76.呪いの正体
正弘たちは、最終的に、数の力と中村の分家の後ろ盾を頼りにして、父を強引に旧中村物産を含めた六条グループの経営者の座から引きずり下ろすつもりだったそうである。その時には、分家も協力を惜しまないつもりだったという。
「そして、父の代わりに、弘晃さんを迎え入れる予定だったそうですわ」
それが叶わぬのなら、全員一斉に六条源一郎に辞表を叩きつける。中村物産を完全に手中に収めた後になってから全ての元中村の社員が辞めてしまったら、六条は、その日のうちに、立ち行かなくなってしまうだろう。
「そんなこと……だいたい、どうして、『僕』なんです?」
弘晃がムスッとした顔で反論した。
「皆が、僕を慕ってくれるのは、正直なところ嬉しいですよ。でも、六条さんの代わりが僕である必要なんかないじゃないですか? 僕以上に有能な人なら、うちの会社には幾らでもいる。将来性では正弘のほうが上だし、上というなら六条さんだってそうです。それをどうして……」
弘晃は、困惑しているというよりも混乱しているように見えた。
「本当にわかっていらっしゃらないのね」
「紫乃さんは、わかっているというんですか?」
クスクス笑う紫乃を、弘晃が恨めしげに睨む。
「わかっていますよ。教えてほしい?」
「教えてください」
「じゃあ…… まずは、食品部の須田さんのことを話していただけますか?」
「は? 須田さん? なんで??」
不思議そうな顔をする弘晃を、「とにかく答えてくださいな」と紫乃は笑顔で促した。
「はいはい。えーと、須田さんね」
弘晃は、庭の草花にぼんやりと視線を置きながら、記憶を手繰り始めた。
「須田さんは、午前中の会議にも出ていましたから、紫乃さんも彼の顔はご存知ですよね。彼には、食品部でカカオ豆の輸入から国内での販売に至るまで幅広く担当してもらっています。チョコレート全般を語らせたら日本一だと僕は思います。冷凍ポテトからカカオの担当になったのは7年前で、現在、彼の配下には5人の……」
「はい、そこまでで結構です。では、その5人のうちで、須田さんが『師匠』と仰ぐのは、誰でしょう?」
唐突に、紫乃は弘晃の話を次の質問で遮った。
「師??……ああ、お菓子作りの、ですか?」
弘晃が笑う。「いいえ、その5人の中には入っていません。師匠は総務の松岡さんです」
「じゃあ、その松岡さんのことを教えてください」
「今度は、松岡さんですか? 彼女は総務部2課の4年目の女性で、仕事がとても丁寧だと評判です。彼女から上がってくる書類は、確かに非常に分かりやすくて美しいと僕も思います。上司は諸星さんですが、総務は数人のグループで仕事をするので、グループリーダーは、佐伯……じゃない、今は結婚されたので高田さんです」
「高田さんの旦那さんは? 社内結婚ですか?」
「ええ。その人のことも?」
「お願いします」
「ええと、高田さんは、主に中東の……」
そんなふうにして、紫乃は、弘晃から新しい社員の名前が出るたびに、その人物について話すように弘晃に頼んだ。弘晃は不思議そうな顔をしながらも、一度も、「その人については良く知らない」と降参することもなく、スラスラと紫乃の質問に答え続けた。
「―――――― では、その大鷹さんという人は、ボツワナで何を?」
「ダイアモンドの掘削権の獲得に関わる仕事です」
「そういった話だと、日本から他の会社もきていますよね?」
「え? ええ。菱屋商事さんとか、双陽さんとか……」
「では、菱屋商事の担当の人の名前は、わかりますか?」
紫乃は、質問を少し変えてみた。
「菱屋は中尾さんという人が責任者だったと思います。非常にやり手な方であるらしく、アフリカ関係の交渉ごととなると、必ずといっていいほど、菱屋さんはこの人を送り込んできます」
「例えば?」
「そうですねえ。例えば2年前は、タンザニアの銅のことで……」
「では、その銅を担当しているのは?」
「うちは広崎さんが責任者です。あとは、鈴木さん、小林裕司さん……」
「小林さんに名前も付けて呼ぶのは、どうしてですか?」
「それは、同じ課内に、もうひとり小林さんがいるからです。小林英正さん」
紫乃が何をたずねても、弘晃からは打てば響くような答えが返ってきた。
「本当に、お詳しいのねえ」
