75.マグロがクジラを
「会社を父に渡して自分がいなくなったら全て終わりにできるなんて、本気で思っていたんですか? 弘晃さんにしては、随分投げ遣りで中途パンパな計画を立てたものですね」
紫乃の言葉に、弘晃は何も言い返せなかった。
その通りだったからだ。
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3ヶ月ほど前。
紫乃に別れを告げたその日のうちに、『ぶっ潰してやる!!』と宣言してきた紫乃の父親の六条源一郎の言葉を誰よりも重く受け止めたのは、弘晃だった。
もちろん、『娘が傷付けられたから』という理由が、中村物産を潰すためのただの口実に過ぎないことは、彼にもわかっていた。源一郎は、ずっと前から、大手企業であるにもかかわらず経営状態が安定していない中村物産を手に入れる狙っていたのだと思われた。だから、紫乃との縁談が破談したことは、源一郎にとって、中村に難癖をつける絶好の機会だったというだけのことであろう。しかしながら、ただの口実に過ぎなくても、会社が潰れるのは『弘晃のせいだ』ということにされてしまったのだ。彼が心穏やかでいられるはずがなかった。
その日の夜遅く、今後の対応を話し合うべく会議が中村物産本社で開かれた。
こちらへの敵意をむき出しにして怒涛のように押し寄せてきた六条からの卑劣な嫌がらせの数の多さには、弘晃は困りもしたし腹も立った。しかしながら、トラブルが発生しているのは、中村物産全体からみれば、ほんの一部である。しのごうと思えばしのげないこともない。
だが、六条との友好関係が壊れることは、中村物産にとっては致命的な痛手となる。特に資金面は痛い。それに、六条源一郎は、財力もさることながら政財界の……いわゆる裏側に大きな影響力を持っている。その六条が中村物産を見放すということは、六条の力を当てにして組み上げ、軌道に乗せてしまった10年がかりの中村物産の事業計画も台無しになるということだ。つまり、遅かれ早かれ中村物産とその系列会社は潰れる運命にある。
六条源一郎にしても、嫌がらせ程度のことで中村物産がすぐには潰れないことは知っているだろう。だから、これらの露骨な嫌がらせの数々は、『選べ』という、源一郎から弘晃にあてたメッセージなのだろうと、彼は思った。
抵抗して潰されるのを待つか、それとも、潔く全てを源一郎に譲り渡す決意を固めるか。二つしかない選択肢のうちの、どちらかを選べ。考えるまでもなく、弘晃の答えは決まっていた。
『大きな看板は主だけでは背負えない』、『大事なのは店の大看板ではなく、主と一緒になって看板を背負ってくれるような従業員である』とは、弘晃の先祖たちが繰り返し次の主たるべきものに説いてきた言葉である。
弘晃の祖父は、大きな看板を一人で背負おうとして失敗した。病弱で満足に外出もできない弘晃と、商売に向いていない父が社長としてやっていけたのは、社員の支えがあってこそのことである。弘晃は、迷うことなく社員と彼らの生活を守ることができる道……現在の従業員をできる限り残すことを条件に経営陣の全員が退任し、全てを六条に譲り渡す道を選択した。
ただ、いきなり白旗を揚げて全面降伏では、その後の交渉の主導権を完全に六条に握られてしまうことになる。せめて交渉のタイミングをこちらが決められれば、流れも変わってくるだろうと弘晃は思った。だから、弘晃は、短くてもあと3ヶ月間は、これ以上六条を刺激しないように気をつけながら、とにかくいつも通りの仕事を続けるようにと社員たちに指示した。その一方で、たとえ会社が六条のものになっても、その日から、いつも通りの業務を続けられるように準備しておくようにとも指示した。
何があっても、お客さまには迷惑をかけないようにと、弘晃はあらためて社員たちに言った。
鉱石や燃料といった海外から仕入れる大量の資源は、この国を代表する企業から、その下請けの更に下請けの工場まで絶対に必要としているものであるし、食品にしても……まあ、こちらは2、3日食べることができなくても代わりの食べ物は何かしらあるだろうが、供給が完全にストップすれば、かなり困ったことになるはずである。
