80.あなたがいるから
それから10日ほど後。
六条グループと全中村グループとの間で取り決めた業務提携の詳細が公に発表された。同時に、弘晃が六条グループの社外監査役の一人として就任することも明らかになった。弘晃がその気になりさえすれば、六条グループ総帥としての源一郎の息の根を止めることも可能……そういうお役目である。
「僕は、六条さんから、これからは和臣くんの話し相手になってやってくれって頼まれただけだったはずなんですけれど?」
発表された後になってから、弘晃は困惑していたが、もう後の祭りというものである。だが、決して表に出てこようとしない中村の陰の実力者が、六条の役員の一人として名を連ねたことは、中村と六条との親密さをアピールするには充分すぎるほどの材料となった。
この発表を機会に、紫乃と弘晃との婚約は、自動的に既知の事実となったようだった。次の日に学校に行った紫乃は、大げさではなく、3歩進むたびに誰かから呼び止められ、祝いの言葉を聞かされることになった。
多くの者は、当然のように、これは家と家との婚姻だと認識しているようであった。それを踏まえた上で彼らが紫乃に示した反応は、実に様々だった。親の命令とはいえ、怪しげな噂にまみれた謎の御曹司と結婚しなくてはいけなくなった紫乃に同情する者。親の言いなりになって結婚する紫乃に失望した者。紫乃の前では祝福の言葉を口にしながら、陰では、いわくつきの御曹司と結婚することになった成り上がりの娘をあざ笑うもの。これ以上紫乃と付き合うメリットを見出せずに、彼女から距離を置こうとする者もいた。誰に何を言われようと、何を思われようと、紫乃は気にしていなかった。言いたい人には言わせておけばいい。いちいち釈明して回らなくても、彼女たちが羨むほど紫乃が幸せであることは、いずれ伝わるだろう。
一方、紫乃の婚約に同情し呆れる者とは反対に、好意と関心を持って彼女に近づいてくる学生もいた。
そういった人々の目的は、主に弘晃にあるようで、お祝いを言うことにかこつけて紫乃と親しく言葉を交わすことで、先日のパーティーをほとんど唯一の例外として姿を見せない中村弘晃という人物について知ろうとし、あわよくば彼と近づきになりたいと思っているようであった。
もちろん、紫乃に話しかけてきた大学生が女性だったとしても、彼女本人が弘晃と親密になりたい訳ではなかった(そんなことは紫乃が許さない)。弘晃が倒れた日のパーティーの席でも紫乃が感じていたことなのだが、弘晃は、彼自身が思っているほど世間的な評判が悪い訳でも、本当の姿を知られていない訳でもないようなのである。噂話しか知らないような女性たちはともかく、男性の中には、紫乃の父親と同じように、弘晃を高く評価し、彼に興味を持っている人も多いらしい。自分の落ち度で弘晃の評価が下がってはいけないと思ったので、紫乃も応対には気が抜けなかった。
「でも、近づいてくる人にも、いろいろあるようなんですの。単純に知り合いになりたい人もいれば、仕事のパートナーとしての中村物産および中村弘晃という人物を見極めようと、探るような話し方をする人。それから、こちらに自分たちの存在を、ことさらに印象付けようとしている人。 なんだか、話しているだけでくたびれてしまって……」
仕事に関係してくることなので、ほとんど日課となっている中村家訪問の際に、紫乃は弘晃たちに報告した。「そうなんだよねえ」と、弘晃の父親の弘幸がため息混じりに紫乃の話に相槌を打った。
「パーティーの席でも、人を試すような会話を仕掛けてくる人って多いんだよ。私はあれが苦手でね。なんだか、何を答えても相手に馬鹿にされそうな気がするんだ」
「お父さんって、パーティー嫌いですよねえ。仕事と違って、兄さんから予め段取りを教えてもらえないから」
弘晃の弟の正弘が同情を込めて父親にうなずいてみせた。
「でも、相手の望むような気が利いた答えを返そうなんて気負わなくていいですよ。お父さんがトンチンカンなことを言っても、それはそれで相手は好き勝手に勘繰ってくれると思うから。それよりも、紫乃さん、あなたに話しかけてきた人たちに対する、あなたの印象を聞かせてほしいな。 さっき紫乃さんが言っていた3通りの行動の、どれに当てはまるか……とか」
「え? でも……」
正弘の問いに紫乃は口ごもった。安易に他人への評価を口にするなど、非常に無責任なことに思えた。
「ここだけの話として聞いておきますし、参考にするけれど鵜呑みにはしませんから、好きに話していいですよ」
