2.
夜になってから、華江は、こっそり病院に出かけていった。
時間的に弘晃の見舞いは無理かもしれないが、紫乃か弘晃の母に会えるようなら、祝いの言葉を言いたかったからだ。なんの成果も上がらなかったものの、今日一日、華江は華江なりに頑張ったのだ。それぐらいの楽しみがあってしかるべきだと、彼女は思った。
病院に到着した華江は、灯りの灯ったナースステーションを避けるようにして、弘晃の病室に向かった。廊下の角を曲がったところで、いきなり屈強な男に掴みかかられそうになり、彼女は思わす身を竦ませた。
「驚かして、すみません。てっきり、あの婆さんが、また来たのかと……」
彼女に襲い掛かろうとしていたのは、中村物産の社員たちだった。
「あの婆さんって、例の……オババさま?」
先代の本家当主をたぶらかして、弘晃を長年に渡って軟禁させ、中村物産を傾かせかけた老婆は、華江の正弘の心にも深い傷を残している。老婆のお告げのせいで、生まれたときから中村本家の跡取りとして先代に見込まれてしまった正弘は、幼い頃から英才教育を施され、遊ぶことを一切禁じられて育った。「兄と兄の部屋に続く抜け穴がなかったら、僕は祖父の期待に押しつぶされて気が変になっていたに違いないよ」と、いつだったか正弘が華江に話してくれたことがあった。
「そのオババさまと間違えられるなんて……」
華江としては、大ショックである。だが、今は、悠長に落ち込んでいる場合ではない。
華江は、気を取り直すと、中村物産の社員たちから、祖父が来たときに此処でどんなことがあったのかを教えてもらった。彼らが語ったところによると、今日の紫乃は、華江以上に忙しく、大変な思いをしていたようだ。一時的にとはいえ六条の株の半分以上を自由にできる念書を手に乗り込んできて、弘晃を《死にぞこない》呼ばわりした中村の分家の長老たちを叱り飛ばすなんて、いかにも紫乃らしくて痛快ではないか。
「なるほど、そんなことがあったのね」
祖父や大叔母が紫乃を急に認める気になった気持ちが、華江にはわかるような気がした。
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社員たちに礼を言い、華江は病室に入った。
部屋の中の灯りは消えていたが、窓の外のビル街の灯りを頼りにすれば、充分に視界はきいた。
病室の窓際近くの壁が、すぐ側のビルの屋上に設置されたネオンサインが変化するのに合わせて赤や緑に色を変える。病室の中は、電気が点いている時よりも、ケバケバしいぐらいだ。
弘晃は眠っていた。彼のベットの傍らの椅子に座った紫乃も眠っている。ベットの端に頭を預けて眠る紫乃を包むように、弘晃の腕が回されていた。
「あらあら、幸せそうな顔しちゃって……」
華江は首を伸ばすと、そっと紫乃の寝顔を覗き込んだ。弘晃の腕の中で安心しきったような顔で眠っている紫乃の口元には微かな笑みが浮かんでいる。幼くさえ見えるほどあどけない紫乃のこんな顔を見たのは、華江は初めてだった。
あんまり可愛いので、華江は、紫乃の頬を軽く指で突いてみた。
よほど疲れているのだろう。全く起きる気配がない。
「おやすみ。それから、おめでとう。また明日来るわね」
華江は、小さな声で紫乃に告げると、静かに回れ右をして病室の出口へと向かった。
音を立てないように扉を開けようと、華江がノブに手をかける。その途端、扉が勝手に手前に開いた。小さな悲鳴を上げながら、華江は、自分に向かってきた扉に当たらないように、とっさに避けた。
「あ、ごめん」
扉が……否、病室の外側から扉を開けようとした人物が、謝った。
「正弘さん!」
「あれ? 華?」
病室の内側に立っていた華江を見つけた正弘が目を丸くした。
「こんな時間に、どうした?」
「『あれ? 華?』 じゃないでしょ!!」
やけにいつも通りな彼を見たとたん、華江の中で、今日一日のうちに溜め込んでいた疲れや怒りが爆発した。
「3ヶ月も前から会社が潰れそうって、どういうこと? なんで、そのことを私が知らないの? どうして話してくれなかったの? 私、正弘さんの婚約者なのに」
病室を出て後ろでに扉を閉めるなり、華江は正弘に食ってかかった。騒ぎを聞きつけて、先ほど華江を襲おうとした中村物産の社員たちや看護婦が集まってきた。
(専務は、どうやら婚約者に今度のことを全く話していなかったらしいよ)
(へえ? そうなんだ?)