たった一日休んだだけでも、その影響は計り知れない。こちらが対応を誤れば、多くの中小企業が連鎖倒産に追い込まれることになりかねない。それだけ大切な仕事なのだということを、実際の仕事を通して弘晃に教えてくれたのは、他ならぬここにいる社員たちだった。
そして、会社が誰のものになろうとも中村物産の中味そのものは揺らがないと思わせることこそが、六条源一郎と交渉する上で、弘晃が持てる最大の強みとなるはずだった。
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「そこから先は、会社のためにしなければいけないことや考えなければいけないことが次から次へと出てきたので、自分のことを考えている余裕などありませんでした。だから、初めから、『自分はもう用済み』などとは考えていません」
紫乃に両頬を押さえられたまま、もそもそと弘晃が言い訳した。
「じゃあ?」
「……2ヶ月くらい経ってからですかね」
六条から宣戦布告されて2ヶ月ほど経ったある日のこと、ふと仕事の手を休めた弘晃は、『ところで、今回のことが全て終わったら、自分はどうなるんだっけ?』 と、ようやく自身の先行きを考えた。
会社は、社員も含めて、すべて六条に渡すことになる。ずっと見守ってきた紫乃も、弘晃から永久に去って行ってしまった。中村本家の当主の座にしても、尾張中村屋から500年以上続いた会社を潰した弘晃を、分家は、今度こそ見限るに違いない。ついでにと言ってはなんだが、会社が六条の手に渡ることで、世襲制の廃止という弘晃の長年の望みも適ってしまうことにも、彼は気が付いてしまった。
仕事も守るものも、しがらみも責任も、頭を悩ませていた数々の問題も、そして願望も、数ヶ月後の弘晃には何一つ残らない。そればかりか、中村物産を渡してしまったら、弘晃が生まれたときからオババさまを通して祖父に言われ続けていた『お前の命に中村の命運が掛かっている』というその言葉さえ無意味なものになる。
生き続ける理由さえなくなってしまったと思った途端、弘晃は笑い出していた。
何にも残らないならそれもいい、と、弘晃は思った。
あと少し、もうひと頑張り。
そうしたら全てが終わる。
少しばかり日常から離れた空間に自分を置いていたこともあって、この頃の弘晃の気分は、ゴールを間近にしたマラソンランナーよろしく、妙に浮かれた気分になっていた。後から思えば、熱があったせいだったかもしれないが、心も体も変にフワフワしていた。弘晃がとうとう中村の暖簾を下ろす決心をし、六条源一郎と話をするために主席したパーティーの会場に紫乃がいてくれなかったら、彼は今頃、フワフワした気分のまま、天国へのゴールテープを切っていたに違いない。
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「……というわけで、自分を自分でお払い箱にするつもりだったのは本当ですし、いずれまた、中村の社員だったものが、中村物産改め六条物産のトップに立つことを夢見たりもしましたが、決して初めから、そんなことを企んでいたわけではないですよ」
「そんなことは、何の言い訳にもなっていません」
紫乃は、押さえている弘晃の頬を思いっきり両側に引っ張ってやりたくなった。彼女は弘晃が自分をお払い箱にした時期を問題にしているのではない。弘晃が自分をお払い箱にしようとしていたことこそを問題にしているのだ。
ムッとした顔の紫乃を和ませようとでも思ったのか、「紫乃さんに命を救ってもらったのは、これで2度目ですね」と、弘晃が嬉しそうに言った。
「あのねえ……」
困った顔をする紫乃に、「2度あることは3度ある……かも?」 と、弘晃が更に余計な一言を追加する。紫乃は深く溜息をつくと、「そういう不吉なことを言わないのっ!」と言いながら、腹立ち紛れに弘晃の両頬を力一杯つねった。
「い、痛いです。紫乃さん」
「良かったですね。生きているって証拠ですわ。こうなったら、乗りかかった船です。3度だろうが1000度だろうが、私があなたを死なせやしません」
「紫乃さんは、本当に逞しいですね」
痛がりながら彼が笑った。
「違いますよ。弘晃さんが自分のことをかまわなさ過ぎるの。だから私が逞しくなるしかないっていうだけのことよ」
「僕のせい?」
「そうですよ」
紫乃は手を離すと、自分がつねったせいで赤くなってしまった弘晃の頬をそっと撫でた。
