74.秋の庭から
主治医の岡崎から運動がてら外の空気を吸わせるように言われていることもあって、紫乃は、会議の終了後に2時間ほど体を休めた弘晃を庭に連れ出した。
「弘晃さんは、初めからわかっていたんですね?」
「は? 何をですか?」
庭を歩きながら紫乃が問いかけると、弘晃はきょとんとした顔を彼女に向けた。
「どうやったって、父には中村物産を手に入れられるはずがないってことをです」
「手に入れられない?」
紫乃が憤然と言い返すと、弘晃は、思いがけないことを言われたかのように目を瞬かせた。紫乃が何を言おうとしているかを充分察しているくせに、こういう無邪気な表情をしてみせるところがタヌキだと、紫乃は思う。
「わかっているくせに。だって、マグロがクジラを飲み込むような話ではありませんか」
「マグロねえ」
弘晃が可笑しそうに笑った。
「ちなみに、うちの会社はマグロもクジラも扱ってはおりませんが……」
「そんなことはどうでもいいんです。はぐらかさないでくださいな」
弘晃のペースに乗せられまいと、紫乃は彼を睨んだ。
「別に、はぐらかすつもりはないですよ」
弘晃は微笑むと、「座っても?」と、近くにあった縁台のような背もたれのない小さな木のベンチに目を向けた。
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この庭を設計した庭師は、家の敷地から出ることを許されなかった弘晃のために、様々な心配りをしてくれている。
施工主であった彼の祖父の部屋の窓から見える景色は、中央に池を配した純然たる日本式の庭園だが、祖父の目の届きにくかったところ……今、紫乃と弘晃が歩いている辺りには、庭の中でも四季の移ろいを感じ取れるようにと、植栽には庭木ばかりではなく野草もの類も数多く取り入れられ、疲れやすい弘晃でもゆっくりと外の空気が吸えるようにと、そこかしこに座って休むことができる場所が設けてあった。
また、自然にあるように適当に並べただけにしか見えない植物の配置にも、実は工夫がある。
「どうぞ」
先にベンチに座った弘晃が、体をずらして紫乃のために場所を開けてくれた。
紫乃が弘晃に寄り添うようにして座ると、視線が低くなったことで、それまで見えていた景色が一変した。赤く小さな花を点々とつけるミズヒキと黄色いオミナエシの茂みの合間から、まだ若い穂を出したばかりのススキが風に揺れているのが見えた。ススキ茂みの奥には、この家の外れのほうにある紫がかった赤い萩の花。萩の花の手前にある楓はまだ青い葉をつけている。
このベンチで楽しめるのは、紅葉の前の鮮やかな花の秋の景色だ。他のベンチもについても、ここと同じように、ある季節に座ると、いつも以上に景色が楽しめるように工夫されている。
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「でも、まあ……そうですね」
景色に目を向けながら、弘晃が呟いた。
「紫乃さんの言いたいことはわからないでもありません。クジラかどうかはともかく、僕たちは、図体ばかりが大きなうちの会社を、六条さんの会社に丸ごと押し込んでしまおうと思ってました」
「そうですってね」
弘晃の言葉に、紫乃はうなずいた。
六条から力づくで潰されそうになった時に弘晃が具体的にどういう指示を出したのかについては、先刻彼が休んでいる間に、正弘や帰りかけた食品部の社員たちから聞きだしてある。
六条に目をつけられたが最後、社員も取引先も、そこから上がる収益も、なにもかも短期間のうちに六条に奪われる結果になってしまう。ならば、先に渡してしまっても同じこと。無理にあがいて、他の商社などのライバル会社に付け入る隙を与えて取引先を失うよりも、『奪われる』という形をとりながら、中村から六条に段階的に業務を移行させていけばよい。
奪う六条と奪われる中村。差し引き0なら、こなすべき仕事の絶対量は変らないはず。そして、それらの仕事を引き受けるのに最も相応しい人材は、会社が潰されたあと六条に移ることになる中村の社員に他ならない。たとえ乗っ取られても、六条社長は、自分たちの仕事に口出しできない。
……と、弘晃たちは考えた。
「六条さんの会社とうちの会社では、仕事の内容が、いささか異なりますから」
