64.いつか後悔しても
「お父さまにダメージを与える?」
紫乃から相談内容を聞かされた紅子と夕紀は、何か含むところがあるかのように顔を見合わせた。
「どうかしたの?」
「お父さまだったら、もう充分にダメージを受けていると思うの」
ふたりが家に帰ってきた時、源一郎は紫乃に叱られた腹いせに葛笠に酷く当り散らしていたのだと、紅子が言った。父に八つ当たりされた葛笠がいかに可哀想だったかは、紅子の後ろでうなずいている夕紀の表情が饒舌に物語っていた。
「……ということは、お父さまを脅かして直接何かさせるのは、やはり無理ね」
紫乃は、思案顔で呟いた。あまり父を苛めすぎると、葛笠ばかりか弘晃を始めとした中村物産の者たちまでもが、八つ当たりのとばっちりを受けかねない。
「お父さまには、なるべく気づかれないように、でも、中村の社員たちには、わたくしが六条の経営にまで口出しができると思い込ませる。例えば? そう、わたくしが、お父さまの行動を制限できるような、具体的な証拠を持っているとか。……とはいえ、具体的な証拠って、例えば何? 例えば、わたくしが父の会社が不正をしている証拠を握っているとか? だけど、わたくしが、そんなもの手に入れられる訳ないわよねえ」
ぶつぶつと独り言を言いながら、紫乃は、檻に入れられたノイローゼの熊のように部屋の中を何度も行ったり来たりした。
紫乃が部屋の端から端まで50往復した頃、末の妹の月子が、紅子たちに学校に置いていかれたことを詰りながら、紫乃の部屋に入ってきた。(ちなみに、月子が家に帰ってきた時の源一郎は、ちょうど出かけるところで、運転手(♂)に当り散らしていたそうだ)
紅子が、紫乃が部屋中をうろつきまわるまでに至った経緯を、掻い摘んで月子に説明した。
「それって、姉さまが家を捨てて、弘晃さんの押しかけ女房になってしまえばいいだけじゃないの?」
月子が、悩んでいる理由がわからないと言わんばかりの口調でたずねた。
「ビジネスのことでは情け容赦がないといわれている六条社長でも、さすがに娘可愛さに手加減してくれるに違いない……って、向こうは期待してくれるだろうし、お姉さまに出て行かれたら、お父さまは、確実に再起不能になると思う」
「その手は昨晩使ったけど、あまり効果はなかったわ」
紫乃が、片手を振りながら、そっけなく言い返した。
「中村の社員には、もっと効果がないでしょうね。もしかしたら、彼らは、わたくしのことを、父親に愛されていない娘だと思っているかもしれないし……」
「そんなこと……!」
憤慨した夕紀が、珍しく声を上げたが、月子は、「なるほど、そうかもね」と、冷静にうなずいた。
「内情を知らない他所の者からしてみれば、紫乃姉さまは、6人いる愛人の娘の1人にしかすぎないものね。お父さまにとって、6人の愛人は、ただの欲望のはけ口。娘はただの副産物。六条社長に娘を可愛く想う気持ちがあるのなら、そもそも、怪しげな噂にまみれただけでなく、いるんだかいないんだかさえわかっていなかったような中村の御曹司に近づけさせるはずもない。六条社長にとって、娘は中村物産を手に入れるための駒にすぎない。そんなふうに思われていたら、紫乃姉さまに人質としての価値はないでしょうね」
月子が、紫乃が考えなかったところまで分析してみせた。
「ひとりの男に6人の妻。単純に計算すれば、私たちが父親から受ける愛情は、普通の家庭の6分の1ってことになる。それとも、妻と娘で12人だから、12分の1かしら? 本妻の息子で、跡取り息子の和臣兄さまの存在を考慮に入れると、もっと少ない?」
「本当のお父さまは、お母さまたちにも、私たちにも、たっぷり愛情を注いでいるのにね。世間は、そうは思ってくれないんだろうな」
残念そうに言いながら紅子が天井を仰ぐと、夕紀もうなだれながら深くため息をついた。
「そうなのよね~。12分の1どころか、お父さまは、わたくしたちにも、人並み以上に分け隔てなく平等に……」
部屋を往復しながら、上の空で相槌を打っていた紫乃の足が止まった。
振り返り、壁の時計を見上げる。
「分け隔てなく、12分の1ずつ……」
12の数字によって均等に分割されている文字盤を見つめながら紫乃が呟いた。
(そうよ。これなら、うまくいくかもしれない)
