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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
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68.母の想いと浮気な父の末路

 相手の体に腕を回し、頬や額をすり寄せ、互いの存在とその温もりをしつこいぐらいに確かめ合ったあと、弘晃が咳き込んだのをきっかけに、紫乃は、彼に横になるように勧めた。


「半日ぶりにやっと会えたって言うのに……」

 弘晃が、実に恋人らしい不平を口にしながら、紫乃に世話焼を焼かれるまま、上体を少し起こしたベッドにすんなりと横になった。やけに素直ではないかと紫乃が意外に思っていると、「それで?」と、寝床に収まった弘晃が、まるで寝物語の続きをねだる子供のような期待に満ちた眼差しを彼女に向けてきた。


「それでって、何がですか?」

「惚けたってダメですよ。今帰った2人の年寄りだけではなく、外には見張りもいたでしょう? 彼らに何をしたんです?」

「べ、別に何も」

 紫乃は、しらばっくれた。

「父が中村物産にしたことを大変申し訳なく思っていますって、応対してくれた社員の人に謝りました。 それから、私は父を許せないし、弘晃さんのことも心配なので、父を捨てて弘晃さんのところにお世話になることにしたって、そう言いました。そうしたら、たまたまいらしたあのお2人が、『そういうことなら、私たちと一緒に、弘晃さんの様子を見に行きましょうね』っておっしゃったんです」


「それだけですか?」

「ええ、それだけです」

 皆さん本当に良い方ですのね、と、紫乃は、純情無垢なお嬢さまを装って、無邪気に微笑んで見せた。弘晃は、もちろん、その程度の説明では誤魔化されてはくれず、「ありえませんね」の一言で一蹴した。紫乃の言うことなど頭から信じていないような口ぶりである。それはそれで、紫乃としては面白くない。


「本当です」

 紫乃は、ムキになって主張した。嘘は言ってない。

「そうかもしれませんね」

 弘晃が、紫乃の言うことを素直に受け入れながらも、「でも、今の紫乃さんの説明は、内容を3分の2ほど端折っているのではありませんか?」と、指摘する。

 紫乃が微妙に顔色を変えたのを見逃さなかった弘晃が「当たりだ」と、嬉しそうに笑った。弘晃本人が初対面のときに彼女に言ったとおり、こちらが困ってしまうほど、人の表情を読み解くのが上手な男である。

 弱った。隠し事ができない。

 そんな、紫乃の考えまで伝わってしまったのだろう。「僕の好きな人が紫乃さんほど賢明な女性でなければ、今の説明でも信じますけどね」と、弘晃が笑う。


「でも、その程度の謝罪で皆の理解が得られると思っているのであれば、貴女は最初から家に戻ったりしなかったでしょう? 無用な混乱を避けるために家に帰った紫乃さんが、無用な混乱を起こすために病院に戻ってくるなんて。たとえ僕に何があったとしても、賢い貴女は絶対にしませんよ」

「だって、心配だったの」

 こうなれば色仕掛けでも、なんでも……と、紫乃は、甘えたような口調で弘晃に訴えた。

「本当よ。だから、どうしても、あなたに会いたかった。信じてくれないんですか?」

「もちろん、信じますよ。他ならぬ貴女が信じてほしいというのであれば、惚れた弱味です。それがたとえ嘘だとわかっていても、僕は信じますけど?」 

 弘晃は人の良い笑顔を崩さない。それが、かえって人の悪さを感じさせる。すっかり彼に面白がられている……そういう感覚が、しっかり紫乃にも伝わってくる。

「……。嫌な人ね」

 紫乃は口を尖らせると、ベッドの上の弘晃の足元近くに放りだしたバックを拾い上げ、両腕で抱えるようにして膝に置いた。



「ええと……ですね。弘晃さんもご存知の通り、わたくしの母は、六条源一郎の愛人なんですよ」

 どこから話していいものかと思いながら、紫乃は話し始めた。



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「母の実家は、小さな銀行を経営していました」


 紫乃の母親である綾女の実家の事業を父が救ったことが、ふたりが知り合ったキッカケであった。

 しかしながら、援助の申し出は、他にも幾つもあったそうだ。綾女の実家が抱えた赤字は、当人たちにとっては大した額だが、援助者たちにとっては、それほどでもなかったらしい。事業を畳んだときに発生する負債を全て肩代わりするかわりにと、彼らが要求したものは、当時評判の華族の血を引く美姫……綾女だった。


 綾女を妻にと望むものは、まだ良いほう。綾女を望んだ男の中には、既に妻ばかりではなく、彼女よりも年上の娘がいる男もいた。


 だが、誇り高い綾女の父には、いずれの男も、人の弱みに付け込む薄汚いオスにしか見えなかったようだ。「どんなに困窮しても、娘を金で売るつもりはない」と、彼は、綾女の求婚者たちを突っぱねた。


 綾女の父が、六条源一郎を知り会ったのは、そんな頃であった。


 その頃の源一郎は、半ば崩れかけたビルの一角に、『経営ゴ指南イタシマス』という看板を掲げた、一文無しに近い怪しげな男であったという。そんな胡散臭い男が、綾女の父のところに自分を売り込みに来て、こう言った。

