、忙しさにかまけて忘れていた大叔母との会話を思い出した。
「弘晃さんさえ変更を言い出さなかったら、梅宮さんは、1700人のままで座ってお食事するパーティーを開いてくれたはずだって、葉月おばあさまがおっしゃったの」
「やっぱり、あの人たちは、そういう悪どいことを考えていたんですね」
弘晃は、額に手を置くと、大きく息を吐いた。
「じゃあ、本当に?」
「茅蜩館にはね。 昔からのモットーというか不文律のようなものがあるのですよ」
驚く紫乃に弘晃が説明する。
茅蜩館のモットーとは、『お客さまに対して、いったん笑顔でお引き受けしたことを、こちらの都合で覆してはいけない』というものだそうだ。
「『千両蜜柑』という落語を知ってますか?」
冷蔵庫もなかった昔。夏の盛りに「みかんを食べたい」という若旦那の望みをかなえるために、たった一つのみかんを千両で買うハメになる落語『千両蜜柑』。創業以来、茅蜩館は、この落語を地でいっているのだそうだ。
引き受けたことは、たとえ身代を潰すことになっても、なにがなんでもやり通すのが、茅蜩館のやり方である。実際に、無茶が過ぎて潰れたことも過去に何度かあったそうだ。だが、そのたびに、根強い『茅蜩館びいき』……今でいうところのファンの尽力で立ち直ってきた。
「梅宮さんは、僕の体が弱いことにも、僕が主役となるパーティーなら立食は無理だということにも、早い段階で気が付いていたようです。だけど、梅宮さんからは、招待客を減らしてほしいとは言い出せなかった。しかしながら、たとえ梅宮さんが『できない』と言ったとしても、うちのジイさんバアさんたちは、茅蜩館のモットーを盾にとって、1700人の正餐でのパーティーをやらせるつもりだったのでしょう」
「でも、どうやって?」
茅蜩館で最も大きい宴会場での正餐での宴会は、1200人が限界であると、紫乃は聞いている。
「今日、梅宮さんに聞いてみたんですよ。そうしたら、『壁を外せばなんとかなるのではないかと思った』と、冗談みたいなことを大真面目な顔で言ってましたけど」
「壁って、どこの?」
「大宴会場と廊下を隔てている壁とか、僕がいた控え室と大宴会場を隔てている壁のことだと思いますが」
大宴会場が狭いために人が入りきらないのであれば、壁を取り払って広くしてしまえばよい。梅宮が忙しそうだったので詳しくは聞かなかったが、つまりはそういうことなのだろう、と、弘晃が苦笑混じりに説明する。
「でも壁って、そんなに簡単に外れるものではないでしょう?」
「簡単には無理でしょうね。思い切ってぶち抜いてしまうのではないでしょうか」
「そんなことしても、大丈夫なんですか?」
「柱を外さなければ、強度的には問題はないと思いますけど」
弘晃がため息をつく。
「でも、いくらなんでも、私たちのためにそこまでするでしょうか?」
紫乃は、今日使わせてもらったパーティー会場を思い出しながら首を捻った。あの宴会場は充分に広い。自分たちの披露宴だけのために大きくしたところで、この先、広間の使い勝手が悪くなるだけだろう。
「なんといっても、茅蜩館ですからね」
困惑している紫乃の顔を見て弘晃が笑う。
「梅宮さんは、本気で壁に穴を開けるつもりだったみたいですよ。業者と打ち合わせまでしていたようですから。それで、思い余った松雪くんが、梅宮さんを思い止まらせることを諦めて……」
「わたくしたちに、頭を下げに来たということですか?」
「うちの老人たちに話したところで、かえって面白がるだけですから」
弘晃がうなずいた。
紫乃はしばらく黙り込んだ後、「梅宮さんって、見た目と全然違う人だったんですね」と呟いた。穏やかそうな人にしか見えなかったのに、変に過激なホテルマンである。
「梅宮さんは、典型的な『茅蜩館の人』みたいですからね」
弘晃が微笑む。
