2.
12月中旬。
その日の紫乃も、弘晃の家を訪れていた。そして、ほとんど日常的なことではあるものの、その日の弘晃も、熱を出して寝込んでいた。
「こんな調子で、本当に結婚式ができるのかしら?」
病身の恋人に付き添う娘というのは、もっとしおらしくしているべきだろうと頭ではわかっているものの、紫乃は、弘晃に向かって溜まりに溜まった不満をぶつけていた。
賢明な弘晃は、紫乃の怒りに同調することもしなければ、八つ当たりされていることに腹を立てて彼女と喧嘩する気もないようだった。
「まあまあ紫乃さん。そんなにカリカリしなくても……」
弘晃が、常と変らぬおっとりとした笑顔で紫乃をなだめる。そんな余裕しゃくしゃくな弘晃の態度までもが気に入らなくて、 紫乃は、弘晃にまで文句をつけ始めた。
「弘晃さんこそ、どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるの? 少しは危機感を持ってくださいな」
「僕と紫乃さんでは年期が違いますよ。僕の場合、どれだけ危機的な状況に陥っても、自分だけは何もできずに、ここでじっとしているしかないってことが多いですからね。動かない者がいきり立っていたら、周りが迷惑するだけです。違いますか?」
「…………。違いません」
紫乃は、膨れっ面のまま、弘晃の言葉にうなずいた。
「大丈夫ですよ」
弘晃が布団から出した手を伸ばし、ふて腐れている紫乃の頭を撫でた。
「招待客のことは、六条さんや分家のお爺さまたちが、どうにかして調整してくださいます。お義母さまのことは、結婚式の前日までに解決すればよいことです」
「でも……」
「僕の体のこと? まあ、それも、これから、なんとかする手立てを考えるとしましょう」
「なんとか? 『熱が出ても、なんとか頑張る』とかいうのはなしですよ」
弘晃の額の上で生温くなっていたタオルを氷入りの洗面器に浸しながら、紫乃が釘を刺した。
「わかっています。実は、ちょっとした心当たりがあるので、そちらに相談してみようかと思っているんです」
「心当たり?」
「ふふ……、紫乃さんは問題続出でめげているみたいですけれども、僕は、これらのトラブルのおかげで、かえって好い方に転んでくれるのではないかという予感がするのです」
なにやら嬉しそうに弘晃が微笑む。
「本当? どうなるの?」
「さあ。今のところは、僕にもわかりませんけど」
「なにそれ?」
紫乃は、少々乱暴な手つきで、弘晃の上に濡れタオルを乗せた。
「本当は、なんにも考えてないか、全部お見通しかのどちらかなんでしょう?」
「そんなことはないですよ。もう少し目処がたったら、紫乃さんにも、ちゃんと話しますよ」
弘晃が請合った。
「それより紫乃さん。 貴女は、今は、それどころではないのでは?」
「わたくし?」
「そう、貴女」
きょとんとする紫乃の鼻先に指を当てると、弘晃は『卒論と試験は?』とたずねた。
「あ?」
「わかっているとは思いますけど、卒業できなかったら、結婚式もなしになっちゃいますからね」
『だから、どうか頑張ってくださいね』
……と、弘晃が笑顔で紫乃にプレッシャーをかけた。
それからの数日間。紫乃は卒論の仕上げにかかりきりになった。
提出日までには、まだだいぶ日数があるものの、後回しにすれば、この後に控えている大学生活最後の試験のための勉強時間が削られることになりかねない。また、これから学期末にかけて、試験だけではなく、レポートを課してくる講座が幾つかあるはずである。確実に卒業したかったら、悠長にしている暇はない。少なくとも、紫乃の能力では、そのような余裕はなかった。彼女が在籍している大学の経済学部は、特にレベルが高いらしいのだ。どれぐらい高いのかというと、系列の附属高校からの進学とはいえ、割合にのんびりとした校風の紫乃の母校……清凰女子学院高等部から推薦をもらってこの学部に進学できるのは、毎年0ないしは1名しかいない。
女子の大学進学率そのものが、今よりもずっと低かった時代の話である。授業中の紫乃の周りにいる学生は、とんでもなく高い倍率の入試を突破して入学してきた秀才と、同じ附属高校でも超エリート教育で知られている男子高から……つまり弟の和臣の母校である翔鳳大学附属高等学校から来た天才秀才ばかりであった。(ちなみに、現在の和臣は、紫乃と同じ経済学部の3年生である)
