65.最初の花嫁のために
妹たちの協力は得られたものの、彼女たちの母親たちは、たいそう手ごわかった。
「ダメ~っ!! まったく歯が立たないわ」
紫乃の頼みを受けて自分たちの部屋に引き上げっていった妹たちは、ことごとく、それぞれの母親の説得に失敗して戻ってきた。紫乃が、各部屋を訪ねて熱心に頭を下げてみたものの、やはり無駄だった。妹たちの母親は、恋敵の娘のなんぞのために指一本動かすつもりもないらしい。
「おかしいわねえ。あなたたち、どんな頼みかたをしたの?」
打ちひしがれて部屋に戻ってきた娘たちを見て、朽ち葉色の着物を身につけた紫乃の母親の綾女が不思議そうな顔をする。ちなみに、彼女は、紫乃の話をろくに聞かないうちに二つ返事で彼女の頼みを引き受け、必要な書類を書きしたためているところであった。
「いいわ。今度は、わたくしから皆さまにお願いしてみましょう」
出来上がった書面に判を押してから満足げに読み返し、それをありきたりな白くて細長い封筒に納めると、綾女は、するりと椅子から立ち上がった。
「お母さま。 無理ですよ」
戸口に向かう綾女を、慌てて紫乃が引き止める。日頃、表面的には穏やかに付き合っているようでも、彼女たちは父の愛情を奪い合うライバル同士なのだ。綾女の頼みごとを聞いてくれるどころか、互いが互いに感じている悪感情を刺激しかねない。
「あら、大丈夫よ」
紫乃の心配をよそに、綾女は口元に品の良い笑みを浮かべた。
「たぶん、あなたたちのお話の仕方がいけなかっただけ。わかるように話せば、皆さまも喜んで協力してくださるに違いないと思うの」
「『喜んで???』」
紫乃だけでなく妹たちも、自分の耳を疑いながら、綾女をまじまじと見つめた。『綾女お母さま。その自信は、いったい何処から湧いて出ているんですか?』と、皆の目が一様に語っていた。
紫乃はといえば、常とは違う様子の自分の母に、非常に困惑していた。いつもなら、紫乃が何をするにしても小言のひとつも言わずにはいられない性格をしている彼女が、今日は積極的に紫乃に協力してくれている。しかも、今日の彼女は、変に浮かれているようにも見えた。
綾女の異常行動は、更に続く。
「一人ひとりに同じお話をするのも面倒だから、お母さまたちを此処に呼んできてくだる?」
綾女が、妹たちに命じた。
(お母さま。ひとりずつでも大変なのに、呼びつけた挙句、まとめていっぺんに説得ですか?)
青ざめている紫乃に向かって、綾女は自信たっぷりに「大丈夫よ」と微笑んだ。
絶対に大丈夫なんかじゃない。
紫乃は、修羅場を覚悟した。
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それから10分後には、妹たちに無理矢理連れてこられた5人の母親たちの不機嫌だけども美しい顔が、紫乃の前に勢ぞろいしていた。
「来てやったわよ。用件は何なの?」
「それがねえ。うちの紫乃が、なにがなんでも、この人のお嫁さんになりたいという人に出会ってしまいましたの。だけども、源一郎さんのせいで、ちょっとこじれてしまいましてね。それで、是非とも皆さまのお力をお借りしたいと思いましたの」
険悪な表情を浮かべた女たちに向かって、綾女がニコニコしながら言ったのは、ただそれだけだった。頭を下げることさえしない。
(お母さまっ! それのどこが、上手な説得だっていうんですか?!)
