66.本当に大丈夫?
「ひどいな。 僕だけを仲間はずれにして、みんなで楽しく悪巧みなんて……」
弟の和臣が恨めしそうな顔をしながら、荷物を積み込んでいる運転手の代わりに、紫乃のために車のドアを開けてくれた。
「悪巧みなんて……」
「隠したって無駄だよ。もっと奥に詰めて」
和臣に命じられるまま、車に乗り込んだ紫乃が奥へと進む。空いたスペースには、和臣が、紫乃から一時的に預かったブーケ兼見舞いの花束もろとも、自分の体を滑り込ませた。
「ちょっと? どうして、あなたまで乗るの?」
「色ボケしている姉さん一人に任しておくのが不安だからだよ」
驚く紫乃に、和臣が馬鹿にしたように言い返した。
よく見れば、和臣は、学生服ではなくスーツに着替えていた。初めから紫乃に同行するつもりで、玄関で彼女を待ち構えていたらしい。ドアを閉めた和臣が、『行って』と運転手に短く命じる。既に行き先を指示されていたのだろう。軽い会釈を返して運転手が車を発信させた。
妹たちが、紫乃にエールを送るかのように、大きく手を振って見送ってくれた。車の後方の窓から見える妹たちの姿は次第に小さくなり、やがて植え込みの陰に消えた。
「『色ボケ』ってなによっ?!」
振っていた手を下ろすやいなや、紫乃は、和臣に食って掛かった。
「ボケボケじゃないか。本当に姉さんらしくないというか、詰めが甘いったら……」
ため息と共に組んだ腕を解いた和臣は、スーツの内ポケットから取り出した紙を、4つ折りのまま紫乃に渡した。
「なあに、これ?」
不審に思いながら和臣に渡された紙を広げた紫乃は、驚いた。縦書きでもなく、文章も違っていたが、紫乃が先程母親たちに書いてもらったものと同じ内容のことが書かれている。文末の署名は、和臣のものだった。
「和臣も協力してくれるの?」
普段は憎まれ口ばかり叩いている弟が……、感激した紫乃の表情が柔らかくなる。
とはいえ、和臣から、この書類をもらうわけにはいかないと、紫乃は思った。和臣は、本妻の息子であり、父が決めた六条家の跡取りなのだ。彼に、父と、いずれ自分が引き継ぐことになる会社を裏切るようなことをさせてはいけない。
紫乃は、和臣から渡された書類を押し返した。
「ありがとう。和臣の気持ちは、とても嬉しい。でもね、今からしようしていることは、本当に、わたくしの我侭ですることなの。 和臣は関わっちゃダメ。気持ちだけ受け取っておくわ」
「そんな格好のいいことを言っている場合じゃないよね?」
和臣が呆れた顔をする。「いいの? 姉さんがお母さんたちから預かった分だけでは足りないよ」
「え? そんな馬鹿な?!」
紫乃の声が跳ね上がった。
「本当だよ」
うろたえる紫乃を見ながら、和臣がうなずく。「姉さんが弘晃さんにフラれてメソメソしている間に、父さんが全体量を増やしたんだ。そんなことも確認しないで、こんなことをしたら、中村の社員に馬鹿にされるだけ。だから、『色ボケ』だって言ったんだ」
「そうだったの……知らなかった」
紫乃はうなだれた。 和臣のへらず口に返す言葉が見つからなかった。
「それで、あの、和臣? カッコイイ前言は撤回して、迷惑かけても、いい?」
返そうとしていた書類を胸元に引き寄せると、紫乃は、期待するように和臣を見た。
「僕の分を含めて、ようやく半分とちょっとだから、それがないと困るでしょう?」
ねだるように小首を傾げる紫乃に、和臣がニヤリと笑った。
「ありがとう。でもね。この書類は見せるだけにするから。絶対に使ったりしないから!!」
ホッとしながら書類を胸に抱き、紫乃は約束した。「お父さまと弘晃さんが話し合えるようになるまで預からせてくれれば、それでいいの。後は葛笠さんが上手くやってくれるはずだから……」
「なるほど、姉さんに妙な知恵をつけたのは葛笠だったんだ?」
「……」
まずい…… 紫乃は慌てて口をつぐむと下を向いた。
「この計画の発案も、彼?」
「いいえ。葛笠さんは、わたくしが弘晃さんのところに戻ってしまえば、後はどうでもするって、仄めかしてくれたってだけで……」
今更遅いような気もするが、紫乃は葛笠を庇った。
「そうだよねえ。葛笠の考えにしては、あまりにも大雑把だ。でも、葛笠が承知しているのなら問題ないかな」
和臣が、初めて安心したような笑みを見せた。
「でも、本当にいいの? もしも、和臣まで、お父さまのお怒りを買うことになったら……」
心配そうにたずねる紫乃に、「父さんのことは、心配ないよ」と、和臣が笑った。
「父さんは、これで姉さんが幸せになれると思えば、喜んで目を瞑ってくれるんじゃないかな」
「なに言っているのよ? あの、お父さまが、家族の幸せなんか考えてくれる訳がないじゃない」
「それは昔の話だよ」
変に楽観的な態度を見せる和臣を紫乃がせせら笑うと、彼はムッとしたように口角を下げた。
「今の父さんなら、家族を守るためなら、どんな馬鹿なことだってすると思う」
「まさか」
「なにが、『まさか』なのさ? 姉さんは、昔の父さんのことを忘れたの?」
「忘れたもなにも、わたくしは、あなたと違って、六条家に行くまでは、お父さまに会うことなんて、めったになかったわよ。せいぜい2ヶ月に1度。それに、まるで……」
紫乃の声が途切れた。紫乃の記憶の中に、今の底抜けに陽気で幸せそうな父とは、別の顔をした父がいた。
