67.最愛にして最強の
同じ頃。
「こら! 静かに寝てろって言っただろうっ!!」
弘晃が病室に引き込んである電話を使おうと起き上がった途端、まるで、どこかで見張っていたかのようなタイミングで、彼の主治医で幼馴染の岡崎壮太が病室を訪ねてきた。
「静江おばさんが用足しに家に帰ったって聞いたから、まさかと思って来てみれば、だめじゃないか」
「だって、みんなが頑張っているのに、僕だけ寝ているのも気が引けるんだよ。だから、少しでもできることをしようかと思って」
「今のお前の仕事は、体を治すことなんだよ!!」
岡崎が、ぐずる弘晃を問答無用でベッドに連れ戻し、両手を腰に当てながら聞き分けの悪い患者を見下ろした。
「紫乃さんを早く呼び戻したいという気持ちはわかるけど、焦るなよ。やらなきゃいけないことは、やったんだろう? 後は、お前の回復待ち。さっさと元気になって、六条の社長と話し合って、取られかけた会社を完全に取り戻す。そうだったよな?」
岡崎が、数時間前に病院に押しかけてきた社員に対して弘晃が話した内容を思い出させる。
「そうなんだけどね。でも、一応は納得してくれたものの、みんな、まだ、かなり怒っているようなんだよねえ」
弘晃は、電話に未練たっぷりな視線を向けた。
今頃、六条から派遣されてきた者たちと中村の重役たちが、本社の会議室で、弘晃と六条源一郎との話し合いが行われるまでの暫定的な対応策を話し合っているはずである。だが、果たして、まともな話し合いができているのだろうか? 六条へ不信感から、無用な諍いが起きてはいやしないだろうか? 弘晃は、どうにも気になってしたかがない。
「それだけ酷いことをされたんだから、仕方ないさ。急に気持ちを切り替えろって言うほうが無理だろう」
胸ポケットから聴診器を取り出し、機械的な動作で弘晃の状態をチェックしながら、岡崎が会話を続ける。
「そうだけど……」
「らしくないね。いつもは、ドーンと任せっぱなしの弘晃が」
「好きで、いつも任せっぱなしにしているわけじゃないよ」
弘晃は、ふて腐れながら横を向くと、病室の外へを続く扉が見えた。
実を言えば、病室の外にも、彼の頭痛の種がある。この病室の外に、数人の社員が待機している。いずれも、学生時代に武道やラクビーなどをやっていた頑強な体つきをした猛者である。
六条社長が交渉相手と認めているのは、弘晃のみだ。ということは、彼は、弘晃さえいなくなってしまえばいいのに……と、思っているのかもしれない。だから、弘晃の身に、もしものことがあってはいけないと、すっかり疑い深くなっている社員たちが、数時間ほど前に、腕っ節の強い社員を病院に寄越してきたのだ。
「紫乃さんを帰して正解だったな。ここにいたら、弘晃の命を狙う六条の刺客か何かだと思われていたかもしれない」
「そうだね。でもさ、いくらなんでも、オーバーじゃないかな? 僕を邪魔に思ったとしても、六条の人が僕に危害を加えるとも思えない」
「そうか?」
過保護な社員たちに困り果てた弘晃のボヤキを、岡崎が思いがけないほど深刻な顔で受けた。
「六条は、本気で、弘晃の過労死を狙っていたのかもしれないよ」
「なにを馬鹿な……」
「馬鹿なことでもないだろう?」
笑っていなそうとした弘晃に、岡崎が厳しい眼差しを向けた。
「医者としてのチェックが甘かった俺も悪い。だけど、紫乃さんが気が付いてくれるのが、あと1日でも遅かったら、お前は死んでいたかもしれない。今だって、全然安心できる状態じゃない」
「……うん」
「みんな、お前を大切に思っているからだよ。わかってんのか?」
「ありがたいと思っています。すみません」
パジャマの前ボタンを留めながら、弘晃は素直に謝った。