もともと経済にそれほどの感心がなかった紫乃が、なんとか置いていかれずに済んでいるのは、彼女自身の弛まない努力と、何かにつけて姉を馬鹿にしたがる和臣への対抗心と、引きこもりとはいえ経済活動のど真ん中で活躍している弘晃が何かと彼女の勉強の相談に乗ってくれるからこそ。入学さえしてしまえばロクに勉強しなくても卒業できるという噂はあるものの、紫乃には、それを実践してみる勇気もなければ意思もなかった。
「でも、興味もないのに、どうして経済学部を選んだの?」
「それはね」
末の妹の素朴な疑問にニヤニヤしながら、紫乃の代わりに和臣が答える。
「このお姉さんは、経済を勉強して、その知識を持って夫を凌ぎ、婚ぎ先の事業を我が物にしようというトンでもない野望を持っていたからなんだよ。浅はかだろう?」
「う~~ん。中村物産を手に入れるのは、いくら姉さまでも無謀だと思うわ」
「そんなこと、わたくしだって、とっくにわかっているわよ!」
弟の言葉にうなずく妹に向かって、紫乃は顔を赤くしながら喚いた。
紫乃の父でさえ、莫大な資金力をもってしても、中村物産を乗っ取ることは適わなかったのだ。紫乃の付け焼刃的な知識を振りかざしたところで、弘晃の会社は微動だにするまい。それどころか、社員に馬鹿にされて自分が恥を掻くのがオチである。
「だって、弘晃さんとお見合いしたときには、わたくしは、既にその浅はかな計画に基づいて大学に入学した移した後だったのだもの。今更どうしようもないじゃない」
紫乃は、ウジウジと言い訳した。
「だから、さっさと中退して結婚しますって言ったのに、弘晃さんが許してくれなくて……」
学業と結婚の両立は難しいでしょうからと、結婚式も卒業までお預けになってしまった。
「弘晃さんは、学校に行きたくても行けなかったから。 だから、せっかく行けるものを辞めるのはもったいないって彼から言われてしまえば、辞めるわけにはいかないじゃない。でも、弘晃さんのお嫁さんになるのであれば、学歴なんてどうでもいいわけで……」
紫乃が愚痴り続けていると、「やっぱりアホですね。姉さんは」と、和臣に呆れられた。
「弘晃義兄さんは、そんなノスタルジックな理由で姉さんの中退をやめさせた訳じゃありませんよ」
「じゃあ、どうして?」
「最近、パーティーなんかに行くと、弘晃さん目当てで姉さんに話しかけてくる人が増えたでしょう? つまり、今の姉さんは、表に出てこない弘晃さんの代理でもあるわけです。でもね。言い方は悪いけれども、姉さんは、女で、しかも若くて、その上、働いたこともないし働く予定もない。話しかけてくるほうにしてみれば、こんな若くて苦労知らずの娘を言い包めるのは簡単だと馬鹿にしたり舐めて掛かるのが普通なわけですよ。でも、たとえ付け焼刃でも、あの大学で学んだのであれば、彼らに無知だと笑われない程度の知識や知恵は身につけているはずです。今の姉さんならば、彼らの話を正しく理解できるでしょうし、やすやすと彼らに丸め込まれるようなこともない。的外れなことを言って、赤っ恥をかくことだってないでしょう。それに、人は……特に男は、深く知り合っていない者を測る物差しとして学歴を重視します。その点、翔鳳大経済学部卒業という学歴は、非常にグレードが高いです。女だからといって舐められることもない」
「そういえば、そうかも?」
パーティーの席で弘晃と繋がりを持つことを目当てに話しかけてきた男性たちとの会話を思い出しながら紫乃が言った。
「大学で身につけた知識と学歴は、姉さんにとっては無意味に傷つけられないための鎧のようなものです。だから、義兄さんも中村の親戚の人たちも、姉さんの卒業を待つことにしてくれたんです。それにね」
和臣が彼にしては珍しく言葉を濁した。
「こんなことは言ったら怒るかもしれないけれども、もしも弘晃義兄さんが亡くなった後、姉さんが独りになって何かをやりたくなったときに、学校に最後まで通ったことは役に立つかもしれない。義兄さんは、そこまで考えていると思う。義兄さんは……」
「もう、わかったわ」
ムッツリと紫乃は話を打ち切ると、書きかけの論文に向き直った。それ以上のことは聞かなくてもわかっている。彼女の婚約者は、いつだって、紫乃の幸せを一番に考えてくれるのだ。弘晃の想いに応え、彼と一緒に幸せになるためにも、紫乃は、なんとしてでも卒業しようと決心した。
そして、2月の始め。
隣の席で試験を受けていた男子学生の「やっと終わった、ざまあみろっ!!」という男子学生の声とともに、大学最後の試験が終わった。