周りの人間が、ヒソヒソと語り合いながら、遠巻きに華江たちを見守っている。
「婚約者……だけど、華に言ってもしかたないだろう?」
正弘がボソリと言い返した。
「私に言ってもしかたない? 正弘さんにとって、私は、その程度の存在なの?」
信じられない気持ちで、華江は正弘を見つめた。
(専務の朴念仁! もうちょっと言いようがないのかよ?)
(まったく言葉の選択を間違っているというか、女心をわかっていないというか……)
上下関係に厳しい反面、上に対しての直言がしやすいという中村物産の社風そのままに、周囲の人間から正弘に対して、遠慮しながらも容赦のない小声の野次が飛ぶ。
「いや、しかたないって言うか……華は、うちの社員じゃないだろう? だから、どんなに忙しくても、僕の代わりに働いてもらうわけにもいかないし……」
周囲のダメだしを参考に、もそもそと正弘が言葉を継ぐが、それもまた的外れであったりする。
(こらこら。なにが言いたいんだよ、君は)
ヒソヒソ声のダメだしは続く。
(社員じゃないからとか、そういう問題じゃないでしょう?)
(専務といい相談役といい、兄弟揃って、女心に疎いというか……)
(『君に、心配を掛けたくなかった』ぐらい言えないのか? 言おうよ)
「君に心配を掛けたくなかったというか……」
(おいっ! そのまんま言ってどうするんだよ?!)
(言葉がダメなら、実力行使だ! 抱きしめて、それから、キスを……)
「うるさいぞ!! 外野っ!!」
堪りかねた正弘が、野次馬に向かって吼えた。野次馬たちが、完全な部外者を装うかのように、一斉に華江たちから背を向けた。
「いや、その……、本当に心配をかけたくなかったんだ」
あらためて華江に向き直ると、正弘が言った。
「会社のことは、大丈夫になってから、話そうと思っていた」
「大丈夫になってから……って、結果的に潰れなかったってだけで、本当に潰れるところだったんでしょう?」
誤魔化されるものかと思いながら華江は、正弘を睨みつけた。
「結果的に潰れないけど、でも、潰れても大丈夫になる予定だったんだよ」
「言ってることがわからないわ」
「華の父さんや爺さんは? 心配するなって、言っていなかった?」
「それは………… 言ってたけど……」
華江が認めると、「そらみろ」と正弘が、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「六条のものになろうがなるまいが、中村物産は中村物産なんだよ。だいたい……」
正弘は両手で華江の肩を押さえると、彼女の鼻先まで顔を近づけた。
「華は、この僕が、兄さん以外の誰かに従うと思っているわけ?」
「……そ、それは……」
「…………な?」
口ごもった華江を見て、彼女が正弘の言いたいことを正しく理解したと判断したのであろう。正弘が、満足げにニヤリと笑う。
(そうだった。この男は、そういう男だった……)
正弘の目を見つめ返しながら、華江は心の中で深い溜息をついた。
いつか人の頂点に立つように……
そのためにだけ育てられてきた正弘が、自分の上位者として認めているのは、兄の弘晃ただ一人でしかない。事実、『ひとつ間違えば、幸三郎2号』と親戚連中から噂されている正弘を御せるのは、兄である弘晃だけだ。
華江が呆気にとられているうちに、正弘は野次馬の中の大半を占めている彼の会社の社員たちに目を向け、「そうだよな?」と、同意を求めた。
たずねられた社員たちは、返事をする代わりに、正弘と同じような性質の悪いニヤニヤ笑いを浮かべた。
(ひょっとして、中村物産の社員って、みんなして正弘さんと似たり寄ったりだったりするわけ???)