「わかりました」
弘晃の微笑みに後押しされて紫乃は話しかけてきた人々の印象を、自分が感じた通りに語った。
紫乃の話を聞き終えると、皆は一様に感心したような顔をした。
「紫乃さんって、鋭いかも」
「それに、なんというか表現が面白いね。分かりやすいし」
「物言いが辛らつだって言ってくれていいですよ。わたくし、あまり親しくない人が話し相手だと、つい警戒してしまうんです。そのせいでしょうか。相手に対する見方が、どうしても厳しくなってしまうんです」
「いじめられていたことがあるのだもの。よく知らない相手に対して、身構えてしまうのは仕方がないと思うわ」
弘晃の母親が紫乃を庇ってくれた。
「それに、紫乃ちゃんは、人あしらいが上手だから、相手に不快感を与えることはないから大丈夫よ。 ねえ、今度から、社交の場には、お父さんの代わりに、紫乃ちゃんに行ってもらうというのはどうかしら? もちろん、全て代わってもらうわけにはいかないでしょうけれど、そうできれば、お父さんの精神的な負担もかなり減るし、その分、大好きな古美術品と文献に顔を突っ込む時間もできるというものでしょう?」
「そうしてもらえるかな? 紫乃さん?」
「は……あ、わたくしで、お役に立つようなら」
両手を胸の前で組んだ弘幸に目をキラキラさせてお願いされたら、紫乃も無下に断ることができなかった。
それからの紫乃は、女性が出席しても当たり障りのないもの、あるいは女性のほうが都合のよい社交の場に限って、弘幸と弘晃の代理として、時には華江と連れ立って出かけていくようになった。
これは、紫乃たちが考えていた以上に、多くの利点があった。学校でお祝いの言葉をくれた学生たちと同じで、こういった席にも、弘晃の婚約者である紫乃を、中村四家を統べる人物との繋がりを持つための重要な伝手だと考える人々が、大勢いたのである。しかも、弘幸や正弘よりも女性である紫乃に対してのほうが、気軽に話もしやすいらしい。
紫乃は、彼女に話しかけてきた人々のことや、その場で交わされた会話、そして、会話の中にたくみに織り込まれた弘晃宛の伝言や情報などを、家で待っている弘晃に話して聞かせた。その際、弘晃は、そこで起こった事実だけではなく、紫乃の印象も聞きたがった。彼は、紫乃の人を見分ける能力やその場の空気を読む能力のようなものを大変重視してくれているようだった。紫乃がもたらした情報や感想を最終的にどのように使うかは、弘晃が決めることではある。だが、弘晃は、「ただの伝言係では、紫乃さんだって、やり甲斐がないでしょうからね」と言って、それらがどのように役に立つか、あるいは役に立ったかを差支えが無い限り紫乃にも教えてくれた。弘晃が話してくれる内容からしか判断することができないものの、紫乃は、それなりに彼や彼の会社の役に立っているようである。この先、年齢を重ねるにつれて、紫乃は、表に出てこない弘晃と連絡を取るためのキーパーソンとして、多くの人々からますますあてにされるようになっていくわけだが、この頃の彼女は、弘晃の名代として彼に恥をかかせないように振舞うことだけで精一杯だった。
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そうして3年近くが過ぎ、ふたりの結婚式に向けて、具体的な準備が始まった。
披露宴の会場となるのは、都内にある老舗ホテルの大宴会場と決まった。
予定される招待客の数は、およそ1700人。招待客を選んだのは、主に源一郎や中村の長老たちであった。
「そんなに大勢、式場に入りきるの?」
「お任せくださいませ! 一番大きな会場では2000人でのご宴会が可能です!!」
紫乃の素朴な疑問に、最初に打ち合わせしたホテルの若い担当者は胸を叩いたものだ。だが、それから3日も経たないうちに、最初の打ち合わせで現れた担当者に比べると随分頼りなさそうな黒縁眼鏡の若者が平身低頭で謝りに来た。
彼によると、大宴会場で2000人の宴会ができることは間違いないのだが、それは、ビュッフェ形式のパーティーを行う場合の収容人数であるということだった。
「失礼ながら、新郎さまは、お体が丈夫ではないと伺っております。立食ですと、お迎えする側が立たないわけには行かなくなりますから」
それでは弘晃が辛いだろうと、彼は言った。なるほど、彼の言うとおりである。
「最初の打ち合わせのときに、こちらの配慮が足りず、誠に申し訳ありませんでした」
「あなたが謝らなくてもいいですよ」
