3.
「卒論も試験も、できることは全てやったことだし、この後、食堂で飯でもどう?」
試験後、 紫乃が身を竦ませるような風が吹き抜ける並木道を歩いていると、畑山という同じゼミの学生が追いかけてきた。
「わたくしが、畑山さんとお昼ご飯をご一緒するのですか?」
「いや、下心なんてないから、安心していいよ」
振り向いた紫乃に、彼が、いきなり言い訳する。
「たださ、春になったら、こうやって六条さんと普通に話すのは無理だろうな……と思ったんでね」
「無理でしょうか?」
「だって、君は中村本家に嫁に行くんだろう? 片や俺は、中村物産のヒラヒラの新入社員だよ? 恐れ多いです」
畑山は、中村物産への就職が決まっているそうだ。
「恐れ多くはないですよ。私が偉くなるわけでもないですから」
紫乃は笑った。
「でも、ごめんなさい。また日を改めて」
「ガードが固いなあ」
「そういうわけじゃないんですけれども、迎えが来てますから」
悔しそうな顔をする畑山に微笑むと、紫乃は、並木道の終わりに止まっている黒い車に目を向けた。中村家から差し向けられた迎えの車である。どういう風の吹き回しだろう。弘晃も乗っている。
「ねえ? あれが噂の『相談役』なの?」
紫乃の視線を追った畑山が、顔を引き締めた。畑山は、先に入社したクラブの先輩に聞かされたとかで、中村物産の影の最高権力者である弘晃のことを知っていた。紫乃との婚約以来、体が極端に弱いことを除けば、弘晃のことは昔ほど秘密にされてはいないようだ。
「ええ、私の婚約者です」
紫乃は誇らしげな微笑を浮かべた。
「いい機会だから、紹介しますよ」と、紫乃が勧めたにもかかわらず、畑山は遠慮を見せた。
「遠慮というよりも、自分の仕事で相談役に認めてもらえるようになりたいんだ。 紫乃さんの同級生としてではなくね。だから、今はいいよ」
「そうですか。では、わたくしは、これで失礼させていただきます。ごきげんよう」
紫乃は、畑山に一礼すると弘晃が待つ車へ走っていった。
紫乃に叱られるのを恐れてか、車の中の弘晃は、マフラーに手袋、マスクは二枚重ねと重装備だった。
「弘晃さんが迎えに来てくださるなんて、驚きましたわ。どうかしましたの?」
「実は、私が無理矢理連れ出したんです。今日が最後のチャンスかもしれないと思いましたので」
弘晃の代わりに運転手の坂口が白状した。
「最後のチャンス?」
「紫乃さまの大学生活……特に紫乃さまの男性のお友達を垣間見れるチャンスですよ。弘晃さまは、紫乃さまに友人以上のちょっかいを出す不心得者がいやしないかと、3年の間、ずっと気にしながら我慢していらしたようなので」
「坂口! それは言わないって約束だっただろう!」
運転手の軽口を弘晃を咎めた。彼は、赤くなった顔を紫乃に向けると、言い訳を始めた。
「別に紫乃さんを疑っているとか、そういうことではないんですよ。ただ、ちょっと、その……」
弘晃の声がだんだんと小さくなる。
「そんなこと、心配なさらなくてもいいのに」
悪戯を叱られた子供のようにしゅんとしてしまった弘晃を見て、紫乃は笑った。弘晃は、普段から、何が起ころうと泰然とした態度を崩すことがない。その彼が、焼餅を焼いていてくれたのだとわかって、紫乃は内心大喜びしていた。
「皆さん紳士的な方ばかりでしたよ」
コロコロと笑いながら紫乃は言った。
「紳士的すぎて、むしろ物足りなかったぐらいですわ。わたくしって、そんなに魅力がないのかしら?」
「そんなことは、絶対にないですよ」
弘晃が即座に否定すると、坂口も、「そうですよ。紫乃さまは、むしろ高嶺の花すぎるんです」と主人に加勢する。
「先ほど、同級生との方とのやり取りを見ていて思いました。紫乃さまには男がつけいる隙がなさすぎます。あんなふうに礼儀正しく振舞われたら、相手だって紳士的に振舞うしかないでしょうよ」