「反省しているのなら、少なくともあと一週間は安静にしていてくれ。真面目に養生して、さっさと職場復帰しないと、更に困ったことになるかもしれない」
「困ったこと?」
「そう、とても困ったことだ」
岡崎が、なにを思ったのか、弘晃の頭上にあるヘッドレストについた片手を支えにしながら、真上から弘晃に覆いかぶさるようにして、威圧感たっぷりに彼を見下ろした。
「壮太?」
「『本家の当主に万が一のことがあれば、六条を許さない』」
「え?」
「『もし弘晃が死んだら、身の程知らずの六条など、この世から消し去ってくれる』」
「壮太? なにを……」
「……って、言ってたぞ」
「言ってたって、誰が? まさか……」
それまでの真剣な表情を一変させ、歯をむき出しにして大げさな笑みを作る岡崎とは対照的に、弘晃は青くなった。そんなことが言えるだけの力をもった一族の者ならば、弘晃にも心当たりがある。それも、ひとりやふたりじゃない。幾人もだ。
「いつ?」
「今朝、お前の様子をたずねる電話が、俺のところに掛かってきたんだよ」
うろたえている弘晃を面白そうに観察しながら、岡崎が答えた。
「どうして、もう知っているの?」
「世間が狭いからじゃないかな?」
「でも、なんで、あの人たちが介入してくるんだよ?」
うちの会社が潰れようがどうしようが、誰ひとり関心がないはずだと弘晃は思っていた。少なくとも、弘晃の祖父の代は、そうだった。彼らは、祖父と係わり合いになるのがイヤで、本家と中村物産からひたすら距離を置いていた。中村物産が潰れかけても、彼らは手を差し伸べようとはしなかった。弘幸と弘晃の代になってからも、向こうにも利が無い限り、彼らが何かをしてくれたことはない。今回のことにしても、中村物産が六条に潰されかけていることには気が付いていただろうに、何も言ってこなかった。 いまだに、冷淡とも言えるほど無関心な態度をとり続けている。
弘晃がそう言うと、「同じ無視でも性質が違うんだと思うよ」と、岡崎が笑った。
「あの人たちは、幸三郎じいさんのことは大嫌いだった。だから、見放した。お前のことは、かなり認めているし、かなり気に入っているようだ。今回のことにしても、口出しする必要を感じなかったんだろう。何も心配していなかったみたいだぞ。『弘晃が、中村物産をエサにして金蔵を手に入れるつもりだとばかり思っていた』 とか何とか言っていた」
岡崎の言葉に、弘晃は「ああ」とも、「うう」ともつかない相槌を打った。
なるほど、弘晃たちがとった行動は、見方によっては、そういうふうに解されるのかもしれない。もしかしたら、六条社長も、彼らと同じように思ったから、和解を申し出てくれたのかもしれない。
だが、弘晃には、そんなつもりは微塵もなかった。自分たちで解決するしか道はないと思っていたから、とにかく社員の生活が成り立つようにしたくて、必死に頑張っただけだ。
「それなのに、そんなふうに思われていただなんて、あんまりだ。それに、あの人たちの力がアテにできるとわかっていれば、もっと早くに六条と和解できる手段もあったのに。みんなにも、あそこまで苦労させることなかったのに」
「よしよし、お前も苦労したんだな」
ウジウジといじける弘晃の頭を、岡崎が撫でた。「六条から随分酷い目に合わされていたって聞いたよ。あの人たちも、かなり怒っていた。それで、お前には言いづらいんだけど……」
「なに?」
もう何を聞かされても怖くない。開き直る弘晃に、壮太が「紫乃さんにも、かなり敵意を感じているみたいだ」と教えてくれた。
「紫乃さんは六条の娘で、しかも愛人の子。そんな娘を、由緒正しい中村本家の当主の嫁として認めるわけにはいかない。結婚には断固反対だとさ」
こちらは一族の中でも特に女性の年配者を中心に、にわかに問題になっているらしい。
