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本編71話と同じ頃の、華江視点のお話。
ある日の朝、中村華江は決心した。
「やっぱり、紫乃ちゃんに、弘晃にいさまのことをお話しよう。
ここのところ、忙しいことを口実に華江を放ったらかしにしている婚約者の正弘から、順調に進んでいるとばかり思っていた二人の交際が三ヶ月も前に破談していたと聞かされたのは、一ヶ月ほど前のこと。
原因は、やはり弘晃の健康問題であるらしいのだが、どうやら彼は、紫乃にそのことを告げることもなく、一方的に彼女と別れてしまったということだった。
「3ヶ月前? そういう大事なことを、どうして今まで話してくれなかったの!!」
華江が正弘を詰ると、「言ったら、華が悩むから」と、そっけなく返された。ついでに「紫乃さんに会いにいったりするなよ」とも釘を刺された。
「これは、紫乃さんと兄さんの問題なんだ。紫乃さんにしても、兄さんのことを聞かされても、悩むだけかもしれない」
「それはそうかもしれないけど……」
正弘の言うことも正しいとは、華江も思う。愛すべき彼女の後輩の紫乃は、責任感が非常に強いうえに優しい心根の持ち主だ。体が弱い自分の妻になることなど紫乃を不幸にするだけだと弘晃が思い切って彼女を捨てたのだと知らされれば、彼女は、彼を見捨てることができなくなるに違いない。もう好きでなくなっていたとしても、使命感から彼の傍にいようとするかもしれない。
「でも、今でも、忘れられていないかもしれないじゃない……」
着替えをしながら、華江は怒ったようにつぶやく。華江は、弘晃ばかりか正弘も、それに他のみんなも、肝心なところをわかっていないような気がしてならないのだ。なにしろ、紫乃が付き合っていたのは、正弘を筋金入りのブラコンにし、体が弱いのを理由に隠居させてももらえないほど中村物産の社員たちから慕われている、あの弘晃なのである。
だから、別れたときに、紫乃が弘晃を好きでなかったはずはない…… とも、華江は思う。
「だから、やっぱり、ちゃんと確認しないと……」
弘晃のために、なによりも紫乃のために、今の彼女の気持ちを確かめたい。それができるのは、おそらく自分のみであろうと、今日の華江は妙な使命感に燃えていた。
「今日は土曜日だけど、紫乃ちゃんは今日も大学かしらね? いずれにせよ、10時ごろにお電話をして……」
紫乃と会うための算段を考えながら華江が階下に行くと、1階は大騒ぎになっていた。
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「弘晃おにいさまが倒れた?」
原因は、肺炎。
肺炎の原因は、働きすぎ。
働きすぎの原因は、弘晃たちの会社が六条グループに潰されそうになったから。
六条グループが会社を潰そうとしたのは、紫乃の父である六条氏が、弘晃が紫乃を振ったことに腹を立てたから。
一命は取り留めたというものの、超虚弱体質な弘晃のことであるから、まだまだ油断はできないということだった。
「し、紫乃ちゃんに会わなくちゃ……」
一刻も早く紫乃に話して誤解を解かなければいけないと、華江は焦った。だが、華江の呟きを聞き付けた彼女の祖父が、『その必要はない』と、厳しい顔で彼女に言った。
「でも、六条さんを止めないと、正弘さんたちの会社は潰れてしまうのでしょう? なんとかしないと……」
「そんな心配せんでも、六条ごときに中村物産は潰せやしないよ。弘晃たちが何も相談してこないから、六条の相手など片手間にやっているだけかと思えば、迂闊だった。弘晃がそこまで無理をしていたとはな」
祖父が出かける準備をしながら、忌々しげに言った。これから昼食を取りながら、他の分家の隠居たち数名と話し合う予定があるという。
「それにな。六条家の娘なら、昨日から弘晃に付きっきりだそうだ」
「あ、そうなんですか。良かった」
やはり、ふたりは想い合っていたのだと華江が安心したのは、ほんのつかの間のことでしかない。
「なにが良いものかね。わしは、弘晃と六条の娘との結婚を許すつもりはないよ。それから、六条もな。あの成り上がり……今度こそ許さん」
物言いは穏やかながら、祖父が相当怒っていることは、彼がまとっている空気で知れた。
祖父や親戚たちを本気で怒らせたら、六条は潰されてしまうだろう。そうなれば、紫乃と弘晃の結婚も絶望的だ。
「おじいさま、紫乃さんは、とても好い方です。弘晃さんの生涯の伴侶としては、もってこいの人だと思いますわ」
華江は、祖父が出かける直前まで、時間の許す限り彼の説得を試みた。中村一族の最長老格である祖父の怒りが和らげば、事態は少しはマシになるはずである。だが、彼のお気に入りの本家の当主(代理)が倒れたことで血が頭に上っている祖父は、全く聞く耳をもってくれなかった。
「華江。余計なことはしないようにな」
祖父は華江に命じて出かけていった。
しかしながら、華江は、祖父の言うことを聞いておとなしくしているつもりなどなかった。
男性がダメなら、女性を説得するという手がある。だが、女性たちは男性以上に、特に年配の女性たちは、六条家に対して拒否反応を示した。理由は、その昔に紫乃が苛められた理由と同じである。六人の女性を囲っている男など、まともな人間であるわけがないし、その娘にしても、まともであるはずなないと、彼女たちは口を揃えた。夕方近くまで、あれこれ頑張ってはみたものの、華江の努力は全て無駄に終わった。
「ああ、もう。 どうしたらいいんだろう」
こんなことなら、もう少し早く紫乃に会いに行けば良かった、と華江は後悔した。
事態が一変したのは、夜になってからのことだった。
分家話し合いの後で、弘晃の病院まで見舞いに行ってきたという祖父は、上機嫌で家に帰ってきた。 紫乃と弘晃の結婚も認めるという。
「いやあ、なかなかに肝の据わったお嬢さんだった。あれなら、本家当主の嫁として願ってもない。葉月も感心していたよ」
「葉月おばあさまも?」
真っ白な牡丹のような品のよい老女の姿を思い出しながら、呆然と華江は呟いた。葉月は、彼女が真っ先に頼ろうと思っていた女性だ。一足違いで出かけたとかで、残念ながら今日の面談は叶わなかったが、彼女が紫乃を認めたということは、弘晃と紫乃との仲に異を唱えることのできる女性は一族の中にいなくなったと言っても過言ではない。
今日一日、無駄に疲れた気がするものの、とにかく良かったと、華江は肩をなでおろした。




