78.黒幕親父の苦悩
「本業って……ええと……建築不動産運送サービス業?」
「どんな仕事なんだ、それは?」
比較的に力を入れていそうなものを適当に繋げて紫乃が答えると、源一郎が呆れた。
「じゃあ、経営コンサルタント」
源一郎が紫乃の母親と最初に出会った頃に名乗っていた肩書きである。
「まあ、胡散臭い肩書きという点では、当たらずとも遠からずってところかな。弘晃くんは、当然知っているよな?」
すっかり砕けた口調になって、源一郎が弘晃に視線を向けた。
「表沙汰にできないもの、あるいはしたくないものを、なるべく人に知られないように、法律の枠や道徳に囚われずに、あちらからこちらへ動かす。または、そのための仲立ちや調停をする裏方のようなお仕事……ですかね」
弘晃は、紫乃の気持ちを慮ってくれたのだろう。言葉を選びながら、歯切れの悪い口調で、そう言った。
「『あちらから、こちらへ?』」
紫乃は首を傾げ、たずねるように父を見た。あちらからこちらへ、内緒で何を移動するというのだろう?
「カネ。モノ。ヒト。情報。何でもありだ。フィクサーとか黒幕って呼び方もあるにはあるな」
源一郎が簡潔に答えた。
「つまり、それは、不正な?」
「そうだな。事が露見すれば、捕まることもあるかな」
眉をひそめる紫乃に、源一郎は、他人ごとのように言って笑った。和臣の祖父から、源一郎が引き継いだ仕事なのだという。得意先は、政治家や官僚、および財界人だそうだ。
「じゃあ……弘晃さんも?」
紫乃が弘晃に目を向けると、源一郎が「中村は俺のお得意さんではないよ」と首を振った。
「弘晃くんは、うちの裏事情も知っていて、それゆえの資金力と影響力を当てにはしていたようだが、積極的に利用して、無理矢理に自分たちに利益を誘導するようなことを望んではいなかった。弘晃くんに限らず、中村という家は、分家も含めてどこもそうだな。老舗だけあって、汚い金が身につかないことを良く知っている」
源一郎が自嘲気味に笑った。
「俺は、仕事の見返りに金銭、もしくは自分のグループに儲けをもたらすような大きな仕事を依頼者から回してもらう。俺が色々な種類の会社の経営をしているのは、裏での儲けを誤魔化すための、いわば隠れ蓑なんだよ。俺は経営の天才だなんて言われているけれど、それは見てくれだけだ。おまえの大嫌いなズルをして、うちは金持ちになった。紫乃のことも、その汚れた金で養っているというわけだ」
源一郎が、紫乃を見た。
「ショックだったか?」
源一郎の問いかけに、紫乃は無言でうなずいた。
「お祖父さまやお母さまは? このことを知っているの?」
紫乃の声が震えていた。
「綾女の親父さんは最期まで知らないままだったが、綾女は知っているよ。俺が後ろ暗い仕事をしていることも、誰かがやらなきゃいけないなら、俺が適任……というか一番マシなんだろうということもな。知っているけど、あいつは目を瞑ってくれている。ちなみに、凪湖……和臣の母親も知っていた。あれは、一生俺を許さなかった」
「でも、六条さんは和臣さんのお祖父さまから仕事を引き継いだのですよね? 戦後、GHQとの仲立ちなどを引き受け、影の総理とも言われた……」
「あの人……そんなふうに呼ばれていたこともあったな」
弘晃の言葉に、源一郎が懐かしそうに目を細める。
「あら? でも、お父さまって……」
源一郎は、何ひとつ持たない状態から、自らの才能だけを頼りに、たった独りで事業を起こしたのではなかったのか?