思いつくままに沢山の質問し、弘晃に答えさせたあと、紫乃は、恐れ入ったというように手を叩いた。弘晃の答えたことが正しいのかどうかは、紫乃にはわからない。だが、須田たちから聞いた話が本当なら、弘晃は全て正確に答えているはずである。
「紫乃さん。僕は、さっきから何をさせられているのか、ちっともわからないんですけど」
弘晃は、少しばかり怒っているようだった。
「ですから、今の質問の全てに答えられたことが、社員の皆さんが、あなたを選んでくれる理由です」
「は????」
弘晃は、ますます分からないといった顔をした。
「須田さんたちから聞いたんです」
紫乃は微笑んだ。
「弘晃さんは、社員の一人ひとりが、今、どういう人とどういう仕事をしていて、それまでに、どういう仕事をしてきたか、とてもよくご存知だって。それから、会社のことも仕事のことも、本当によく知っていらっしゃるって」
「でも、そんなことは、資料などに書いてあることですから……」
覚えていたところで感心されるようなことではない……と、弘晃の顔には書いてあった。
「そうですよ。毎日毎日、弘晃さんのところに届けられる書類の、いつだか分からないけど、どこかのページに書いてあったことですよね。中村の社員なら誰でも、調べようと思えばすぐに調べられられるようなことばかりです」
紫乃が弘晃に同意した。
「でもね。弘晃さんは一口に『書類』っていうけれど、半端な量ではないですよね?」
まず、一日に届けられる書類からして多い。一箇所に積み上げれば、紫乃の足元から腰の高さほどの分量がある。弘晃は、それを毎日、欠かさずに、入念にチェックしている。具合が良いときには一気に読みきるが、あまり調子の良くないときには、ベッドの上で、一日かけて少しずつ読んでいる。具合が悪すぎて全く読めなかった日の分についても、彼は、後日に過去に遡って全て読んでいた。
一部を覗けば一般社員にも閲覧可能な書類ばかりだということだったので、紫乃も、弘晃の手伝いをしている女性たちに頼んで、試しに少し読ませてもらったことがあった。だが、知らない用語に出くわすたびに読む気を無くし、知らない国や街の名前を地図で調べることも、すぐに面倒臭くなった。人の名前にいたっては、ほとんど頭に入らず、ましてや、誰が作成した書類かなど、気に留めることさえしなかった。2時間ほど経つ頃には、ただ字面を追うだけになっていたが、それでも、紫乃が読み終えることができたのは、高さにして、やっと5センチメートル程度の量だった。ちなみに、弘晃は、同じ時間を使って、腰までの高さの書類を全て読み終えて、頭に入れてしまう。
「それは、僕は読むのが早いし、慣れてもいるからですよ」
「そうかもしれませんね。でもね。弘晃さんにだって、私みたいに読むのに慣れてなかった頃があったはずでしょう? 」
確かに、弘晃は読むのが非常に早い。集中している時には、紫乃が話しかけても聞こえていないし、記憶力も人並み以上のものがある。しかしながら、弘晃が、書類を読むことを習慣にし始めたのは、父親を手伝い始めた10代の半ばだった。初めは、紫乃以上にわからない言葉だらけだったはずだ。それでも、彼は、途中で嫌になって投げ出すこともせず、他の資料や爺やたちの解説を受けながら、毎日読みきった。
ちなみに、彼の父親の弘幸は、これらの書類を理解することを、とっくの昔に放棄していた。そればかりでなく、弘幸は、「私の父親(先代社長)だって、わかっているフリをしていただけで、ほとんど理解していなかったに違いない」と主張している。正弘は、自分の興味があるところ以外は斜め読みしていると言っていた。
弘晃だけが、毎日、根気良く、ひとつひとつの書類の全てに書類に丁寧に向き合っている。
「でも、僕は、現場に立って、みんなと一緒に働くことはできませんから、せめてこれぐらいのことはしないと……」
「でもね、『これぐらいのこと』といっても、中村物産の社員は、一万人以上はいるんですよ」
どうしても自分をこき下ろしたいらしい弘晃の反論を、紫乃は笑顔で封じた。
個々人の過去から現在までの所属部署と業績と周辺情報だけに限っても、弘晃が頭の中に蓄積しているデーターは『これぐらいのこと』で片付けられる量ではない。
