77.疫病神の訪問
弘晃がくれた婚約指輪には、 いわゆる『給料の3ヶ月分』として一般の宝飾店に並んでいるものよりも、ひと回り大きめのダイヤモンドを引き立たせるように流線型のアクセントがプラチナのリングに施されたものだった。一見シンプルだが決して地味には見えない品の良い指輪は、紫乃の好みにピッタリである。
「華江ちゃんと母にも選ぶのを手伝ってもらったんですけど、気に入ってもらえましたか? もし嫌だったら、デザイナーさんは手直しをしてくれると言ってくれていますし、紫乃さんがもっと違うのがいいというのであれば選び直してもらってもいいですけど」
「あ、ううん。これが、このままが、いい!」
紫乃はブンブンと首を横に振ると、弘晃に背を向け、指輪を陽にかざした。指輪の石がキラキラと光を弾くのを惚れ惚れと眺めながら、「きれい」と、つぶやく。
「気に入ってくれたのなら、良かった。本当は、六条さんに貴女との結婚を許していただいてから渡そうと思っていたんですけど、それだと、来週になってしまうのでね」
「父に会うの?」
紫乃は、指輪から弘晃に視線を戻した。
「ええ、火曜日に」
何時の間に約束をしていたのだろう。5日後に、源一郎がこちらに来ることになっているのだという。
「本来なら、僕が、あちらにお伺いするべきなのですが、六条さんが、その必要はないとおっしゃってくださったのでね」
「無論ですわ。会う必要だってないぐらい」
紫乃は言った。せっかく回復しつつあるというのに、自分の父が、再び弘晃の体調を悪くするような気がした。
「会社のほうは、もう大丈夫なのでしょう? でしたら、もう話し合うこともないんじゃないですか? 私との結婚にしても、今更、父の許しを得る必要なんかありませんわ」
「そういう訳にはいきませんよ」と、案外に律儀者の弘晃が、困ったような顔で首を横に振る。
「それに、六条さんに直接会って確かめたいこともありますから」
「確かめたいこと?」
「そう。例えば、六条さんが本当に欲しいものは何なのか、とか」
「確かにねえ」
紫乃がうなずく。「和臣が、父は始めから中村物産を手に入れる気なんてないって言っていましたわ。
言われてみれば、弘晃さんが倒れた日の父は、中村物産を諦めることになったというのに、むしろ嬉しそうでした。弘晃さんたちの話を聞けば、中村物産を乗っ取ろうと思うこと事体が馬鹿げているとも思いました。でも、だったら、どうして、わざわざ自分で自分の首を絞めるようなことしたのかしら? 何か、別の狙いがあったのかしら?」
「思い当たることがないわけではないんですが……」
「そうなんですか? なに?」
だが、弘晃は思わせぶりな表情を浮かべるばかりで、紫乃に話してくれるつもりはなさそうだ。
「意地悪しないで、知っているのならば教えてくださいな」
「僕のは、あくまで憶測。六条さんが考えていそうなことを、幾つか思いついたというだけです。でも、これ以上、想像を逞しくしていても、本当のことがわかるわけではありませんから、直接本人にたずねてみるのが一番だろうと思うんです」
「それで、父と会おうと思ったわけですね」
「ええ。もちろん、一番の目的は、紫乃さんをいただくことですけれどね」
弘晃が紫乃に回した腕に力を込めながら、微笑んだ。
「とはいえ、六条さんに会うまえに前に、幾つか決めておきたいことがあるのでね。だから、今週中に会うのは、どうしても難しくて……」
話していた弘晃が、母屋のほうから小走りでやってくる坂口に、ついっと視線を移した。
「おみえになった?」
「はい。今しがた。客間のほうにお通ししようとしたんですけれど、いつもの弘晃さまのお部屋でかまわないとおっしゃったので、そちらに」
坂口が、分家の当主とその父親たちの到来を弘晃に告げた。
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その日から紫乃の父親に会うまでの数日間。弘晃は、彼にしては精力的に動き回っていた。
彼は、社員をいちいち呼びつけるよりも自分が行ったほうが早いからと、普段は中村家の執事のような弘晃の秘書のようなことをしている坂口に運転させて会社にも出かけて行き、家に帰ったら帰ったで、分家の事業を取り仕切っている現在の当主たちや、今は一線を退いて『長老』と呼ばれているような人たちと一緒に自室に籠もっていた。弘晃も他の男たちも、何をしているかを紫乃に話してくれるつもりはなさそうであった。
だが、弘晃が普段から全く無理が利かない体だとということは、本当にどうにもならない事実であることを証明するかのように、そんなことを始めてから、2日後の晩に、彼は熱を出した。そのため、彼が外に出かけていくことはなくなったが、訪問者のほうは、弘晃の具合を気遣いながらも引っ切りなしにやってきた。
「もおおっ! 無理ばっかりして。だから、お父さまのことなんか放っておけばいいのよ」
やはり自分の父親は、弘晃にとっての疫病神に違いない。紫乃は、ぶつくさ言いながら、弘晃の額に冷やしたタオルをあてがった。
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そして、紫乃が指輪をもらってから5日が経過した火曜日。紫乃の父の六条源一郎が、秘書の葛笠を伴って中村家を訪れた。