父が紫乃にとても優しかったことは、昔から変っていない。だが、父が紫乃や母に接する態度は、今と比べると、ずっとよそよそしく、幼かった紫乃は、彼の見せる笑顔に、どことなく嘘臭いものを感じていた。まるで、紫乃という子供まで成した以上は無責任に綾女と縁を切るわけにもいかず、定期的に彼女たちに顔を見せに来ることが自分の義務だと思っているかのような……
「……」
「そっちに行っている時には、あの人は、少しは笑ってた?」
黙り込んでしまった紫乃に、和臣がたずねた。
「母さんが死んで、別宅の奥さんっていう人が娘を連れてやってきたとき、僕は、『ああ、やっぱり』と思った。父さんにだって、息抜きが必要だ。あの頃の家に父さんの居場所はなかった。母さんは、父さんを憎んでいた。同じ空気を吸うことさえイヤだったみたいだ。どうしてだかは、僕も知らない。母は、父さんの血が流れている僕のことも憎んでいたみたいだから、いつも放っておかれた」
「ごめんなさい。それは、きっと、私たちが……私と母がいたからよね?」
「いいや、最初から夫婦仲は冷え切っていたみたいだよ。母に拒絶されなかったら、父が外に女を囲うこともなかったって、母の婆やが何度も愚痴っているのを聞いた」
淡々と語る和臣の告白を聞いているだけで、紫乃は息苦しさを覚えた。
「そんな話、初めて聞いたわ」
「うん。僕も初めて話した」
和臣が弱々しく笑う。
「6人のお母さんが家に押しかけてきたときには、今まで以上に酷いことになるって覚悟したよ。だけど、そうはならなかった。姉さんは、とっとと僕や妹たちを手なずけちゃうし、お母さんたちのほうは、綾女お母さんが中心になって、同じ屋根の下で父さんの取り合いをしないで仲良く暮らしていけるようにルールを作った。父さんが変ったのは、その後だ。毎日アホみたいに笑っているし、どこか壊れているんじゃないかってほど陽気だし、家の外に女の影が無くなったし、時間が許す限り家に……皆の傍にいようとする。妻や子供たちが可愛くってしかたがなくて、毎日のように大盤振る舞いで愛を囁きまくっている」
「そうね」
和臣の言葉に、くすくす笑いながら紫乃は同意した。まったく、その通りだ。
「皆で一緒に暮らすようになってから、一番変ったのは、父さんだよ。僕もそうだけど、父さんは、今が一番幸せだと思っているのだと思う。6人の妻に7人の子供なんて、他所様から見たら、いびつで不自然な家族だと思うけど、父さんにとっては、すっかり諦めかけていた頃に、思いがけず手に入った本当に安らげる場所……家庭なんだと思う。そして、いびつな家族だからこそ、家長である自分が何が何でも守らないといけない。父さんは、そう思っているんじゃないかな。特に姉さんは…… 姉さんがいなかったら、たぶん、うちはまとまってなかったと思うから、父さんは、父親として、まず姉さんを、ちゃんと幸せにしようと思っているばす。だから、姉さんを幸せにするためなら、今の父さんは、会社でも社長の地位でも、自分から喜んで捨てちゃうんじゃないかと思う」
「……そう、かしら?」
紫乃は言った。
もしかしたら、和臣の言うとおりかもしれない。 でも、まだ信じきれない。
「それにね。父さん、実は、かなり後悔していると思うんだよね」
和臣が腕を組んだ。
「後悔?」
紫乃が眉をひそめる。
「うん、ムキになって中村物産を潰そうとしたことを。ちょっと脅しを掛けて、姉さんをフッた弘晃さんを、ちょっとばかり懲らしめてやる。最初は、その程度の気持ちだったと思うよ。それなのに、弘晃さんたちが全然根を上げようとしないから、引くに引けなくなったってだけなんじゃないかな」
「お父さまには、中村物産を乗っ取る気がないっていうの?」
困惑しながらたずねる紫乃に、「ないない」と、和臣が笑いながら手を振った。
「そりゃあ、先代のせいで経営体力が落ちている中村物産を手に入れるのは簡単かもしれない。だけど、そんなことして、その後、どうするのさ?」
「どうするって?」
体力が落ちていても、中村物産は、父がこれまで手に入れようとしてきた会社の中では、1番の大企業である。手に入れることができれば、父の会社は、その分大きくなる。父としては、当然、嬉しいのではないだろうか。
不思議そうな顔をしている紫乃を見て、和臣が困ったような顔をした。
「……姉さん。あなた、弘晃さんが大好きってだけで、自分がどういうところのどういう人の嫁になろうとしているか、実は、きちんと理解していないのでは?」
「え?」
困惑しているところに、和臣から疑いの眼差しを向けられて、紫乃はうろたえた。
「わ、わかっているわよ。わかっていますとも!」
「いいや、その顔は、絶対にわかっていない」
和臣が決め付けた。
「まったく…… こんなんで嫁に行って、本当に大丈夫なんだろうか?」
和臣が額に手を当てた。
「失礼ね! わたくしのどこがわかっていないって……」
「説明してあげたいところだけど、時間切れだね」
文句を言っている紫乃から顔を逸らし、和臣が窓の外に目を向けると同時に、車が止まった。
「まあ、弘晃さんの傍にいるうちに、姉さんにも僕が言ったことの意味がわかると思うよ」
謎めいたことを言いながら紫乃に微笑みかけると、和臣は、彼女の先に立って病院に入っていった。