「でも、僕が結婚することなんて、誰も期待していなかったはずだけど?」
弘晃は眉根を寄せた。いつぞやなどは、『誰でもいいから結婚しておけ』などど、言ってきた者もいたぐらいである。誰でもいいのなら、紫乃なら上等ではないか。それなのに、なぜ問題にされるのか。 弘晃には理解できなかった。
「でも、本当にお前が結婚するとなると、話は別なんだろう? なんといっても、お前は、本家の当主だし」
「当主補佐だよ」
弘晃は頑固に訂正を入れた。
「でも……それは、困ったな」
面倒くさいことになりそうだと、弘晃がため息をついた。
「無視すればいいさ。正弘と華江ちゃんの時だって、反対されたじゃないか?」
「そういうわけにもいかないだろう。華江ちゃんの時とは、事情が違うよ」
あれは本家と関わりたくない分家が反対したのだ。彼らはむしろ花嫁の味方だった。だが、今回の紫乃は、彼らを敵に回していることになる。弘晃としては、紫乃が中学生の時に体験したイジメの二の舞になるようなことだけは、絶対に避けたかった。
自分の目の届くところで、彼女に2度とあんな嫌な思いを味わわせない。全員は無理でも、多くの人から祝福された花嫁にしてあげたい。
「紫乃さんのことは、ちゃんと話してわかっていただくよ。とはいえ、気が重いなあ」
掛け布団を鼻まで引っ張り上げながら、弘晃は呻いた。あとは解決するばかりと思っていたところに、これまで以上にやっかいな問題の出来である。
「『一難去って、また一難』 って感じだね。 敵は六条より手ごわいかもしれないぞ。頑張れよ」
だから、まず体を治せ、安静第一だと、岡崎が、明るく、そして医者らしく激励する。
「他人事だと思って……」
弘晃が恨めしく思っていると、ノックの音がして、待機していた社員が見舞い客のあることを告げた。
「面会は、遠慮していただいているはずだが?」
帰ってもらえと、言外に岡崎が告げた。
「ですが、先生……」
「すまない。だが、やはり一目だけでも顔を見て帰りたいと思ってね」
扉の陰から小柄で細い顎にひげを蓄えた老紳士が顔を覗かせ、軽く帽子を上げて見せた。
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(うっっっわぁああああ~~っ!!! でたっ!!)
噂をすれば影といわんばかりに現れた男を見て、弘晃と岡崎は、心の中で叫び声を上げた。
現れたのは、その老紳士だけではなかった。彼に続いて病室に入ってきたのは、真っ白な白髪を結い上げ、どこか白い牡丹の花を思わせるろうたけた老婦人だ。彼らは、さっき弘晃たちが噂していた人々の中でも、弘晃が特に苦手としている人々だ。男性のほうが、成り上がりの六条グループを潰してやるといきまいていたリーダー的存在で、女性のほうが紫乃を中村家に入れるなんて許さないといっている女性たちの中心人物である。夫婦でもないこの2人が早速つるんでやってきた理由を想像しただけで、弘晃は眩暈を覚えた。
「ご、ご無沙汰しております」
「いや、そのままでいいよ。寝てなさい」
恐縮しながら体を起こそうとした弘晃に、老紳士のほうが笑顔で命じた。
「でも、思っていたよりも、ずっと元気そうね」と、老婦人が嫣然と微笑む。
「彼のおかげです」
怖い思いは、独りでしたくない。弘晃は、傍らに控える幼馴染みに、彼らの注意を向けようとした。
岡崎は、引きつった笑みを浮かべたまま、きごちない仕草で、彼らに小さく頭を下げた。老婦人が、「壮太くんも、もう立派なお医者さまね」と、口元を隠しながら上品に笑った。それから、彼女は、まだ開け放しになっている戸口のほうに笑顔を向けると、「あなたも、弘晃さんのお顔を見て、早く安心なさいな」 と声をかけた。
(まだ、他にもいるのか?)