紫乃だけではなく、その場にいた娘たちの全員が、心の中で綾女を罵倒した。
だが、紫乃が驚いたことに、綾女の言葉を聞いた途端に、妻たちの顔が一様に和んだ。
「お安い御用ですわ。 私にできることなら、なんでもお申し付けくださいな」
いつものようにレースで全身を飾り立てた橘乃の母が1歩前に進み出た。他の母たちも笑顔でうなずいた。
「それで? 私たちは何をすればよろしいの?」
「簡単ですわ。これと同じ書類を作っていただきたいの」
「まあ? たった、それだけでよろしいの?」
女たちが、先に綾女が書いた書類の周りに群がった。どういう心境の変化だか知らないが、全員やる気満々のようである。
「な、なんで? さっき私が話した時には、鼻も引っ掛けてくれそうになかったのに」
「あら? だって、あなた、さっきは、そんな話はしなかったじゃない?」
呆気にとられながら抗議する明子に、その母親が言った。「『中村物産がどうのこうの』とか? 『会社の乗っ取りがなんとかかんとか』とか?」
「そういう難しいことは、私は全て源一郎さんにお任せしているの。口出ししても、源一郎さんのお邪魔になるだけでしょう?」
紅子の母が、お日さまのような無邪気な笑みを見せた。
「でも……」
「あなたたち。どうして、プライドの塊みたいな綾女さまや私たちが恥を忍んでここにいるのか、実は、わかっていないでしょう?」
納得しきれない表情の娘たちを見て、明子の母が憂鬱そうにため息をついた。
「『なぜ、ここにいるのか』?」
「そうよ。世間から『愛人』と後ろ指をさされても、他の人生を選んでいたら、それなりの幸せは得られただろうってわかっていても、あの人が更生不可能なドンファンだってわかっていても、自分以外に何人も女がいて、しかも、彼女たちの間にも娘がいるってもわかっても。本当に、自分でも馬鹿みたいだと思うわよ」
月子の母が、心底自分に呆れているような口調で言った。
「馬鹿だとわかってても、他の奥さんたちと角を突き合わせながら、ここに……源一郎さんの傍に居続けている理由。紫乃さん? 今のあなたなら、もうわかるわね?」
橘乃の母が紫乃の頬を両手で挟みながら微笑みかけた。
「あ、はい」
紫乃は、小さくうなずいた。
わかってしまった。
どうしようのない男でも
世間から非難の目で見られても
他に、もっと、条件のよい結婚話があっても、ここにいたい理由なんて、ひとつしかない。
どうしても、あの人がいいから
あの人でなければ、イヤだから
プライドをつけられたとか、他の女に負けるわけにはいかないとか、そんなことは、たぶん二の次なのだろう。
この女たちは、ただ父が…… 源一郎が好きでしかたがないだけ。
源一郎が本気で自分を拒否しない限り、彼の傍にいたいだけ。
ここにいる女たちは、今の紫乃の気持ちを、痛いほどわかっているのだ。
なぜならば、自分も抱えたことのある痛みだから。
だからこそ、綾女の簡潔極まりない説得の言葉だけで納得し、紫乃に協力しようとしてくれている。
(なんだ、本当に、だだ、それだけのことだったんだ)
ずっと紫乃の心に引っかかっていた疑問が、今になって、ストンと腑に落ちてしまった。
「これで、紫乃ちゃんも、私たち馬鹿女の仲間入りね。おめでとう」
ようやく手に入れた答えのあまりの単純さに半ば呆然としている紫乃を見て、橘乃の母が楽しそうに微笑み、「そういうことなら。あなたたち!」と、紫乃の後ろでぼんやりとした顔をしている妹たちを急き立てるように手を叩いた。
「いつまでも、ぼやっとしてないの! お母さまたちが書類を準備している間に、あなたたちは、この お姉さんを何とかしておやりなさい。正式なお式は後でするにしても、紫乃ちゃんは、これから家を出て、弘晃さんのところにお嫁さんになりに行くのでしょう? この家の最初の花嫁を普段着みたいな格好で送り出してしまってもいいの?」
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花嫁と言っても、行き先が病院であるため、派手に自分を飾りたてるようなことはなしにした。
「ウェディングドレスといえば白だけど、場所が病院では、白衣の天使の看護婦さんに負けるわよね?」
「サテンは? 派手すぎる?」
「ミニスカートはだめよ。軽く見られるから」
あれこれ言いながら、紫乃のクローゼットを物色して妹たちが見つけてきたのは、ラベンダーがかったペールブルーの袖の短いワンピースに七部袖のレースのボレロ。
「ボレロはレース。絶対にレースよ!!」
そう橘乃が言い張ったのは、花嫁が被るベールのせめてもの代わりということであるらしい。
とりあえずワンピースだけを身につけると、明子が紫乃を鏡台の前まで引っ張って行き、口元にピンを加えながらドライヤーで彼女の髪を整え始めた。
「毛先だけ、ちょこっとカールさせて…… ベールがないから、髪は、きっちりまとめてしまわないほうがいいわよね」
紫乃の意向を確かめるでもなく呟くと、明子は、紫乃の髪の一部を細いリボンと共に編み込みにし、顔に薄化粧を施した。
紫乃が明子にいじられている間、橘乃と夕紀は、紫乃が持って行く着替えを片っ端からトランクに詰め込んでいた。
「足りないものがあったら、電話してね。学校に行くついでに中村さんのお家に届けるから」