「正弘さんもおっしゃってましたけれども、とにかく早く片付けてしまおうって思いながらあの書類を読んだら、ほどんと頭に入らないと思うんですよ。記憶だって、一度は覚えられても、すぐに抜けてしまうでしょう。人の名前なんかは、特にね。だから、同じ書類を読むにせよ、社員さんの一人ひとりのことを心に留めながら読まなければ、あなたみたいには覚えていられないと思うんです」
持って生まれた才能以上に、弘晃に熱意がなければ、到底こんなことはできない。中村の社員は、そこまで自分たちのことを気にかけてくれている弘晃の気持ちを嬉しく思うからこそ、彼を大切に思ってくれるのだと、紫乃は弘晃に言って聞かせた。
「須田さんたちが言ってました。弘晃さんのお祖父さまが社長だった頃は、毎日が辛くてしかたがなかったそうです。それなのに、今は仕事が楽しくてしかたがないんですって」
紫乃が嬉しそうに弘晃に報告する。
須田たちは、過去において、弘晃とともに陰ながら社内改革を行なおうとしたものではない。つまり、大多数の中村物産の社員と同じである。当時の須田たちは、なんとかしてノルマを達成することと、未達成だったときや少しのミスを犯した時に、なんと言って繕うか、どうやって自分を守るか、ということだけで頭が一杯だった。
だが、弘晃が幸三郎の跡を継いでからは、変った。
弘晃なら、須田たちが働きたいように働けるようにしてくれる。しかしながら、弘晃は、決して社員のやりたい放題にさせているわけでも、社員がしていることに無関心なわけでもない。必要だと思えば手も貸してくれるし、間違いがあれば公正に正してくれるが、それ以外は、余計な口出しもせず、社員の力を信じて見守っていてくれる。
だから、たとえ弘晃が自分の意に染まない決定をしたとしても、須田たちは、彼が決めたことならば信じることができる。なぜならば、弘晃が自分だけではなく他の社員のことにも目配りしてくれていることを、須田たちが知っているからだ。弘晃の判断であれば、あらゆる情報を吟味し、会社全体をのことを考えた上で出した最良の結論なんだろうと納得できる。そして、弘晃に寄せる信頼は、いまのところ、一度も裏切られてはいないのだと、須田たちは、嬉しそうに紫乃に話してくれた。
毎日毎日、書類を読み込んできたのと同じように、弘晃は、少しずつ社員に信頼されるだけの実績を積み上げてきた。会社を乗っ取ったぐらいで、紫乃の父親が彼に代われるわけがない。
「『実績』だなんて、それほどたいそうな事はしていませんよ。ろくに仕事もしないで、日がな一日、回ってきた書類を読んでいただけですから」
「そんなこと言わないの」
心もとなげな顔をする弘晃を紫乃は叱った。
「いつでも誰かが自分のことを気に掛けてくれていて、本当に困ったときには必ず手を差し伸べてもらえるって思える。それって、本当に嬉しくて心強いことなんですよ。あなたに長年見守ってもらっていた私が言うのだから、間違いありませんわ。須田さんだけじゃなくて、食品部の皆さんも言っていたもの。『たとえ世界の果てに取り残されるようなことになっても、弘晃さんなら絶対に助けを寄越してくれるって信じられる』って」
「まあ……、そんなことになったら、できる限りのことはします。それより、そんなことにならないように、先んじて手を打つようにしていますけど」
「そうでしょう? 須田さんたちがそう信じられるだけのことを、弘晃さんは、これまでにちゃんとしてきたんです。私の父がどんなに優れた経営者でも、あなたのようにはできません。だからこそ、弘晃さんがいいんです。だから、『なんで僕が?』なんて言わないの。謙遜のしすぎは嫌味にしかならないわ。第一、あなたがいいって言ってくれた皆さんに失礼です」
「はあ……、すみません」
弘晃が、力の抜けたような声で謝った。
「それにね」と、紫乃は、弘晃の手をそっと包んだ。
「会社がなくなってしまって、一番困るのは、実は弘晃さんでしょう? 弘晃さんこそ、誰よりも皆と一緒にいたいくせに」
紫乃は、弘晃の細い指先を自分の手でもてあそびなら微笑んだ。
「だって、弘晃さんにとって、毎日届けられる書類を読むのことは、なによりもまず、自分の楽しみなのでしょう? 社員さんたちからの書類は、ほとんど外に出られない自分が唯一外の世界と繋がることができる『窓』みたいなものだもの。それがなくなってしまったら、また暗闇に独りぼっちで閉じ込められてしまうようなものだわ。違いますか?」