謝るのなら最初の担当者のほうだろうというニュアンスを込めて弘晃が言うと、黒縁眼鏡くんは、「申し訳ありません」と、下げっぱなしの頭を更に下げた。他人のせいにする気はないらしい。まだ若そうなのに、なかなか見上げた性格の持ち主である。
ちなみに、全員座っての正餐形式の食事だと、招待するのは1200人が限界であるとのこと。
「2、3時間のことでしょう? 僕が頑張って立っていればいいだけのことです。なんとかなりますよ」
弘晃が強がりを言ったが、紫乃ばかりか、ホテルの黒縁眼鏡くんも反対した。
「これだけの人数をお招きする披露宴となりますと、ご祝辞などを賜る人数も多くなると思います。お開きになるまでに、5時間から6時間は覚悟していただきませんと……」
彼の言葉を聞いた全員が、すぐさま『無理』だという結論を出した。そればかりか、5時間の間ずっとその場に座っているだけでも、弘晃には辛いのではという話になった。
「それより、その日に熱でも出して、花婿が欠席なんてことになったら、どうしましょう?」
「欠席は、今回に限っては無理ですよね」
招待状を送るまでに招待客を500人減らし、弘晃の具合が悪くても披露宴を無事に乗り切るための手立てを考えなければいけない。頭の痛い問題が山積みで、さすがの紫乃も、結婚式をするのが面倒にさえ思えてきた。
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困ったことというのは重なるもので、『オババさま』こと長年にわたって中村本家を苦しめてきた老祈祷師が、久しぶりに中村家を訪れたのも、この頃だった。彼女は、風の便りで弘晃が結婚することを知り、わざわざやって来たらしかった。
「成長した子が妻を娶り、子を成して親となる。祝言とは、すなわち、その家が子々孫々まで栄えていくための大事な儀式であるわけじゃ。この家を滅っせんとする怨霊にとって、こういった慶事ほど憎きものはない。じゃが、この婆がこうして来たからには、もう安心じゃ! ワシの祈祷の力をもって、必ずや、大過なく弘晃の祝言を挙げさせてみせようぞ!!」
「いい加減にしてください! 弘晃さんを苦しめるのは、もう止めて! 帰ってください!」
紫乃は、中村家の門前で独特な理屈を並べて家の中に入り込もうとする老婆の前に、憤然と立ちふさがった。
「おおっ? そなたは……?」
老婆は、紫乃を見て、とても驚いた顔をした。
「な、なんですか?」
「なんと。これは驚いた。そなたも眩しいのう!」
鼻を寄せるようにして紫乃をじっくりと見つめた後、老婆が心から感心したように言った。
「は?? 眩しい? わたくしが?」
妙なことを言われて、紫乃は面食らった。
「ああ。なんとも眩い光を放っておる。色合いは優しいが、その輝きは弘晃にも劣らぬほどじゃ。……となると……」
老婆は口を閉じると、3歩ほど後ろに下がり、中村家の屋根の上の辺りと紫乃とを交互に見比べた。
「ここに来る前に気がつかなんだとは、ワシも焼きが回ったな」
老婆は肩を落とすと、大きくため息をついた。そして、いきなり紫乃に背を向けると、もと来た道を戻り始めた。
「オババさま? お帰りになるのですか?」
騒ぎを聞き付けて遅れて出てきた弘晃が、老婆を呼び止めた。
「ああ、ワシのこの家での役目は、もう終わりじゃ」
老婆が重々しくうなずいた。
「そなたと、その娘。それだけの輝きがあれば、怨霊がどれほどこの家に障りを成したくても、光に当たって滅するのがオチ。この家には入り込めぬゆえ、やがて諦めるか、あるいは新たなる贄を見つけて、この家から離れていくことであろうよ。この家はもう安心じゃ。ワシの出番は無いゆえ、今生で会うのも、これが最後となろう。弘晃も達者で、幸せになるのじゃぞ」
老婆は、そんな言葉を残して、振り返りもせずに行ってしまった。
「なんだったの? 今の?」
老婆が、おそらく新たなる怨霊との戦いの場を求めて去っていった後、紫乃は弘晃にたずねた。
「さあ?」
苦笑しながら、弘晃が肩をすくめる。
「オババさまの理屈は、わからないけれど。おそらく、紫乃さんがいる限り、この家も僕も大丈夫ってことなんじゃないですかね」
とにもかくにも、それ以降、女老祈祷師が中村家に現れることはなくなった。
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そして、結婚式の日。
「弘晃さん! 大丈夫?」