「お礼は成功報酬で構いません。失敗したときは、そちらが背負い込むことになる借金を全て僕が引き受けましょう。だから、あなたに損はありません。思い切って、僕に全てを任せてみませんか?」

 大言を吐くこの若者を、綾女の父は、いたく気に入ってしまった。

「どうせ潰れるしなかい運命だったのだ。ならば、君が見事に事を成した暁には、私の会社をそっくり君に差し上げよう。なんだったら娘もつけてやる」

 彼は、上機嫌で、源一郎と契約を交わした。

 源一郎は、大口を叩くだけの実力と運の持ち主だった。彼は、綾女の父の銀行のみならず、父が融資していたものの、やはり潰れかけている会社をいくつか、負債のすべてを引き受けることを条件についてに経営権を譲り受けたうえで立て直した。


 綾女の父は、一時の欲に駆られて、源一郎との約束を反故にするようなことはなかった。彼は、潔く、彼が約束したもの全てを、源一郎に譲った。綾女の父からもらった銀行と 同じ頃に彼が立て直した幾つかの企業を一つに統合したものが、今の父の会社。 六条コーポレーションの前身である。


「もちろん、『娘もつける』という約束については、私の祖父にしろ、父にしろ、本気にしたわけではありません」

 紫乃は言った。事実、源一郎は、その約束が交わされた時に、『残念なことに、僕は妻帯者ですから、娘さんをいただくわけにはまいりません』と、笑いながら祖父に打ち明けている。だが、たった一人だけ、彼らのオマケの口約束を本気に……実現することを強く望んだ者がいた。


 綾女である。


「私は戦利品じゃないわ!!」と、憤慨していた綾女は、当初、源一郎に相当な警戒心を抱いていた。

 源一郎のことを困窮している自分の家を更に苦しめる詐欺師に違いないと信じていた綾女は、源一郎の尻尾を掴むつもりで、彼に付きまとった。警戒し疑いながら、綾女は、次第に源一郎に惹かれていった。数年後。 源一郎が離婚する気がない……できないことも充分承知の上で、綾女は彼とわりない仲になり、紫乃という娘を産んだ。



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「祖父は、母を咎められなかったそうです」

 紫乃が言った。


 彼には、源一郎を選んでしまった綾女の気持ちもわかってしまったらしい。紫乃の祖父の目から見ても、源一郎という男は、人間的な魅力にも溢れていた。そのうえ綾女一家には、源一郎に窮地を救ってもらったという恩義もあった。源一郎がいなければ、一家は路頭に迷うか、あるいは、好きでもない男のところに綾女を花嫁として売りつけて糊口を凌ぐしかなかった。だから、一生日陰者で良いから好きな男のために生きたいという娘の覚悟を、綾女の両親は黙って受け入れた。


 そうして、自分の生まれ育った家で、源一郎のたまの訪れを待ちながら紫乃を育てるという、綾女の生活が始まったわけだが、ここにきて、ある問題が持ち上がった。紫乃の実家の事業を手に入れて、にわかに金持ちになった源一郎は、綾女に対して生活と養育のための月々の手当を与えようとしたわけだが、彼女は、これを断固として拒否したのである。

「母は、月々のお手当てをいただくのは、お金が目的で囲われている女のようでイヤだとゴネんです」

 我侭を通して源一郎のものになったのだから、自分のことなら、どう思われようが構わない。だが、『娘は売らない』と言ってくれた綾女の父が、綾女を目当てに困窮している彼に手を差し伸べた男たちから、結局金目当てに娘を売ったのではないか思われるのが、綾女には耐えられなかったそうだ。

「なにより、母をお金と引き換えにしようとした男の方たちと、父が、世間から同じ目で見られるのもイヤだったそうです」

 変な意地を張ったところで世間の見る目は結局変らないことなど、綾女にもわかっていた。けれども、これは綾女の気持ちの問題であった。嫌なものは嫌なのだ。

 それに、綾女には、なんとなく予感があったらしい。源一郎は、魅力的で惚れっぽく、情にほだされやすい。この先の未来、彼が手に入れる女が自分ひとりで終わるわけがない。金の切れ目が縁の切れ目ならぬ、縁の切れ目が金の切れ目。あるいは、縁が切れているのに、金銭的な援助だけが続いている……将来、そういう日が来たら、あまりにも自分が惨めではないか?