問いかけた紫乃が顔を上げると、弘晃は、食い入るような目で彼女を見つめていた。それから、大きく息を吐くと、「貴女は、どうして、そういうことに限って……」と怒ったように呟いた。
「どうして、弘晃さんのこととなると、それほど鋭い観察力を発揮するのだろう? ……って、今、思いましたよね?」
紫乃は、ニコニコしながら弘晃の気持ちを代弁してやった。弘晃は、答える代わりに、ふて腐れたように紫乃から顔を背けた。
「皆と一緒にいたいならいたいって、仕事が続けたいのなら続けたいって、そう言えばいいのに。わたくしをフッたときと同じね。体が弱いのを気にして、すぐに自分から身を引きたがるなんて、本当に素直じゃないんだから」
「どうせ、僕は捻くれ者ですよ」
紫乃がからかうと、弘晃が拗ねた。
「あなたは、捻くれているというよりも、自分への評価が低すぎるんですよ。もっと自分に自信をもって、堂々としていればいいんですわ。ほら、ちゃんと胸を張って!」
紫乃は立ち上がると、弘晃の後ろに回り、彼の背を伸ばすように両肩を引いた。それから、体を屈め、彼を包み込むように腕を回す。
「大丈夫ですよ。弘晃さんは、ちゃんと背負っているから」
「うん? なにを?」
弘晃が首を回して紫乃を見た。
紫乃は、勿体をつけるように微笑んでから、「オババさまが言うところの、『呪い』を」と言った。
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「『呪い』?」
「または、弘晃さんが、『店の大看板』とか、『老舗の暖簾』って呼んでいるような、形のない、何か」
弘晃が、ひどく嫌そうな顔をしたので、紫乃は慌てて言い換えた。
『呪い』
『店の大看板』
『老舗の暖簾』
華江は、『中村物産を背負っていく重荷』とか『重圧』とかいう言葉を使って表現していた。
弘晃の祖父は当主や社長としての恩恵だけを望み、それを背負う覚悟をもたなかったがゆえに、会社を傾け、分家との不和を生んだ。それゆえ、それは幸三郎にとっての『呪い』となり、忌まわしい存在となった。それぞれが大企業を経営している分家の当主たちは、それを背負う者の大変さを知ってるからこそ、紫乃の出自を問うこともなく、虚弱な弘晃を精神面で支える伴侶としての彼女を望んでくれた。
「他にも『当主としての責任』とか、『500年の伝統』とか、みなさん、いろいろな言葉を使って表現しているけれど、結局、全て同じものを示していると思うの。そして、弘晃さんのおとうさまは、弘晃さんが背負っているものがどういうものなのか、一番わかっていらっしゃったのだと思うの。だから、弘晃さんは、誰よりも、ちゃんと背負っているって言いながら、けれども……」
「僕が背負っている以上、それを『呪い』を呼ぶのは相応しくないと、父は言ってましたね。確かに、『呪い』じゃないな。『呪い』だなんて言ったら、バチが当たる」
弘晃は微笑むと、肩の周りにまわされた紫乃の手を取り、秋の高い空を見上げた。
「『呪い』じゃなくて、『祝福』かな」
しばらくしてから、弘晃がポツリと呟いた。
「あるいは『恩恵』。うまい言葉が見つからないけど、僕にとってのそれは、決して厭うようなものではなくて、感謝を伴うような何かだと思います。ありがたくて、暖かくて……」
「ええ」
紫乃は、微笑みながら弘晃の頭に頬を寄せた。
「僕一人ではどうにもなりませんから。皆がいてくれて、支えてくれるから……」
「でも、皆が支えてくれるのは、支えてあげたいって思えるからですよ。私も……、とはいえ、中村物産の社員さんたちのように優秀ではありませんから、あれこれ世話を焼くこと以外に、大した役には立ちませんけれど……」
「何をおっしゃいますのやら」
弘晃は、弾かれたように笑うと、紫乃の手を引き、彼女を自分の前に立たせた。彼は、紫乃の両手を取ると、眩しそうに彼女を見上げた。
「紫乃さんがいれば、百人力です。それに、紫乃さんは、ずっと長い間、誰よりも僕を支えてきてくれましたよ」
「これからも、ずっと?」
紫乃が頬を染めながら、弘晃の言葉を繰り返す。
「そう、ずっとね」
弘晃は立ち上がると、紫乃の前に立った。そして、片方の手でズボンのポケットを探りながら、もう片方の手で紫乃の手をとると、その指の薬指に光る石の入った指輪をはめてくれた。