同じような大きさの企業体ではあるものの、中村と六条では『大きい』の質が違う。仕事に上も下もないが、平均的な六条の社員がしている仕事は、中村のそれを比べると複雑さには欠ける。葛笠によれば、中村物産の仕事のほどんどは、六条グループ系列の会社で普通に真面目に働いている営業や事務の社員が『明日からやれ』と言われてできるような仕事ではないし、今まで必要なかったから、そういった人材を育てるシステムもない。
例えば、チョコレートの須田が一人でしていることを六条の社員だけでやらせようと思ったら、プロジェクトチームどころか、子会社が1つ必要になるかもしれないとのことであった。また、須田らをサポートする事務方の人間しても、中村には、国内外でのあらゆる取引に対応するため、金融や保険、法律等のエキスパートが揃っているが、六条にはいない。だから、紫乃の父が弘晃の会社を手にいれた場合、弘晃の会社がしてきた仕事を続けるには、中村の社員が不可欠。誰一人、クビにはできない。源一郎が中村物産を手に入れたければ、今ある中村物産を丸ごとそのまま飲み込むしかないのである。
「それに、中村物産には無駄なところがひとつもないって、葛笠さんが感心してましたわ」
紫乃が微笑んだ。
先代から弘晃たちが跡を引き継いだときに、中村物産は、不採算部門の売却や事業撤退から、社員の残業時間の使い方、社内の備品の置き場所に至るまで、徹底的な見直しを行っている。祖父のおかげで多くの優秀な人材がいなくなってしまったことに加え、弘晃が祖父の腰ぎんちゃく化していた社員のクビもきってしまったため、現在の中村物産は恒常的な人手不足。葛笠曰く、これ以上は無理と言えるほど非常に効率良く運営されている。むしろ、余裕を持たせるために、人手を追加したいぐらいであるそうだ。誰一人減らせない。
「そうなんですよ。お金がないので、ギリギリの人数しか回せなくてねえ」
弘晃が、大げさに肩を落とした。
「だから、僕たちは六条を頼ったんです。六条さんに潰されかけた時には、趣向を凝らした嫌がらせの数々にも苦しめられましたが、一番の痛手は、六条からの資金面その他の支援がなくなることです。ちなみに、東栄銀行は身内ですけれども、祖父の時代のつけを清算するために限界まで貸してもらっていますから、これ以上はびた一文も借りられません」
「知ってます。葉月さまが教えてくれました」
紫乃は、弘晃が入院した次の日に見舞いにきた老女の名を挙げた。
東栄銀行から受けている融資の本当の内容については、彼女が弘晃の退院間近に見舞いに来たときに、こっそり紫乃に耳打ちしてくれた。それは、前々から知ってたものの正式に跡を継ぐまで弘晃も手をつけることができなかった、彼の祖父幸三郎の負の遺産。幸三郎は、経費を削減したいがために、企業が従業員のために当然払っていて然るべきもの……年金とか保険とかに関わる何かを、相当誤魔化していたのだという。
中村物産ほどの大企業にはあるまじきセコすぎる不祥事なので、外部に洩れたが最後、中村物産だけでなく、東栄銀行を始めとした旧中村財閥系の企業全てが社会の批判に晒されることは請け合いだった。当主(代理)と社長(代理/相談役)を継いだ弘晃が真っ先にしたことといえば、この不正の実態を正確に調べ上げ、莫大な追徴金を払い、各所に鼻薬を嗅がせることまでして、この一件を内密に処理してもらうことだった。
そのための資金を、弘晃は、東栄銀行から出してもらっている。祖父の代から借りている分(というより、祖父が問答無用で銀行からふんだくって返していない分)を合わせると、東栄銀行は、彼らができる精一杯のことを中村物産にしていることになるわけだが、事情を知らない他所の銀行からしてみれば、毎年順当な利益を上げている中村物産に、身内ともいえる東栄銀行がこれ以上の融資に応じない理由がわからない。
先代が荒唐無稽で無計画な傲慢経営者であるがゆえに、東栄銀行を始めとする分家に見放されていたことは有名である。代が代わっても依然として距離を置いているように見える中村物産と東栄銀行を見れば、他の銀行は、当然、『中村物産には、まだ何かあるのでは?』と勘繰り、結果として、中村物産から返済が確実な融資を求められても二の足を踏んでしまうことになる。そのために中村物産は慢性的な資金不足に陥っているわけであるが、ここに大きなお財布をもった《六条》という企業がバックアップにいてくれることで、話は大きく変わってくる。六条だけではなく銀行も、『いざとなったら、六条がなんとかしてくれる』ことを信じて、つまり六条を担保に弘晃たちに資金を回してくれるようになる。