弘晃は心の中で身構えた。だが、老女の呼びかけに応じて遠慮がちに入ってきた女性を見て、弘晃は、予想していたのとは違う意味で非常に驚かされた。
「紫乃さんっ?!」
花束を抱え、水色っぽいクセのないデザインのワンピースにレースの上着を着た紫乃は、とても愛らしく、牡丹の花の妖のような老婦人の横に並んでも、遜色ない美しさと存在感を保っていた。いや、老女の隣にいるせいで、弘晃の目には、いつも以上に紫乃が清楚で可憐に見えた。
紫乃が、半日ほど前に別れたときから様子が変ってなさそうな弘晃を見て、安心したように顔を和ませた。それから、急に何かを思い出したように、「ごめんなさいっ!」と、跳ねるように頭を下げた。
「え?」
「言いつけを破ってしまいました。だって、『面会謝絶』だって聞いたから……」
もじもじしながら、紫乃が言い訳を口にする。
「あ、それは、昨日からずっとだよ」
病室の入り口にぶら下がっている札も昨日から掛かりっぱなしだと、岡崎が説明した。「この先一週間も、ずっと面会謝絶にするつもりだった」という岡崎の言葉に、紫乃が、「どうしましょう。わたくしったら、早合点して……」と、恥じ入りながら手にしていた花束で赤くなった顔を覆った。
そんな紫乃を慰め始めたのは、隣にいた老婦人だった。
「まあまあ、紫乃さん、そんなに落ち込まなくてもよろしいのよ」
老婦人が、優しく紫乃の肩に手をかけた。
「弘晃さんが心配で、じっとしていられなかったのよね?」
老婦人の問いかけに、紫乃が、コクリとうなずく。老婦人は、満足げにうなずくと、背後から紫乃の肩に手を置き、厳しい顔で弘晃に命じた。
「そういうことだから、弘晃さんも紫乃さんを責めるようなことをしてはいけませんよ。こんな素敵なお嬢さんに慕われるなんて、あなたも果報者だこと。一生、大切にしてあげるんですよ」
『紫乃に何かしたら、この私が許さない』と言わんばかりの老女の物言いに当惑しながらも、弘晃は「はい、もちろん、そのつもりです」と、心から誓った。しかしながら、この老女は、弘晃に彼女との結婚を断念させるために、勇んで、この場所にやってきたのではなかったのだろうか? いったい、どこでどういう心変わりがあったのだろうと弘晃がいぶかしんでいるそばから、今度は老紳士が、孫娘でも見るような優しい眼差しを紫乃に向けた。
「本当に、面白いお嬢さんだ。なかなか賢いし、たいした度胸だよ。お前も、欲をかいたり変な意地を張ったりせずに、紫乃さんを実家と婚家の板挟みにするような情のないことはしないようにするんだよ。何があったかは知らないが、六条さんとは、今後も末永く良好なお付き合いが続けられるように、折れるところは折れてだな……」
この老紳士も、身の程知らずの六条グループに憎しみを抱いていたはずなのだが……
(紫乃さん。いったい、この2人になにをしたんですか?)
弘晃の心の重荷になりかけていた問題が、なぜ、紫乃の登場と共に、キレイさっぱり消えてなくなってしまったのか? 訳がわからないまま、弘晃は、老紳士の小言に反論もできずに、「はい」とか「わかりました」とか「仰るとおりです」とかいう言葉を繰り返すほかなかった。
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また来るからと、見舞いに来た老人たちは、弘晃の体調を気遣って、早々に退出してくれた。岡崎も、彼らを見送るべく、病室を出て行った。
残っているのは紫乃と弘晃のみ。弘晃に怒られるとでも思っているのか、紫乃が心細そうに彼らが去っていった方向に顔を向け続けている。弘晃が声を掛けると、こちらに顔を向けたものの、彼と目を合わせようとしない。
紫乃は、あの気難しい年寄りたちに、どんな方法で気に入られたのか?
それより、外で見張っているはずの社員たちに咎めらるようなことはなかったのだろうか?
弘晃には、聞かなければいけないことは山ほどあったはずである。だが、「おいで」という言葉が、なによりも先に、自然に、弘晃の口をついて出た。ベッドの上で起き上がり、彼女を迎えるように手を広げると、彼女は、びっくりするほど素直に、弘晃の腕の中に飛び込んできた。
「弘晃さん。やっぱり、まだ、だいぶ熱い」
弘晃の首の辺りに額を押し付けながら、紫乃が怒ったように言う。
「ごめん。僕も、ちょっとだけ、紫乃さんとの約束を破ってしまいました」
弘晃は正直に告白した。
「ちょっとだけ?」
「うん、ほんのちょっと」
「本当に?」
「本当だよ。疑うのなら、壮太に聞いてみればいい」
弘晃は微笑んだ。こんな些細な彼女とのやり取りにさえ、彼は幸せを感じた。
「少しでも早く君に会いたかったから……」
弘晃はそう言いながら、紫乃が膨らませた頬に唇を寄せた。