一応客なので、ふたりは客間に通された。だが、源一郎の後に続いて入っていったのは、弘晃のみ。 先に中村家についていた分家の当主たちや弘晃の父や正弘は、廊下の外で、客間に入ろうとしていた紫乃を見送るように小さく手を振った。
「あら? みなさまは、お入りにはならないんですか?」
一度部屋に入りかけた紫乃が、戸口まで引き返してたずねた。
「入りたい気持ちは山々だけどね。でも、結婚の承諾を得るのに、父兄同伴どころか、親族打ち揃ってっていうのは、まずいでしょう」
「あ、そういえば、そう、ですね」
正弘の言葉に赤くなった紫乃を見て、皆が笑った。
「僕たちは、向こうで待機しているから、必要になったら呼んで」
「はい」
紫乃はうなずくと、客間の扉を閉めた。
だが……
「ちゃんとしたお話もしないうちに、大変長い間、紫乃さんをお借りしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「いやいや、どうせそちらにやることになる娘なのだから構わないよ。葛笠や他の娘たちの話では、紫乃は、こちらで大変よくしてもらっているようで、ありがたいと思っている。娘は、あなたの伴侶として至らないところもあるだろうけれど、今後とも宜しく頼む」
「至らないなど、とんでもない。私がいただくには、過ぎた女性です」
扉をしめた紫乃が部屋の中を振り向く前に、婚約交渉は、あっさりと終わっていた。
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「それで、体の具合はどうだね?」
「お父さまのおかげで、最悪ですわ」
弘晃の隣に腰を下ろしながら紫乃が皮肉を言うと、源一郎は、あからさまに傷ついた顔をした。
「久しぶりに会えたっていうのに、ひどいな。紫乃に家出された私がどんなに切ない思いをしていたか、葛笠は話してくれなかったのか?」
「葛笠さんならば、あのうんざりするほど恥ずかしい伝言の数々を、毎回毎回、一字一句端折ることなく、顔を真っ赤にしながら伝えてくれましたわ。可哀想に。ねえ?」
紫乃が父親の後ろに控える葛笠に同情の眼差しを向けると、彼は、父に顔が見えないのをいいことに、感謝の表情を顔一杯に浮かべて彼女に頭を下げた。
「本当に反省しているのなら、伝言なんか頼まないで、ご自分で弘晃さんに謝りにくればよろしかったのよ。だいたい、どうして、手に入れても持て余すことになりかねない中村物産を、あんなに強引な手を使ってまでして手に入れようとしたのかしら?」
紫乃は、時間短縮のため、弘晃が聞く予定にしていた質問を、早々に源一郎にぶつけてやった。
「何が目的かって? 私の目的は中村物産と弘晃くんだって、紫乃には話したはずだけどね」
源一郎が、鼻歌でも歌いだしそうなほど機嫌よく答えた。
「それは、確かに聞きました。でも、それは表向きのことで、何か他に裏があるのでしょう?」
「表も裏もあるものかね。じゃあ、こう言い換えたらわかるか? 私が欲しいのは、あくまで中村物産だ。中村物産を手に入れて六条物産という会社を作りたかったわけじゃない。どうだ?」
『どうだ』と言ったときの源一郎の視線は、紫乃ではなく弘晃に向けられていた。
「『どうだ?』……って言われても……」
「なるほど。やはり、そういうことでしたか」
戸惑う紫乃の横で、弘晃が得心がいったようにゆっくりとうなずいた。
「察しがついていたとは、さすがだね」
源一郎が嬉しそうな顔をした。
「気が付いたのは僕だけではありませんよ。六条さんは、今まで御自身が手に入れてきたもの全てを失うリスクを冒してまで、うちと手を組もうとした。逆に言えば、うち……というよりも旧中村財閥全部と手を組まないことには、最終的に何もかも失ってしまうようなリスクを六条さんが現時点で負っている。あるいは、そんな危険を冒そうとしていると考えられます。六条さんがそこまで危険な目に会いそうなこと……とくれば思いつくことは限られてくる」
誉められて嬉しい顔をするでもなく、弘晃が淡々と説明する。
源一郎は、否定しない。自分が選んだ男に間違いはなかったとでも言いたげな顔で、満足そうに弘晃の声に耳を傾けている。
「でも、六条さん。本気ですか」
「本気だよ。今すぐは無理でも、中村さんの協力があって、10年から20年あれば、余裕で何とかなると思う」
「そのための、紫乃さん……ですか?」
「そうだよ。俺があんたに切れる最高の手札だ」
「紫乃さんをいただけるのは嬉しいですが、紫乃さんを道具にしたことは気に入りません」
「それは、嬉しいな。実を言うとね。紫乃を君にやろうと思ったのは、それ以前の問題というか、紫乃を君にやりたいと思ったからこそ、今度の計画を……」
「ちょっと待って!」
紫乃は、傍らで聞いていてもサッパリわからない男たちの話を、片手を挙げて止めさせた。
「なんだか、お話のお邪魔のようですから。わたくしは失礼させていただきますわ」
「ここにいてください。紫乃さんには、知ってもらっておいたほうがいいかもしれません」
そそくさと退場しかけた紫乃を、弘晃が引き止めた。
「そうだな。紫乃が知っていたほうが、今後、妹たちのフォローもしやすいだろうし……」
「え?」
紫乃が『妹たち』の言葉に反応して振り返る。
「ええと、何処から話したらいいかな」
紫乃が元の席に戻る間、源一郎は腕と足を組みながら考え込むような素振りをみせた。
「そうだな……。 ねえ、紫乃。 うちの本業って、なんだか知っている?」
源一郎が娘のほうに身を乗り出しながら、たずねた。