「弘晃さんって、自分のことを大事にしないっていうより、すっかり忘れているように見えるのだもの。だから、自分がどうにかして守らなくちゃいけないって思ってしまうのよ。でもね、そんなふうに思っているのは、わたくしだけじゃないわ」
紫乃だけではない、正弘も中村の社員も、怖そうに見える分家の人々も、全員がそうだ。
「ねえ? 弘晃さんは、みなさんが弘晃さんのためにしようと思っていたことに、本当に気が付いてなかったの?」
紫乃がたずねたると、弘晃は困惑したような顔になった。
「逆乗っ取り? ええ。 先ほど話したとおり、僕は自分の悲惨な未来の姿に少しばかり酔っていたのでね。倒れる直前に六条さんに指摘されるまで、考えもしませんでしたよ」
弘晃が心底困ったような顔をした。「それに僕は、六条さんになら中村物産を託すことができると思っていたから……」
「父になら?」
「そうですよ。嫌だなあ。この僕が、六条さんの強引さに負けたというだけの理由で大事な社員や会社を託すわけがないでしょう?」
意外なことを聞かされて目をパチクリする紫乃に、「経営者としての六条さんのことなら、一番初めに援助を申し出られた時に、こちらでわかる限りのことは徹底的に調べ上げましたよ。そして、六条さんなら、託しても大丈夫だろうと判断しました」と、弘晃が説明した。
「だから、六条からの援助の話を受けるときにも、貴女と見合いをするときにも、『これが罠でも、六条さんになら潰されてもいいかな』なんて、僕は思っていた訳ですよ」
「そんな、いい加減な……」
「どうして? 援助の話を持ってくる人なんて、六条さんに限らず、そんな人ばかりですよ。誰にだってそれなりに裏があるものです。それに、この僕にしたって……」
「裏があった?」
紫乃の問いかけを肯定するように、弘晃が微笑んだ。しかも、とても嬉しそうに。
「え? そうなの?」
「どうして驚くんです? 紫乃さんも、さっき自分で僕を追及したじゃないですか。『マグロがクジラを呑み込むようなものだ』って」
「言いましたけど」
「六条を乗っ取り返してやろうとまでは考えてなかったけれど、それに近いことは、僕だって考えていましたよ」
弘晃は、座ったまま身をかがめると、足元にあった草から葉を一枚引っこ抜き、それを手でもてあそび始めた。
「六条グループというのは、あなたのお父さんである六条源一郎氏を核にして小さな企業が沢山寄せ集まってできた、大きな企業体です。集まっている企業の業種はバラバラであるというだけでなく、それぞれ完全に独立しており、横の繋がりがない」
「和臣も、以前に『もっと良いやり方があるはずなのに……』と、不満を漏らしていました」
紫乃が言うと、弘晃は、「和臣くんは、いい子ですからね」と微笑んだ。そして、「でも、六条さんとしては、今の状態のままのほうが都合がいいんだと思いますよ」と、紫乃には理解しがたいことをサラリと言って、先を続ける。
「六条グループと中村物産グループ。グループ同士で争ったときには、僕たちに勝ち目はありません。 でも、ひと度、六条グループに取り込まれてしまえば、話は変わってきます」
中村物産の社員は、系列子会社の社員も含めると、一万人を優に超す。一方、六条グループが持つ会社は、会社の数は多いけれども、個々の会社の社員数で中村に及ぶところはない。グループの中核である六条コーポレーションでさえ、社員数は千人足らずだ。ゆえに、中村物産が六条グループに吸収されてしまった後は、かつて中村物産グループであったものが、六条グループの系列会社の中で、もっとも社員数が多く、また事業規模の大きな集団となる。
「つまり、『マグロの大群の中に、大きなクジラが一匹』ってこと?」
「そういうことになりますかね」
弘晃が微笑みながら紫乃にうなずいた。
「しかも、六条に飲み込まれてしまった後の中村物産は、六条の資金力で完全な再生を果たし、ますますグループ内で力をつけていくことになりますよね?」
弘晃と話をする前に正弘たちから聞かされた話を思い出しながら、紫乃が言った。
「そうなったら、六条グループは旧中村物産であったものを事業の中心に据えることになるでしょうね。グループ全体の利益を考えたら、父は、そうするしかないでしょうし、たとえ旧中村物産の社員であった者たちを鬱陶しく思っても、、かつては中村物産であったものを父が効率よく運営していくためには、彼らの協力が不可欠。乗っ取られる前に比べて仕事が減ったわけでもないし、もともと人手不足だったぐらいだから……」