これでは弘晃の苦労が絶えないわけだ……と、華江は心から、婚約者の兄に同情を寄せた。
「正弘さん。弘晃おにいさまに黙って、変なこと企んでいるんじゃないでしょうね?」
弘晃が倒れている間、正弘の手綱を握るのは自分の役目だと思っている華江は、念のため確認を入れた。
「僕たちは兄さんの指示で動いているよ。 ただ一点を除いては……」
「ただ一点?」
華江が聞きとがめると、正弘は、「何かにつけて引退したがるから、あの人は……」とぼやいた。
「でも、これからしようと思っていただけで、まだ、何一つ兄さんの指示には逆らってない」
正弘が断言し、彼のいうことを裏付けるように、その場に居合わせた中村の社員たちがうなずいた。
「ああ、そういうことね」
華江は納得した。
会社の経営に携わることも中村一族を束ねることにも向いていないと思い込んでいる弘晃が、引退したがっているのはいつものこと。正弘がそれを阻止しなければ、他の誰か……例えば華江の祖父や父や叔父たちが寄ってたかって、弘晃を引退させないようにするだけだ。この件について、華江が、出しゃばる必要はないだろう。というより、今日一日ひとりでヤキモキしていた華絵の知らぬところで、事態は収まるべきところに収まっていて…… 華江は、自分が馬鹿みたいなに思えてきた。
「じゃあ、私、帰るわね」
華江は、疲れた声で正弘に告げると、病院のエレベーターに向かって歩き始めた。
「ちょっと待てよ、華」
正弘が、慌てて華江の腕を捕まえた。
「兄さんに今日のことを報告したら、送っていくから」
「いらない。もう疲れたから帰る。帰って、寝るの」
面倒くさげに正弘の手を振りほどくと、華江は、再び歩き始めた。
「だから、待ってろって。華のことだから、運転手を煩わせたくなくて、一人でヒョコヒョコ出てきたんだろう? こんな遅くにひとりで帰したら、僕が華の親父と爺に叱られる」
「正弘さんを叱れるのは、弘晃にいさまだけでしょ。お父さまやお祖父さまに叱られても、痛くもかゆくもないくせに」
華は、ムッとしながら言い返した。
「華……」
正弘は、途方に暮れたようだ。「どうしたらいい?」と相談するように、遠巻きにしている人々に目を向けた。
外野の衆は、女心に疎い正弘のために、『とにかく帰すな。引き止めろ』 という意味合いのブロックサインを送って寄こした。
正弘はサインにうなずくと、「とにかく、ちょっと来い」と言いながら、華江を引っ張って、弘晃の病室の中に強引に押し込み、扉を閉めた。
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「なにすんのよっ!」
「華? なんで、そんなに怒っているんだ?」
華江が逃げないように、壁に彼女を押し付けながら、正弘が困惑した顔をする。
「怒るわよ!! だって……」
その場の勢いで叫んだ華江は、自分の声の大きさに驚いた。
彼女は、口に手を当てながら、病室のベッドのほうを伺った。
弘晃も紫乃もピクリとも動かない。
大丈夫。ふたりを起こしてはいないようだ。
(静かにしようね)
華江と正弘は、お互いに言い聞かせるように目線を交わすと喧嘩を再開した。
「……で? 華は、何がそんなに気に入らないんだって?」
正弘が、壁と自分との間に閉じ込めるように華江の頭上の壁に手をつくと、華江を見下ろしながら、低い声で囁いた。
「わからないの?」
華江は、両手で正弘のスーツの襟元を持つと、尊大な表情を浮かべる正弘の端正な顔を、自分の目の前まで引き下ろした。
「じゃあ教えてあげる。3ヶ月も婚約者に放っておかれた女はね。普通、怒り狂うものなのよ」
「だって、本当に忙しかったんだ。そう言っただろう?」
途方にくれたように正弘が言い返す。確かに、正弘は華江にそう言っていた。そして、正弘は、華江に対して下手な嘘はつかない。
「会社が潰れそうなことだって、一応企業秘密だ。親戚だろうが婚約者だろうが、言うわけにはいかない。うちの母さんだって詳しい話は聞かされていない」
「……うん」