「でも、いい人ですよ。葉月おばさんが話してくれたところによれば、あの人は松雪さんたちと分担して、葉月おばさんが回った50件の家だけではなく、こちらの都合で夫婦の片方しか披露宴にお招きすることができなかった家を全て回って、お詫びしてくださったそうです」
「え? そうなの?」
その話は、紫乃にとっては初耳であった。
「ええ。今日のパーティーのことはさておいて、『中村家と六条家との御婚姻ならば正餐で然るべきであるのに、こちらが立食だと勘違いしてしてしまった。招待客を減らさざるを得なかったことは、全て茅蜩館側の不手際から起こったこと』だと、一軒一軒に頭を下げてくださったそうです」
「350軒、全てですか?」
「ええ、全部です」
「そうだったんですか」
紫乃は、一時でも梅宮を厭うたことが申し訳なく思えてきた。
「そういうわけなので、披露宴のほうは、なにもかも茅蜩館の人たちにお任せして大丈夫です。大船に乗ったつもりでいきましょう」
「そうですね。 となると……」
残る問題は、紫乃の母親を如何にして結婚式に引っ張り出すかである。
「それも、たぶん大丈夫です」
弘晃が自信たっぷりに請合った。
「今度は、どんな手を使うつもりなんですの?」
「なにも。なにせ、うちの父が言い出したことですから、作為などありませんよ」
勇んで身を乗り出す紫乃に、弘晃が笑いながら首を振る。
「全くの善意です。でも、僕も一族の年寄りたちも、そして六条さんも、父に言われるまで、考えてもみなかったことなんですけどね」
「ただの善意では母の意思が曲がるとは思えないのですけど……」
疑わしげに眉を潜める紫乃に、「明日になればわかりますよ」と、弘晃が言った。
「となると、片付けなければいけない問題は、あとひとつですね」
「あら? まだ、なにか残っていましたっけ?」
「ええ。こちらへ」
ベッドを抜け出した弘晃が、紫乃の手を引いた。
連れて行かれたのは、1年ほど前に結婚して家を出た弘晃の弟の正弘が使っていた部屋だった。弘晃の祖父である先代の中村家当主は、正弘を跡取りと決めていた。そのため、正弘の部屋は3間の続き部屋からなり、弘晃が使っている部屋よりもずっと広い。しかも開放的。弘晃の部屋のように窓に鉄格子がはめられているということもない。
「父と母が、この部屋を使ったらどうかと言ってくれているのですが、どうでしょう?」
正弘が去って以来、空っぽになっている部屋を見回しながら弘晃がたずねる。
「どうでしょうって、なにがです?」
「僕たちが暮らす部屋として、ですよ」
「え? ふたりの……おへや?」
思いがけないことを言われて、紫乃は目を瞬いた。
「だって、今のように客間で寝泊りするわけにも、ましてや僕の部屋に転がり込むわけにもいかないでしょう?」
驚いている紫乃を面白がっているかのように、弘晃が微笑む。
弘晃の狭い部屋は、ひと間しかないうえに半分事務所化しているので社員の出入りも多い。あそこで寝起きするのでは、紫乃も落ち着かないだろう。だから、今の弘晃の部屋は書斎兼仕事部屋としてそのままに。そして、ふたりの新しい生活空間として、この部屋を使わせてもらおうというのである。
「……。この部屋で、ふたりで、暮らす……」
紫乃は、ゆっくりと部屋を見回した。
なにもない部屋。これから、ここに家具が運び込まれ、そして弘晃と一緒に毎日を過ごすのかと思うと、紫乃は、なんとも不思議な感じがした。
「その顔は、他に考えることが多すぎて結婚後のことなど全く考えていなかったという顔ですね? 自分のことを後回しにしがちな性格は、全然治ってませんね」
弘晃が紫乃をからかった。
「そんなこと……」
「でも、紫乃さんのそういうところ。僕は大好きですよ」
慌てて弁解しようとする紫乃の頬を、弘晃が両手で包む。彼は、身をかがめると、彼女の鼻先で意地の悪い微笑を浮かべた。
「この部屋。僕が邪魔だというのなら、喜んで紫乃さん独りにお譲りしますけど?」