「うん。 凪湖の親父さんがしていることを商売に変えたのは俺だ」
凪湖の父親は、元男爵家の3男。表向きは趣味人としても有名であったが、豪遊振りでも有名だった男であったという。彼が死んだとき、彼が築き上げた裏の名声と人脈は、彼の後継者として充分すぎるほどの能力がある源一郎に必然的に引き継がれた。それ以外に残されたものといえば、莫大な借金と、生涯独身だった彼が芸妓に生ませた娘の凪湖だけだった。
源一郎は、子供の頃に凪湖の父親に拾われた。凪湖の父には言い尽くせないほど世話になったし、心酔してもいた。源一郎は迷うことなく、借金と一緒に、独りでは暮らしていく術をもたない凪湖を妻として引き受けた。
それが、源一郎が紫乃の母親の綾女と出会う少し前の、昭和26年のことであった。
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「綾女とのことがあっても、俺は、凪湖と別れる気はなかった。あの人の娘だというだけで彼女を利用しようとする者が後を絶たなかったから、俺が守る必要があった。だが、凪湖は、自分の父親と彼の裏の顔を心底憎んでいた。後継者となった俺のことも憎んでいた。そうはいっても、俺には綾女や他の女たちがいたから、凪湖ひとりに嫌われたところで、別にかまわなかったけどね」
彼女に愛情を感じたことなどなかったかのような清々とした口ぶりで、源一郎が微笑んだ。だが、それは嘘だと、紫乃は察していた。源一郎にとって、和臣の母親だけは、おそらく別格なのだ。花がどれほど美しくても、美しい月になれないのと同じこと。源一郎の愛人となった女たちがどんなに素晴らしくても、どんなに源一郎が彼女たちを愛おしく想っても、彼女たちは和臣の母親には敵わない。
おそらく、今でも、そうなのだろう。
「それに、俺は、俺を嫌った凪湖の気持ちも分からないでもない」
源一郎が話を続ける。「俺のしていることは、人さまに誇れるようなことじゃない。紫乃へのイジメがひどかったのも、そのせいだろうしな」
「え? そうなの?」
紫乃は驚いた。同時に、源一郎が、紫乃が中学のときにイジメに合っていたことを知っていたことにも驚いていた。
「たぶん、そうだと思うぞ。清凰学園は良家の子女が通う学校だ。つまり俺の裏のお得意さんたちが、彼女たちの父親であるわけだ。彼らは、俺を頼りにする一方で、俺のことを金の為なら何でもする卑しい奴だと蔑んでいた。父親たちは、俺の裏の仕事のことを、娘に話すことはなかっただろう。でも、蔑みの気持ちっていうのは、言葉の端々とか態度に出るものだよ。紫乃の同級生の娘たちは、敏感に自分たちの父親の気持ちを感じ取ったのだろう。子供は遠慮も加減も知らないから、その侮蔑の感情を、無意識のうちに、お前にぶつけたんだろうよ」
自分が本当にただの成り上がりに過ぎなかったら、紫乃があれほどイジメられることもなかっただろうにと、源一郎が悔しそうに口元を引き結んだ。
「紫乃には、辛い思いをさせてしまったな。すまない」
「あ、ううん」
謝る源一郎に、紫乃は首を振った。自分でも不思議に思うほど、彼に対して怒りを感じていなかった。
「六条さん」
弘晃が、遠慮がちに源一郎に呼びかけた。
「ひょっとして、紫乃さんがイジメられたから、裏の仕事を廃業しようと思ったんですか?」
「え? 辞めてくれるの?」
「俺と弘晃くんは、さっきからその話をしていたんだかね」
今更ながらに驚いている紫乃を、源一郎が笑った。それから、腰を僅かに浮かせて椅子に座りなおすと、源一郎は、改めて弘晃に向き直った。
「辞めることについては、凪湖が亡くなる少し前から考えていたことなんだ」
その頃になると、源一郎は、裏の仕事にすっかりうんざりしていたそうだ。凪湖の父親は、『これから日本は変る。そのために、どうしても一線を越えなければいけないことがある。そのために自分たちが必要なのだ』と、誇らしげに源一郎に語っていた。
大きなことをするために、小さな犠牲はやむおえない。かつて、凪湖の父親に仕事を依頼する者たちは、そんな大言を吐くに相応しい大きな度量と理想を持った人物ばかりであった。それほどの人物を裏から支えることこそが、源一郎たちの誇りであり役割であった……はずだった。
「だが、最近の依頼者は、どいつもこいつも人間が小さくっていけない。『国のため』とかなんとか、口先では格好の良いことを言いながら、考えているのは自分の利益と保身ばかり。あいつらは、『小さな犠牲』の意味を、自分たちの都合のいいように解釈している。自分さえ良ければ、他が苦しくなろうと関係ないっていう寸法だ。あいつらじゃあ、この先、何も変らないし変えられない」