そういう事情も、本当は、華江だってわかっている。たとえ一族の多くが経営に携わっていても、部外者は部外者。親や親戚が仕事の話をしているときには、余計な嘴を突っ込まずに聞かないフリをする。小さい頃から、華江はそのように躾けられている。
「……今なら、わかるわよ」
正弘のスーツの襟元を握り締めたまま下を向くと、華江はポツリと言った。
「そういう事情があったんだって、全部わかった今なら納得できるわ。でも、ずっと不安だったの」
忙しいのであれば、こちらから会いに行くのは控えようと思った。
でも、いつまで待っても、正弘は会いにきてくれない。
痺れを切れして会いに行っても、正弘はいない。
電話も同じ。
やっと話せたと思ったら、あっという間に切られてしまう。
しかも、その電話は一ヶ月も前のことで、話題は、『紫乃と弘晃が別れた』だった。
正弘の『忙しい』を邪魔しないよう、自分の我侭で彼を煩わせないようにと、それから一ヶ月、華江は、ずっと独りで我慢してきたのだ。
「忙しかったのだろうけれど、言えなかったのだろうけれど…… でも、私、ずっと不安だったんだから。 『忙しい』は、本当はただの口実なんじゃないか……とか」
「口実?」
「本当は私に会いたくないだけなんじゃないか、とか。私のこと、嫌いになっちゃったんじゃないか、とか」
「僕が華を嫌いになる?」
「別れたいと思っているんじゃないか、とか、他に好きな人ができたんじゃないか、とか」
いつも自分に目を向けていてほしい。
華江は、それほどまでのことを、この男に期待していたわけではない。
だた、ほんの少しだけでいい。
手が空いたときに、ちょっとだけ、自分のことを気にかけてもらいたかっただけだ。
自分は完全に忘れられている訳ではないと、彼に想われている存在なのだと、思い出させてほしかっただけだ。
ほんの短い時間に会いに会いにきてくれるだけでも、電話でちょっと声を聞かせてくれるだけでも良かったのだ。
「だた、ちょっとだけ……」
「ごめん。とにかく、すまなかった。なんだか良くわからないけど、とにかく僕が悪かった」
華江が口ごもった隙に、謝りながら正弘が彼女を胸に引き寄せた。正弘のスーツのガサガサした生地が華江の頬に触れた。
「……なんなのよ。その謝り方は……」
正弘のスーツに涙をなすりつけながら華江は文句を言った。
「だって、華は自分のことで泣く女じゃないだろう? だから、わからないけれど、余程のことだったんだ……ぐらいのことは、僕にだってわかる」
自分の不手際で華江が泣いているのだから、とにかく自分が悪いのだろうと、正弘は、わからないなりに結論づけたらしい。
「でもさ、僕は、華の考えすぎだって気がするけどね」
正弘が、大きな両手で華江の顔を上げさせると、微笑んだ。
「僕が華を嫌いになる? 華以外の女に惚れる? 別れたいと思っている? ありえない……って、なんで思わない? 僕を信じてないのか?」
「だって……」
「華を不安にさせたのは、僕が悪い。でも、僕を信じなかったのは、華が悪い」
「なによそれ?」
「黙って……」
『私も悪いの?』と文句を言いかけた華江の口を、正弘の唇がふさいだ。
「会いに行くつもりはあったんだ」
「電話だってしようと思った」
「でも、そういう時に限って邪魔が入って」
途切れ途切れに正弘が言うたびに、少しずつキスが深まっていく。
華江は、もう、文句を言わなかった。
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さて、同じ頃。
今更言うまでもないが、この部屋には、もう一組のカップルがいた。
この病室に入院している弘晃と、その恋人の紫乃である。
病室の外での出来事とはいえ、野次馬まで巻き込んだ正弘たちの喧嘩は、弘晃たちの目を覚ますには充分な騒ぎであった。ゆえに彼らは、正弘たちが病室に入ってくる前から、起きていた。
(私たち、お邪魔ですよね?)
(そうですねえ。もう少し寝たフリを続けるしかありませんね)
いきなり入ってきて痴話喧嘩の続きを始めた正弘たちに驚いて慌てて寝たフリをしたものの、起きるに起きられずに困っている弘晃と紫乃であった。