4度目のお色直しを終えた紫乃は、長く引きずる裾をたくし上げながら、弘晃が待つ控え室に飛び込んだ。
「ええ、大丈夫ですよ」
弘晃は立ち上がると、賞賛を込めた眼差しを紫乃に向けた。
終了まで6時間と想定された披露宴の間、弘晃の体力を温存させるための対策として思いついたのが、花嫁のお色直しの回数を増やすことだった。これならば、紫乃が引っ込んだタイミングで弘晃も退席でき、彼女が着替えている間に、彼は休憩をとることができる。ホテルのほうも、弘晃の控え室を会場のすぐ隣にしたり、横になれるベッドを運び入れたりするなど、考え付く限りの便宜を図ってくれていた。
紫乃のドレスを用意してくれたのは、『5番目の男』こと、紫乃の5人目の見合い相手だった森沢俊鷹氏だった。(今頃になって、紫乃は、彼の名前を正確に覚え切れていなかったことを知った)。森沢は、お色直しのドレスを、すべて白のウェディングドレスにすることを提案した。
「ウェディングドレスって、ファッションショーのエンディングにもってこられることが多いでしょう? 同じように見えても、実は、デザインや素材、小物のヴァリエーションが一番楽しめるドレスだと思うんですよ。それに、派手な色合いのドレスを次々に変えていくよりも、豪華さでは勝ると思う」
そんなわけで、紫乃は、裾の長さや袖の形の違うウェディングドレスを8着も着替えることになった。ドレスの評判は上々で、紫乃が新しいドレスを着て会場に入るたびに出席している女性たちのため息を誘った。
そんな中、今日の主役の紫乃は、元気一杯に駆け回っていた。招待客の中に紫乃の直接の知り合いは、ほとんどいない。お祝いのスピーチも、紫乃に対してというよりも父に向けてのもののほうが多かった。おかげで自分の披露宴だという気がしないのだが、それで紫乃は構わなかった。お祝いならば、妹たちが、紫乃や弘晃と直接親しい人ばかりを招いて、後日、改めてしてくれることになっている。 感傷に浸っている時間的な余裕が無いこともあり、彼女は、この披露宴をイベントとして大いに楽しむつもりだった。
「今度のドレスも素敵ですね。森沢さんが、紫乃さんが着ているドレスを、このホテルチェーンのレンタルドレスに採用してくれないかって、先ほどホテルの人と交渉してましたよ。ホテルの人も大いに乗り気のようでした」
「まあ」
紫乃はコロコロと笑った。森沢の営業熱心なところは、相変わらずのようである。
「あと、およそ3時間ってところですかね」
時計を見ながら、弘晃が言った。
「もう少し、早くお開きになるかもしれませんね」
少し前に、招待客のひとりが、「退屈なスピーチを延々と聞かされると結婚式ほど、辛いものはありませんな」と、自らお手本を示す形で、自分のスピーチを30秒で切り上げた。しかも、そのスピーチは短くても大変気のきいた洒落たものだった。そのため、その後にスピーチする者が長いスピーチをしづらくなっているようなのだ。
「ササクラの社長も粋なことをしてくださいますね」
「息子さんが和臣の高校のお友達なんですの。だから、事情を知っていて、自ら憎まれ役を買って出てくださったのだと思いますわ」
紫乃は微笑むと、心配そうに弘晃を見上げた。
「弘晃さん、辛くない? もう少し頑張れそう?」
「大丈夫。でも、ちょっとだけ……」
弘晃は、着飾っている紫乃のドレスや化粧を崩さないように、そっと彼女を抱き寄せると、彼女の額に唇を寄せた。
「こうしているとね。元気が出るような気がする。だから、もう少し頑張れるよ」
「わたくしも」
こうして弘晃に寄り添っているだけで、体の中から力が湧いてくるような気がする。紫乃は目を瞑ると、白いサテンの長手袋をした腕を弘晃の体に回した。
ふたりは数分間、そのままじっとしていた。それから、どちらともなく目を合わせると、微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ行こうか? 奥さん」
「ええ」
紫乃をエスコートするように腰に手を回した弘晃に、紫乃は、にこやかにうなずいて見せた。
控え室の外に控えていたホテルの従業員が、二人を先導するように少し前を進む。披露宴会場となっている大広間の背の高い扉が、大きく左右に開られた。
大きな拍手に迎えられたふたりは、顔を見合わせて微笑みを交わすと、祝福に応えるように、深く丁寧に頭を下げた。
(おしまい)
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