坂口が自信たっぷりに請合うと、「そういうわけですから、心配はいりませんよ、弘晃さま。良かったですね」と、ミラー越しに弘晃に微笑みかけた。
「僕は別に心配していないよ。それに、さっき話していた彼のことなら、僕も知ってます。畑山正志さんでしょう? 今年、うちの会社に入ってくる」
「まあ、もう、ご存知でしたの?」
それは愚問だった。弘晃は、自分の会社で働く人々や、場合によっては彼らの家族構成まで、正確に把握していた。だからこそ、家からほとんど出られない男でも、一万人以上の社員が付いてくるのである。そんな彼だから、これから入社してくる人物についても、もちろんチェック済みに違いなかった。
「彼ね。『売れと言われれば、南極で氷を売ることだってしてみせる』って入社面接で言ってのけたそうですよ」
弘晃は微笑むと、坂口に車を出すように命じた。
走り始めてしばらくしてから、紫乃は、車が中村家でも六条家でもない場所を目指していることに気が付いた。
「どこかへ行くんですか?」
「茅蜩館ホテルへ」
弘晃が言った。
「披露宴のことでですか?」
「ええ。紫乃さんが頑張っている間に、だいぶ目処が立ちました。なんとか丸く収まりそうです」
「まあ、本当に?」
それはすごい。紫乃は両手を合わせて、小さく手を叩いた。
「ただね。試験が終わった早々で申し訳ないんですけれども、紫乃さんには、いろいろと、やっていただかなければならないことがありまして」
弘晃が、本当に申し訳なさそうな顔をする。
「ええ、もちろん。欠席を余儀なくされた方へのお詫び行脚でもなんでも、わたくしができることでしたら、喜んでいたしますわ」
紫乃が勢い込んで申し出ると、「そういうことはしなくても大丈夫」だと、彼は笑いながら首を振った。
「でも、出席できないとわかって、お怒りの方もいらっしゃるのではありませんか?」
「それが、どちらかと言えば、大喜びされてしまっているようなのです」
「は?」
「まあ、まずはこちらを見てください」
……と弘晃に言われて、困惑する紫乃が連れて行かれたのは、披露宴の行われる茅蜩館ホテルの、小規模な宴会ならば開けそうな1室だった。壁をぐるりと囲むように並べられたハンガーラックには、白いドレスが幾つも掛けられている。
「全部で、58着あるそうです」
「なるほど。まずは、ウェディングドレス選びというわけですね? でも、どれも素敵。この中から1着しか選べないなんて、とても残念」
白いドレスの山に圧倒されながら、紫乃はため息をついた。
「残念ながら、貴女は選ぶことはできないんですよ。でも、どうしても着たくないと思うドレスがあるようなら、2、3枚であれば、今のうちに取り除いてしまってもかまわないと思いますけど」
「はい?」
弘晃が自分に何をさせようとしているのかがいまひとつ飲み込めず、振り返った紫乃は、彼に首を傾げて見せた。
「実は、ここにあるドレスは、全て、紫乃さんのために誂えられたものなのです」
「わたくしの?」
「ええ。全て、紫乃さんのサイズピッタリに作られてます。極端なことを言ってしまえば、ここにあるドレスを着ることができるのは、貴女だけです」
「50着以上もあるのに?」
そんなに沢山もの紫乃のウェディングドレスばかりを作って、この男は、いったい何をしようというのだろう?
婚約者の言葉に紫乃が目を丸くしていると、3人の男性が広間に入ってきた。
最初に披露宴の打ち合わせにやってきた梅宮と、その3日後にやってきた松雪。そして、弘晃にふられたと思い込んでいた頃、やけになって見合いを続けていたときに知り合った紫乃の5番目の見合い相手、森沢俊鷹だった。