すでに自分が果たすべき役割は終わっていると、源一郎は年を追うごとに感じていたという。
「すっかりやる気を無くしていた時に凪湖が死んで、外で囲ってきた女たちが家に押しかけて来た挙句に住み着いてしまった。 そうしたら、思いがけなく、俺にとっての『家族』ができた。どういう心境の変化があったのか自分でもわからないんだが、娘たちなんか、もう可愛くって可愛くって仕方がなくなってね」
源一郎が、照れたように笑った。
「息子はもちろんだが、娘たちにも精一杯愛情を注いで最高の女性に育てようと思ったよ。それで、お嬢さま学校として有名な清凰女学院に中学から通わせることにした。そうしたら、あのイジメだろう?」
娘を傷つける馬鹿娘たちの父親のために自分が危ない橋を渡っているのだと思ったら、源一郎は今度こそアホらしくなった。
「どのみち、ここらが潮時だと思っている。最近は、金さえ積めば理由も聞かずに何だってやってしまうような同業者も出てきた。それに、俺が言うのも変だけど、モラルの欠如とでもいうのかね。普通の企業でも、悪いことを悪いことと自覚しないまま、平気で越えちゃあならない一線を越えちまったりする。どのみち、俺の商売は上がったりってわけさ」
源一郎が笑った。
「それに、和臣には、後ろ暗いことばかりの裏の仕事ではなく、もう少しマシなものを残してやりたいという気持ちもある。でもさ。イザ辞めようと思っても、これが、すんなりとは行かないんだよね」
「収入が無くなってしまうから?」
紫乃がたずねると、源一郎は、「それもある」と、苦笑した。
「裏の仕事の報酬として回してもらっていた仕事が多かったからな。裏を辞めると、表の仕事も激減する可能性がある」
「他にも問題が?」
「仕事が減るだけではなく、積極的に六条グループを潰そうとするでしょうね。下手をすると、命も危ない」
弘晃が言った。
「六条さんは、多くを知りすぎています。これまで六条さんの力を当てにしてきた人々にとって、改心して真っ当な商売を行うようになった六条さんは、いわば邪魔者。いえ、彼らを脅かす脅迫者ともなりかねません。裏での秘密は誰にも告げずに墓場までもってもらいたい。できるだけ早く消えてもらいたい。それができなければ、六条さんの力を徹底的に削ごうとするでしょう。六条さんの会社を潰し、家族ごと社会的に抹殺する。一市民の訴えぐらいなら、彼らは難なく握りつぶしてしまえるでしょうから」
「俺ひとりなら、会社を全て整理して海外で暮らすなり、それこそ彼らの恐れるような脅迫者となって面白おかしく暮らすなり、何とでもなるんだけれどもね」
源一郎が言った。だが、今の源一郎には、愛すべき家族が大勢いる。夫として父親として、源一郎は、まず第一に彼らの安全と幸せを守らなければならなかった。
家族を守るために、源一郎には、誰にも脅かされる心配がないだけの力が必要だった。そのためには裏の仕事を続ける必要があったが、これから先は、つまらない依頼は極力受けたくなかった。できることなら、裏の仕事から徐々に手を引きながら、表の事業を大きく磐石なものにし、誰の圧力を受けても潰れる心配がないほどの本物の大企業に作り変えてしまうのが、源一郎にとって、一番望ましい変化ではある。
「そんな虫のいいことを考えながら、自分の進退を決めかねていたときに、飛んで火にいる夏の虫とでもいうように現れたのが……」
源一郎が弘晃と目を合わせた。
「あ、私、ですか?」
虫呼ばわりされた当人が、どこか嬉しげに自分を指差した。
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「いつのことだったか、俺は、紫乃が心配で、こっそりと学校に様子を見に行ったことがあったんだよ」
源一郎が裏門から学校の様子を伺っていると、まだ制服が体に馴染んでいないような幼顔の少女たちが数人やってきた。
リーダー格の生徒が、黒い学生鞄を頭上に掲げて、踊るような足取りで少女たちの先頭を行く。学校の敷地の突き当たりまで到達した彼女たちは、そこで学生鞄を開くと、何を思ったのか、中に入っていた本や文房具を、笑いながら隣の家に向かって投げ込み始めた。
あの鞄は、イジメを受けている紫乃のものかもしれない。無邪気で残酷な光景に、しばし呆然としていた源一郎だったが、そう思い当たったとたんに頭に血が上った。
(あいつら、ぶっ殺してやる!!)