 お金なんていらない。

 父を救って住み慣れた家を残してくれたことだけで充分。 

 源一郎の世話にはならない。 

 自分と自分の娘の世話ぐらい自分でみられる。


 綾女は、意地を張り通した。近所の娘たちに琴や書道を教え、そこから得られるわずかな報酬と、源一郎の会社の共同経営者として返り咲いた綾女の父からの少しの援助とで、綾女母子は、ささやかに暮らしていた。


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「でも、『何もいらない』と言われても、父にしてみれば、あまりに無責任でしょう?」

 紫乃は、弘晃に言った。この後、新たに5人の女に手を出すことを考えれば、源一郎が無責任ことには変わりないのだが、彼は彼なりに、綾女の恋人であり紫乃の父親であるという責任を果たさなければと考えたらしい。

「それで、父は、株を母に渡すことにしたんです」

「つまり配当金?」

「『いらなかったら処分してもいいけど、これからの僕と僕の会社の成長を見守ってくれるつもりで、この株を一生綾女さんにもっていてほしい』なんてことを、父から言われたら、さすがに、母も突き戻せないでしょう?」

 紫乃が笑う。

「さすが、紫乃さんのお父さん。そんな言葉さえも口説き文句に聞こえますね」

 弘晃が感心したように目を伏せた。


 それから数年後、紫乃が中学に上がる少し前に、源一郎の本妻が亡くなり、彼の愛人6人が、彼の家に押しかけ、同じ屋根の下で暮らし始めた。


 始めのうちは大変だった。


 女たちは、父の寵と奪い合うだけでなく、何かにつけて競い合いあった。どの女がどれだけ源一郎に愛されているか、それを知るための一番わかりやすい指標として、源一郎が渡した金品の価値の大小がある。誰々は何を貰ったのだから、自分への愛の証として、それよりも、もう少し価値のあるものが欲しい。あちらがダイヤの指輪なら、こちらは大島紬。こちらが大島紬なら、むこうは金糸銀糸を織り込んだ西陣織の帯、向こうが帯なら、こちらはドレスというぐあいに、綾女を除いた5人の女の『おねだり合戦』が始まり、あっという間に度を越した。


 この争いから最初に戦線離脱したのは、源一郎であった。彼は、女たちを恐れるあまり、家に帰ってこなくなった。あるいは、帰るなり、比較的安全な綾女の部屋に篭城した。

 綾女にしてみれば、これを機会に源一郎が他の女たちに愛想をつかしてくれれば、それに越したことはなかった。だが、この状態が長く続けば、源一郎が、新たなる安らぎを求めて、若くて美しい7人めの女を外にこさえる事は、まず確実である。思い悩んだすえ、綾女は、源一郎に提案した。 


 『いっそ、皆さまも、私と同じにしてしまってはいかがですの?』 と……



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「それは、つまり、六条さんから、それぞれの奥さまに、直接何かを贈るという行為は一切なしにして、その代わりに、六条の株を譲渡するということですか?」 

「無粋ではありますけどね。株も、その時に分けなおしたんです。その時の六条の株の全体量の半分を、母たちが6人で均等に分けました」

 弘晃の問いに紫乃はうなずいた。この方式ならば、株の配当金として、全員に同じだけの金銭が与えられることになる。しかも、株主には、定期的に報告書が公表されるので、彼女たちの知らない間に源一郎が特定の女をえこひいきすることもできない。

「株を分けたときに、父は、日々の女たちの生活と娘たちの養育に必要な掛かりは全て持つことにするという条件をつけました。この条件を母が受け入れました。これで、全員が平等だというわけです。その後は、母たち同士の争いは、めっきり減りました」

 紫乃は、そう言って話を締めくくった。


「なるほど……半分を6つに……」

 紫乃の話を聞きながら、弘晃の指が布団の上に円を描いた。彼は、描いた円を半分に分けるように線を引き、その半円を更に……ちょうど時計の文字盤を5分刻みにするように6分割する。

「ひとり12分の1というわけですね?」

「ええ、それで、これ……」

 彼女は、バックの中から、母の綾女を含む父の6人の愛人に書かせた書類を取り出すと、それらを広げた状態で重ねて、無言で弘晃に手渡した。

「さすが書道の先生をしていただけあって、紫乃さんのお母さまは、達筆ですねえ」

 いらないところに感心しながらも、弘晃の目は、そこに書かれた文章をしっかりと目で追っていた。

「『……が保有する株における…………権利を、左記の期間、六条紫乃に委任する』と……文面はお母様の名前以外は全て同じですね。それが、全部で6枚」

 弘晃が文書の所々を小さな声で早口に読み上げながら、他の書類も確認する。


「つまり、今の紫乃さんは、六条の株の50パーセントを好きにする権利を有しているということになりますね?」

「その筈だったんですけど……」

 紫乃は、バックから、和臣から預かったもう一枚の書類を弘晃の手元に追加した。

「弟の分もいれて、ようやく51パーセントだそうです。父が先日、全体の量を増やしたそうで、母たちの分だけでは足りなかったんです」

「なるほど」

 弘晃は、紫乃に渡された書類を軽く二つ折りにすると、笑いをかみ殺すような顔をしながら、彼女を見た。


「さて。こんな念書を持っている紫乃さんは、外に見張りに立っているうちの社員に何を言ったんですか?」

「……」

「期限付きの書類とはいえ、これだけの株を自由にする権利を持っていたら、六条に対して、どんな我侭も通りそうですねえ」

「……」

「お父さんをクビにすることだって可能かもしれない?」

「……」

「なるほど、そういうことなんですね?」


 弘晃から顔を背けよう背けようとする紫乃の顔色を伺いながら、彼は、やすやすと真相にたどり着いてしまった。





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