考え考えしながら話していた紫乃は、言葉を切ると、咎めるような眼差しを弘晃に向けた。
「……。なんだ。弘晃さんも、正弘さんや他の社員さんたちと同じ事を企んでいたんじゃないですか」
「だーかーらー。乗っ取られた会社を乗っ取り返すことまでは、僕は考えてませんってば」
弘晃が否定した。「僕はただ、会社の名前が変わっても、うちの社員だった人たちが、人員削減に怯えることも肩身の狭い思いをすることなく、六条さんの下で、安心して働けるようにしたかっただけですよ」
邪気のない笑顔で弘晃が言い訳する。
「ちなみに、中村の社員さんたちや、正弘さんは、マグロを食べちゃおうと思っていたそうですよ」
「はあ、そのことは、僕も正弘から聞きました。なんだか、どうしようもないことを企んでいたようですね。すみません」
疑わしげな目をしたまま紫乃が追求すると、弘晃がほろ苦い笑みを浮かべながら、頭を下げた。
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ちなみに、中村の社員たちと正弘は、こう考えた。
六条グループの傘下に入ってしまえば、クジラサイズの自分たちに対して、周りはマグロサイズの会社ばかり、それどころかイワシなみの小さな会社もある。マグロやイワシの中には、中村物産の仕事をすべて代わりにやってくれるような会社も、そういった人材を提供できそうな会社もない。だが、これとは反対に、六条グループ系列の会社が行っている仕事と似たようなことをしている部署なら、中村物産の中には幾つもある。……となれば、いっそ、マグロとイワシをクジラの腹の中に収めてしまってもいいのではなかろうか。
「つまり、正弘さんたちは、六条グループ内の小さな会社たちを、自分たちの中に少しずつ取り込んでいってしまえばいいと考えた」
まずは、源一郎に服従し、彼の信頼を勝ち得ることで、元中村の社員をなるべく多く六条グループの中枢に送り込む。その後、グループ内で権力を握った元中村物産の社員が旗振り役となって、業務改革を口実に、旧六条グループの会社を旧中村物産の業務の流れの中に取り込んでいく方向で、少しずつ整理する。
「もちろん、六条グループの会社の中には、中村物産がやっている仕事とは全く関係ないことをやっている会社もあります。でも、中村の分家さんたちの会社にまで目をむけると、業務内容が重複しているところが必ずあるんですよね?」
だから、そういう会社は、中村の分家に引き取ってもらう。
題して、『六条中村化計画』。
六条源一郎が中村物産を諦めたために、この計画は、何もしないうちに終わった。とはいえ、葛笠の情報によると、先に六条に引き抜かれた中村の社員たちは、計画の実現のための諜報活動を非常に熱心に行っていたということである。
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「そんな計画は、とても実現するとは思えないんだけどなあ……」
「でも、分家の力を借りることができたら、できないことでもなかったかもしれないって、弘晃さんも、今は思っていらっしゃるんでしょう?」
「え? ま、、、あ。うん」
すみません……と口の中で謝りながら弘晃がうなずいた。
「分家の人たちは、この計画の首謀者が弘晃さんだと思っていたそうですよ」
「正弘が、僕に内緒で、そういうふうに思わせたんですよ。しかも華江ちゃん経由で僕に知られないように、3ヶ月の間、華江ちゃんにも会いに行かず、会社が潰れかけていたことさえ、華江ちゃんに内緒にして……」
苦虫を噛み潰したような顔で弘晃が言った。
正弘のおかげで、分家の人々は、中村物産が潰されかけているというのに何の心配もしていなかったそうだ。彼らは、『中村物産を囮に六条という金庫を手に入れようとは、優しげな顔して弘晃も悪い奴よのう』とか、『女に振られた腹いせにしては、やることが阿漕だねえ』とか、時代劇に出てくる悪徳商人そのままの台詞を言いながら、いずれ自分たちの出番が来るものを期待して、高みの見物を決め込んでいたということだった。