「そ状況は今も変っていません。うちは今だに、六条さんに手を離されたら落ちていくしか道はないという状態です」
弘晃が言った。「だから、僕たちは中村の暖簾だけ下ろして、中味はそっくりそのままにして六条の看板にかけかえてしまおうと思ったわけです。そうすれば看板は代わっても会社は残ります。もう資金繰りで悩む必要もないし、人手も増やせる。つまり、経営陣だけのリストラですね」
うちの会社の無駄なところといえば、そこぐらいしか残ってませんから。そう言って、弘晃は笑った。
「大叔父は、これを期に引退するつもりでした。他の数人の役人も引退、あるいは、分家のほうに再雇用をお願いするつもりでした。正弘については、平社員からでもいいから物産に残りたいというのが彼の希望でした。ヒラ社員から叩き上げて社長の座を狙うつもりだと彼は言ってました。それが適わないなら、華江ちゃんのお父さんの会社に行くことになったでしょう。父は、喜んで研究に戻るでしょう」
「そして、すべては弘晃さんの思い通りの結果になる」
紫乃は、静かに言い。顔を弘晃に向けて、彼の反応を探った。
弘晃は、なんの反応もしなかった。だが、僅かな瞬間だけだが、彼は、息をするのも忘れたかのように、いっさいの動きを止めた。
「わたくし、考えてみたんです。父が中村物産を手に入れたなら、その後どうなるだろうって」
弘晃が見せた僅かな動揺には気が付かないフリをして、紫乃は続けた。
「わたくしの父は、多くの事業を抱えているので、とても多忙です。そして、時々無茶苦茶なことをするけれど、経営者としてのあの人は冷静です。中村物産の切り回しが自分には無理で、しかも、放っておいても勝手に回っていくとわかれば、父は名ばかりの社長となって、有能な誰かを社長の代理として中村物産の舵取りをまかせる思います。そして、その有能な誰かは、中村物産の事業に精通している旧中村物産の社員の誰かから選ばれるのが自然です」
「……」
「弘晃さん、言ってましたよね? 経営者が本家の人間である必要はないって。会社を立て直すことができたら、その時は社長の世襲制を廃止したかったって。一族の者も、他の社員と同じように、それぞれの能力に応じて会社の一構成員として働けるようにしたかったって」
「……」
弘晃は答えない。何も言わずに、視線を下に落としたまま、紫乃の話に耳を傾けている。
「いらないと思ったの?」
紫乃は、座ったまま体を弘晃のほうに向けると、それまでと打って変った優しい声でたずねた。
「……え?」
弘晃が、驚いたような顔をしながら、ようやくこちらを向いた。紫乃は、彼が逃げないように彼の頬に両手をそっと添えた。そして、真正面から彼の視線を捕らえながら、精一杯厳しい顔をしてみせた。
「会社がなくなったら、自分はもう用済みだって、そう思ったの? 父に会社を引き渡して、全てを終わらせたら、もう自分はいらないって思ったの? だから、具合が悪いのを皆に隠して、倒れるまで働いたの? 弘晃さんってば、どうして、そうやって、自分のことだけは蔑ろにしたがるのかしら?」
「……」
紫乃に押さえられているために顔を背けられない弘晃は、視線だけ下に落とした。いたずらを叱られた子供のようにばつの悪そうな顔をしている彼を、紫乃は今まで見たことがなかった。なんだか、とても可愛らしい。
「でも。今回も、弘晃さんの思惑通りにはいきませんでしたね」
クスクス笑いながらと紫乃は言った。
「会社を父に渡してしまえば全てを終わりにできるって、本気で思っていたんですか? そんなことにはならないだろうって、わたくしにだってわかるのに。弘晃さんにしては、随分と投げ遣りで中途パンパな計画を立てたものですね」
そう。
全てを六条に押し付けることで、中村物産の事業を存続させる。
……と、そこまでは、中村の関係者全員、なんの迷いもなく弘晃の思惑に乗った。
だが、その先については、正弘や社員たち、そして、中村の分家の人々も、弘晃が考えたのとは違う筋書きを思い描いていたのである。




