7.余計なお世話
「六條院?」
「『源氏物語』に出てくるのですけど、ご存知ありませんか」
「ああ、あれですか」
思い出したように、弘晃がつぶやいた。
六條院とは、『源氏物語』の主人公光源氏が建てた大邸宅の呼称である。人としての位を極めた光源氏は、そこに彼に縁があった女性たちを集めて住まわせた。
物語の主人公と父。名前も含めて、2人には、なにかと共通点が多い。それゆえ、六条家のことを皮肉を込めて陰でそう呼んでいるものが多いのだという。
「平安時代じゃあるまいし、ひとつ屋根の下に何人もの妻だなんて、おかしいですよね。そんな家の娘を大事な息子さんのお嫁さんに……なんて言われたら、親御さんとしては嫌でしょうし、いろいろと詮索したくもなると思うのです。ですから、中村さまのお母様のご心配もわかりますわ」
「僕にはわかりません」
静かに弘晃が言い返してきた。
「結婚相手として重要なのは、家柄とか生まれではなく、むしろ相手の性格といいますか、相性といいますか、お互いに仲良く暮らしていける相手なのかどうかというところなのではないでしょうか?」
「まあ……」
思わず顔をほころばせた紫乃に、弘晃が、「青臭いことを言っているとお思いですか?」と問う。
「確かに、こうした家同士の結びつきを重視した縁談に、こんな話はナンセンスでしかないかもしれません。でもね、結婚したふたりが長い年月を心穏やかに暮らしていけるかどうかは、つまるところ、その一点にかかっていると僕は思うのですよ」
「それは、確かに、そうかもしれませんけど……」
言いよどんだ紫乃を見て、『ああ、そうか。それで、なんですね?』と、弘晃が何かを思いついたように手を打った。
「え?」
「ひょっとして、僕との見合いに応じたのは、そのせいですか?」
「その、せい?」
「紫乃さんは、父親の力なしには、ご自分が、まともに縁付けないと思っていらっしゃるんですか?」
「い、いえ……そ……」
さすがにそこまでは考えていないと紫乃が言い返す間もなく、弘晃は「そんなことはないですよ。貴女は大変素晴らしい女性です」と彼女の目を見て言い切った。
「いえね。なんだかおかしいな、とは思ったんですよ。紫乃さんは、この縁談に全然気乗りしていないようです。だからといって、断るでもなく、反抗的な態度をとるでもなしに、実に穏やかな顔で僕との結婚を受け入れている。まるで行き場をなくした子連れの後家さんが、仕方なしに祖父とも呼べるほど歳の離れた爺さんの嫁に行くかの如く諦めきっているではありませんか。変ですよ。まったく貴女らしくない」
動揺した紫乃が口を聞けなくなっているのをいいことに、弘晃が、「どうですか。大当たりでしょう。こう見えても、僕は、人の顔色を伺うのが得意です」と、胸を張る。
「大丈夫ですよ。貴女ほどの方なら、この先いくらでも貴女に相応しい素晴らしい男性が見つかります」
「貴女ほど……って、あなたが、わたくしの何をご存知だというの?」
なんとか紫乃が言い返すと、「まったく知らないというわけではありません。少しばかり調べさせていただきましたから」と、弘晃が証拠の品だというように、背広の胸ポケットから数枚の写真を取り出して、紫乃に見せた。
「まあ……」
それらの写真は、どれもこれも紫乃を隠し撮りしたものだった。呆然としている紫乃に向かって、弘晃は更に熱心に説得を続けた。
「貴女ほど活発で生命力に溢れた人が、親の言いなりになって、こんなくだらない閨閥作りの犠牲になるなんて馬鹿げています。大丈夫ですよ。僕が貴女に振られたところで、中村グループは、六条グループに尻尾を振るしか生き残る術がないんです。構うことないから、こんな見合い、さっさと断っておしまいなさい」
気がつけば、紫乃は、弘晃の横っ面を力いっぱい張っていた。
「失礼な方ね。そういうあなたはどうなのです」
怒りに燃えた紫乃は、弘晃を正面から睨み付けた。
「私?」
「結局のところ、わたくしだけではなく、あなたも、わたくしに心惹かれてはいないということなのでしょう。回りくどいことをおっしゃってないで、わたくしが気に入らないなら気に入らないって、はっきりとおっしゃったらいかが!」
「いえ、決して、そんなつもりは……」
「そんなに断りたかったら、ご自分から断るんですのね。では、ごきげんよう。さようなら!」
紫乃は弘晃に背を向けると、肩を怒らせながら、一人でもと来た道を戻っていった。
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弘晃が、叩かれた頬を片手で押さえながら、憤然と去っていく紫乃を、呆然と見送っていると、紫乃と入れ替わるようにして、彼の母の静江が近づいてきた。
「紫乃さんを、そうとう怒らせてしまったようね」
指の形がハッキリと赤く残っている弘晃の頬を見て、静江が気の毒そうに目を細めた。
「やはり、紫乃さんとのお話をいただいた時点でお断りすべきだったかしらね。紫乃さんに申し訳ないことをしてしまったわ。後で、お父様からも、よくよくお詫びして……」
「違うんです」
弘晃が頬に手を当てたまま首を振った。
「それが、まだお断りしていないんです。こちらの事情を話しそびれてしまいました」
「あら、そうなの。じゃあ……?」
では、うちの息子は、なぜ、あの美しくも聡明な娘さんをあれほど怒らせてしまったのだろうと、母親が疑惑の眼差しを息子を向けた。そんな彼女の前にして、弘晃が、突然、さも楽しそうにクスクスと笑いだした。
「弘晃? どうかして? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫ですよ。どこかがおかしくなったわけではありません」
弘晃は言った。「ただ、いいなあと思って。紫乃さん、思ったとおり、元気一杯だ」
弘晃は笑いを納めると、「お母さん。この縁談。このまま進めてもらってもいいでしょうか?」と、たずねた。
静江が、驚いたように、大きく目を見開いた。それから、両手を組み合わせると、弘晃に向かって嬉しそうに何度もうなずいた。
「まあ。もちろんよ。やっと、その気になってくれたのね。そうよねえ。あんなに素敵なお嬢さんですもの。いくら弘晃さんでも、断るのが惜しくなるわよねえ。でも、本当に、そうしてもいいの?」
「ええ。彼女さえよければ。それに、気になることもありますしね」
弘晃は、紫乃が去っていった方向に目をやりながら、誰に言うでもなくつぶやいた。