源一郎は、頑丈そうな鉄柵の校門を開けて、学校の敷地内に飛び込もうとした。
その矢先のことである。
「こら! なにをやっているんだっ!!」
荷物を投げ入れられた隣家の高い塀の向こう側から、若い男の怒鳴り声が聞こえた。少女たちは、鞄を放り出して、一目散に逃げていった。
(あの鞄をどうしようか?)
図書館の裏にポツンと残された紫乃の鞄を見ながら、源一郎は考えた。できることなら、紫乃が荷物を取られたことに気が付く前に、彼女に返してやりたかった。となれば、まずは隣家に行って、捨てられた紫乃の荷物を回収する必要があるだろう。源一郎は、礼儀正しく隣家の玄関に回るべきだろうとは考えた。だが、高い塀の向こう側から話し声がするのを聞き付けて、ふと好奇心が湧いた。
(自分の代わりにイジメっ子たちをしかってくれた感心な若者は、いったいどういう人だろう?)
源一郎は、要塞のように堅牢な隣家の高い塀によじ登って中を覗いた。
「そうしたら、弘晃くんと彼のお母さんが、植え込みの中に顔を突っ込んで、紫乃の荷物を丹念に拾ってくれているのが見えた」
30分ほど経った後、拾い集めた紙袋2つ分の紫乃の荷物を手に、弘晃の母が自宅の勝手口から出て行った。そして、空の鞄を抱えて途方に暮れていた紫乃を見つけると、ためらうことなく学校の門を開け、小走りに近づいていった。
源一郎が帰りがけに隣家の表玄関に回って確認すると、表札には『中村』とあった。
その後も、紫乃へのイジメは続いた。なんとかならないものかと、源一郎は学校に相談しに行った。驚いたことに、校長自ら源一郎の応対をしてくれた。校長は、イジメの事実を正直に認めた。それにもかかわらず、大人である教師たちが生徒を処分することでこのイジメを解決することは、もう少しの間だけ待っていてほしいと源一郎に頭を下げた。なんでも、イジメの被害者である紫乃が教師の介入を断固として拒んでおり、校長としては彼女のその気持ちを尊重したいということだった。
「ご近所にも、このイジメに気が付いている方がいらして、六条さんのことを心配して時々様子をたずねに来られるのですが……」
心労を顔に表わしながら校長がなんの気なしに語ったこの一言から、源一郎は、『隣家の中村さん』が、あれからずっと紫乃のことを気にかけてくれていることを知った。
それから、およそ1ヶ月後の初夏のある日。紫乃へのイジメがピタリと止んだ。高校の茶道部の部長の中村という先輩にお茶の席に呼ばれ、園芸部にも入れてもらえることになったと、紫乃が嬉しそうに話していた翌日のことだった。またしても、中村姓を名乗る人物の登場である。 しかも、今度は少女であった。
どうやら、学校の隣の中村さんが、一家総出で紫乃のことを守ってくれているらしい。源一郎は感謝の気持ちで一杯になりながら、このことを、ここ数ヶ月の間、源一郎と同じように娘のことで心を痛めていた綾女にも話してやった。
「その若い男の人が紫乃へのイジメに気が付いてくれて、本当に良かったこと」
「世の中には、本当に良い人たちがいるものね。将来、紫乃がお嫁に行く先にも、そんな優しい旦那さんやご家族がいてくれたら、どんなにいいかしら」
「何を夢みたいなことを言っているんだよ」
源一郎は、呆れながら綾女をたしなめた。塀越しに覗き見た庭や家の立派さから判断して、隣の中村さんというのは、清凰女学院の創立時に、学校の土地を無償提供したという旧中村財閥の本家に違いなかった。あの荷物を拾ってくれていた若者は、おそらくあの家の跡取り息子であろう。どんなに夢見たところで、成り上がりの六条の娘ごときが嫁に入れるような家ではない。
だが、もしも、その夢が叶ってしまったとしたら?
源一郎の心に希望の灯りが灯った。