クローゼットから、橘乃が叫んだ。
日用品の荷造りは月子の担当。
「ねえ、紅子姉さまも、サボってないで手伝ってよ」
「サボってなんかいないわ。私は、とても大事な仕事しているの」
不満げな月子に、紅子が大真面目に言い返す。紫乃が覗いている鏡に映り込んだ紅子は、こちらに背を向けて机に向かっていた。何かを作っている。そんなふうに見える。「そんなもの、何になるっていうのよ?」と、紅子の手元を除きこんだ月子が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
それから10分ほど後、紅子は、「でーきた!」と、嬉しそうな声を上げると同時に立ち上がると、「はい。この子も連れて行ってあげてね」と、手にしていた物を紫乃の膝に置いた。
それは、以前、紫乃が作ったてるてる坊主だった。
弘晃と別れてから天気の心配をする必要がなくなった紫乃がゴミ箱に捨てたにも関わらず、いつの間にか、誰かに拾われ補修されて、紫乃の部屋の窓辺に戻されていたものだ。
作ってから随分経っているので、全体的にだいぶくたびれてきているものの、目も頬紅も描き直され、洋菓子店のロゴの入ったリボンはブルーのサテンのリボンに取り替えられて、すっかりキレイにされていた。このてるてる坊主も花嫁に見立てたつもりなのか、ブーケの代わりに胴体には細いリボンヤーンで赤いバラの刺繍が施され、頭にはチュールを細いレースで飾ったベールが縫い付けられていた。
「紅子が拾ったのね?」
「うん。キレイにしてあげて『もう一度、姉さまを弘晃さんに会わせてあげて』って、この子にお願いしたの。そうしたら、ご利益あったでしょう? だから、これからも紫乃姉さまを助けてくれるように、お守り。姉さまと弘晃さんが、ずっと仲良く一緒に暮らせますように」
紅子が、てるてる坊主に言い聞かせるように、その頭を撫でた。なるほど、この子のほうが、オババさまのお祈りなんかよりも、ずっと効き目がありそうだ、と紫乃は思った。
「ありがとう。 これからは大事にするわ」
『よろしくね』と言うように、紫乃は、てるてる坊主に笑いかけた。
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「みんな、ありがとう。でも、あのね。謝らなくてはいけないことがあるの」
荷造りも紫乃の支度も全て整い、後は母親たちの書類を待つだけになってから、紫乃は、妹たちに言った。
「中村物産って、弘晃さんのおじいさまの時代にいろいろあったし、弘晃さんも、ほとんど表に出ない人だから、謎めいているというより悪い噂が沢山あるの。だから、わたくしが、弘晃さんのところに行くことで、あなたたちも、いろいろと言われてしまうかもしれないし、あなたたちの縁談にも支障が出るかもしれないし、お嫁に行った先でも肩身の狭い思いをさせてしまうかも……」
「いやだ、お姉さま。 そんなことを気にしてるの?」
ごちゃごちゃ言っている紫乃を、明子が笑い飛ばした。
「私たちは、何を言われたって気にしませんわ。意地悪されるのには、それなりに慣れているもの」
ねえ? ……と、同意を求めるように明子が妹たちに笑いかけた。
「え? あなたたち、いじめられていたの?」
「どれだけ目を光らせてくれていても、学校の中には、姉さまの目が届かないところなんて、いくらでもあるもの」
驚く紫乃を見て、月子が、おかしそうに笑った。
「もちろん、紫乃姉さまがされたほどの酷いことはされてないわよ」
橘乃が微笑む。彼女たちは、紫乃がいじめられていたことも承知しているらしい。
「夕紀?」
紫乃は、妹たちの中で、一番内向的な娘に目を向けた。
夕紀は、小さな声で、『紅ちゃんが、いつも一緒だから……』と言った。
「知らなかった……」
紫乃は、ずっと自分が妹たちを守ってばかりいると思い込んでいた。
「もちろん、姉さまがいなかったら、きっと、もっといじめられていたと思うのよ」
夕紀の分まで頑張っていたらしい紅子が微笑む。「でも意地悪する人は、今では、ほんの一部。うちの学校では、肩身の狭い思いをするのは、いじめっ子のほうだから。姉さまが、生徒会長として君臨していたおかげで、私たちに限らず、理不尽な理由でいじめられる人は、ほとんどいないもの」
「わたくしに話してくれればよかったのに」
「確かに、姉さまに告げ口して守ってもらうほうが、私たちは楽だったと思うわ。でも、いじめられなくなる一番の近道は自分が強くなることだって、身をもって教えてくれたのは、お姉さまよ。わたしたちは、お姉さまを見習っただけ」
明子の言葉に、全員がしっかりとうなずいた。
「私たちは、紫乃姉さまには敵わないかもしれないけど、けっこう強いわよ。だから、姉さまのせいでいじめられることになっても、心配しなくてもいいから」
「今度は、私たちが、紫乃姉さまを守ってあげる。紫乃姉さまを悪くいう人は、私たちが、とっちめてあげるから」
「だから、安心して好きな人のところに行っていいわよ」
妹たちが口々に紫乃を励ましながら、紫乃を玄関先まで送ってくれた。
玄関では、いつも学校の送迎に使われている黒いリムジンと運転手、そして、スーツを着た弟の和臣が待っていた。