……と喜んだのもつかの間、紫乃は、アッサリとその考えを捨てた。うまくいくかもしれないが、絶対に不可能だと思ったからだ。なぜなら、それを実行するためには、母も含めた父の6人の妻全員に協力してもらわなくてはならない。父をめぐってライバル同士の母たちが、紫乃のために力を合わせて協力してくれるなど、あり得るはずがなかった。
「お姉さま? どうしたの?」
がっかりするあまりに、うなだれるどころか、しゃがみこんで膝を抱えてしまった紫乃に、妹たちが問いかけた。
「いま、名案を思いついたと思ったんだけど……」
「え? どんな?」
「いいの。どうせ絶対に無理だから」
紫乃が話すのを渋っていると、今度は、紫乃のすぐ下の妹たち……次女の明子と三女の橘乃が、彼女の部屋に入ってきた。彼女たちは淡い色の花を集めた大きな花束を手にしていた。学校の帰りに病院に弘晃の見舞いに行くつもりだったのだと、ふたりは言った。 だが、病室の外には、怖い顔をしたスーツ姿の男たちが何人もいたし、面会謝絶の札が掛かっていたので、諦めて帰ってきたのだという。
「面会謝絶……」
紫乃は、そう呟くと、思い切ったように顔を上げ、妹たちを見回した。
もう、悩んでいられる余裕などない。ダメでもともとだ。頼むだけ頼んでみよう。
「あなたたちに……、いえ、あなたたちのお母さまに、協力してもらいたいことがあるの」
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「ええ~~っっ!! そんなの絶対に無理よ~っ!」
紫乃の頼み事を聞かされた妹たちは、一斉に声を上げた。
「そこを何とかお願いしますっ!!」
紫乃は、妹たちに向かって両手を合わせた。
「どうか、あなたたちのお母さまたちに話すだけでも話してもらえないかしら」
「でも、お姉さま。仮に、それができたとして、後で大変なことになったりはしませんか?」
「それは、大丈夫! 絶対に迷惑はかけないから!」
心配そうな明子に、力一杯に紫乃が保証する。
それでも妹たちは、まだ気乗りしないようすだった。
しばらくためらった後、「わかったわ。うちのお母さまに話すだけ話してみる」と言ってくれたのは橘乃だった。
「紫乃姉さまは、3カ月前に弘晃さんとお別れしてからずっと、毎日彼からの電話を待っていたものね? ベルが鳴るたびに、お部屋から飛び出してきた」
紫乃の居室にも電話は敷かれているが、玄関ホールには、この家の代表電話があった。
「それだけじゃないわ。毎日、大学が終わったとたんに、お友達の誘いを振り切って真っ直ぐに家に帰ってきてた。もしかしたら、弘晃さんが予告なしに訪ねてくるかもしれないから。土曜日も日曜日も、なぜか家から出ようとしないの」
比較的帰宅時間が早い中学生の紅子と夕紀が顔を見合わせて、クスクスと笑う。
「でも、いいの? 弘晃さんは、ひどく体が弱いのでしょう? そんな人と結婚したら、嬉しいことよりも辛くて苦しいことのほうがずっと多いかもしれない」
「それでも。どうしても」
心配性の明子に紫乃は微笑んでみせた。
「お姉さまさえその気になれば、もっとずっといい人が……」
「もっとずっと良い人って、なに?」
紫乃がムッとする。
「体が弱くたって、弘晃さんは、すごい人なんだから。学校に行けなくても、ひとりで頑張って勉強して、会社のことだって……」
「はいはい、そんなに熱く語ってくれなくてもいいから」
ムキになって弘晃を庇おうとする紫乃を、彼女よりもずっと年下の月子がなだめた。
最後の質問は、月子からだった。
「弘晃さんのお嫁さんになっても、お姉さまは絶対に後悔しないのね?」
「……。そんなこと、わからないわ」
紫乃は、正直に答えた。
いつか、彼を選んだことを心から後悔する日が来るかもしれない。
そこまでは、紫乃も何度も考えた。というよりも、昨日から弘晃に何度も考えさせられた。
まだまだ考え足りていないと、弘晃なら言うかもしれない。
けれど……
「でも、後悔することになってもかまわない。そう思っているわ。そう思えるぐらい、あの人が好き。あの人じゃなきゃ嫌なの」
紫乃は微笑んだ。迷いなど、微塵もなかった。
「そういうのを、『後悔しない』って言うのだと思うけど?」
月子が苦笑しながら、他の妹たちを振り返った。
「では、紫乃姉さまのために、お母たちを頑張って説得するとしますか?」
妹たちが、ニコニコしながら大きくうなずいた。