「……。こんな大きなお部屋。独りじゃ広すぎて寂しいですよ」
紫乃は、頬を膨らませた。
「では、ふたりぐらいが適当ですか?」
「ええ。それぐらいなら、寂しくないわ」
「もう少し多くても?」
「……。そうね。いままで大家族で暮らしてきましたから。賑やかなのは大歓迎ですわ」
問いの裏に隠れている意味に気が付いた紫乃は、顔を赤らめながら弘晃に抱きつくと彼の胸に顔を埋めた。
翌日の日曜日。
紫乃は朝から落ち着かなかった。
弘晃から、彼の父親の弘幸が彼女の家にやってくると聞かされていたからだ。
人格者ではあるが、お人好しで気が弱くて権謀術数とは無縁の弘幸が、紫乃の母親の綾女を説得できるとは、彼女には到底思えなかった。綾女は礼儀だけは人並み以上にわきまえている。だから、無闇に弘幸を傷つけるような言動はしないだろうと思われる。だが、紫乃は心配で仕方がない。
心配なのは、彼女の父親の源一郎も同じであるようだ。彼は朝から、弘幸を迎える準備に余念がなかった。実質的な権限は一族の長老たちと弘晃に譲っているとはいえ、弘幸は、れっきとした中村本家の当主である。決して粗相があってはならないと、源一郎は朝から呪文のように繰り返している。
「だからって、なぜ私たちまでもが、めかし込まなければならないの?」
「そうよ。中村の御当主さまは、綾女さんに用があるのでしょう?」
日頃から日陰の身分に甘んじて邸内に逼塞している源一郎の愛人たちは、不満タラタラだった。
弘幸は、人の良さでは彼に勝るとも劣らない彼の妻を伴って、約束の時間からかっきり5分の間をおいてやってきた。
「素晴らしい御宅ですなあ」
芸術には造詣の深い弘幸は、玄関ホールを見回して嘆息した。
「誠に失礼ながら、私は、噂に名高い六条邸のことを誤解していたようですよ。もっと装飾過多で醜悪さの漂う屋敷だと思っていました。ですが、なかなか、どうして素晴らしい。さまざまな建築様式を互いの良さを引き立たせるように取り入れて、実に見事に融合させているではないですか」
弘幸の言葉には、嘘やお世辞の欠片も混じってはいないようだった。気を良くした源一郎は、弘幸を屋敷の隅々まで案内して回った。
そして、ようやく本題である。
応接室に通された弘幸は、源一郎に、綾女を除いた彼の妻たちを、この場に呼んでくれるように頼んだ。
「わたくしの母に御用があるのではないんですの?」
「いいえ。今日は、紫乃さんの義理のお母さまたちに、是非とも、私からお願いしたいことがあるのです」
弘幸の父は首を振ると、不審げな表情を隠さずに応接間に集合した源一郎の愛人たちの前で、持参した袱紗を開いた。
袱紗の中に納められていたのは、紫乃と弘晃の結婚式と披露宴への招待状であった。
「六条さんは、世間体もあるので、自分が皆さんを結婚式に来させるわけにはいかないとおっしゃるのです。そのご意見も、私はもっともだと思います。ですが、生さぬ仲とはいえ、皆さんだって、紫乃さんの成長を見守ってきたお母さまたちではないですか。娘の晴れ姿を見られないのは寂しいことだと思うのです。ですから、私が……中村家が皆さまをお客さまとして招待することにしました。どうか、ご出席いただけますように」
弘幸が、招待状を女たちのほうに押し出した。
その後が大変だった。
弘幸が帰ったあと、源一郎の愛人5人が綾女の部屋に押しかけたのである。
「綾女ちゃん! わたし、紫乃ちゃんの花嫁衣装が、どうしても見たいの!」
「実の母親のあんたが行かないと、私たちが行くわけに行かないでしょう! 出席しなさい!」
「出席しないなら、首に縄を付けてでも連れて行きますからね!!」
「綾女の負けだな」
廊下の外にまで聞こえてくる女たちの声を聞きながら、源一郎がホッとしたように息を吐いた。
「5対1じゃ、いくらお母さまでも勝ち目はないわね」
紫乃も笑った。




