63.愛情か野心か?
「し、紫乃、あのね……」
「わたくし、当分、お父さまと口を聞きたくはありません」
タクシーを降りた紫乃は、言い訳をしたそうな父源一郎の横をすり抜けると、自分の部屋へ足を向けた。
平日の昼間なので、弟も妹たちも、まだ学校から帰ってきていない。
背後から源一郎がひとりで慌てて追いかけてくる気配を感じて、紫乃は歩く速度を速めた。それに応じて、源一郎も早足になる。紫乃の居室のある3階に彼らが到達する頃には、ふたりとも、ほぼ全速力で走っていた。
紫乃が父親を振り切って部屋に飛び込もうとした直前、彼女の部屋の扉が勝手に外側に開き、中から紫乃の母親の綾女が顔を覗かせた。
そういえば、昨夜、紫乃は、母に何の断りもいれずに、勝手に病院に泊まりこんでしまったのだった。 事情があるとはいえ、初めての無断外泊だ。母は、どの程度まで事情を知っているのだろう? 心配させてしまった? それとも、怒っているのだろうか? そんな戸惑いから走るのをやめた紫乃の手を、父が捕まえた。
「離してよ!! お父さまなんか、大っ嫌いっ!!」
手を振りほどこうと振り返り、源一郎の顔を見た途端、紫乃は衝動的に彼に向かって怒りをぶつけていた。
「知っていたのでしょう?」
紫乃は、父を睨みつけた。
「弘晃さんの体がとても弱いことを、お父さまは知っていらしたのでしょう? そのことを気にしている弘晃さんが最終的に縁談を断るだろうって、お父さまは最初から見越していらした。だから、破談になったとたんに、それを口実にして、弘晃さんの会社を潰しにかかったのね? 初めから、あの会社を手に入れることだけが目的だったのでしょう?!」
「違う。紫乃、それは……」
「弘晃さんに、もしものことがあったら、わたくし、お父さまを一生許さない」
源一郎に言い訳する暇を与えずに、紫乃は冷たく言い放った。紫乃に激しく怒りをぶつけられて動揺しているのか、源一郎が手を緩めた。その隙に、彼女は自分の部屋に滑り込むと、真っ直ぐにベッドに向かい、そのまま突っ伏した。
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ほどなくして、誰かが、部屋の中に入ってくる気配がした。母だ。
「わたくし、謝らないから」
諌められると思った紫乃は、機先を制して母に言った。
「かまわないんじゃないかしら?」
意外なほどアッサリと母が答えた。
「弘晃さんのお加減は?」
「……。今は、かなり落ち着いているわ」
「そう。良かったこと」
紫乃の傍に腰を下ろした母が、優しく彼女の髪に触れる。
「昨夜、葛笠さんから、だいたいのところは聞き出したわ。大変だったわね。お父さまにも困ったこと」
「……。でも、悪いのは、お父さまだけではないわ。わたくしも、いけなかったの。弘晃さんのこと、勝手に誤解して、信じてあげなかったから」
枕に顔を押し付けたまま、紫乃は、くぐもった声を出した。
「そう? それじゃあ、お互いさまね?」
母が笑った。
「中村の奥さまも、同じようなことを言って謝っていらしたから」
「おかあさまが?」
「ええ、今朝方、わたくしにお電話をくださったの」
驚いた紫乃が顔を上げると、母が彼女の頬に手を添えた。彼女は、紫乃の目を見ながら、弘晃の母が話してくれたことを、ゆっくり丁寧に話し始めた。
「『うちの息子が、お宅のお嬢さまを騙すようにしてお付き合いをさせていただいていたこと、お詫びのしようもございません。それどころか、本当のことを打ち明けたことで、さらに重たいものを背負わせてしまったようです。紫乃さんは、とても優しくて責任感も強い子だから、もしかしたら息子への同情心から、一生息子の面倒を見なくては……と思い詰めていらっしゃるかもしれません。お母さまの目から見て紫乃さんが無理をしているように思われましたら、どうぞ、この結婚を考え直すように、紫乃さんにおっしゃってください。うちのほうは、紫乃さんとお知り合いになれただけで、もう充分なほどでございますから』 ですって」
「おかあさまが、そんなことを?」
紫乃は顔を和ませた。
おかあさまったら、弘晃さんと同じようなこと言っている。
「中村の奥さまって、とても良い方ね。こちらが申し訳なくなるぐらいに、紫乃のことを誉めてくださったわ。お嫁に行ってから、『こんなはずじゃなかった』と、がっかりするようだったら、さっさと送り返してくれるように、先にお願いしておけばよかったかしら?」
うっかりしていたわ……と、母が悔やしそうな顔をする。
「お母さま……」
紫乃は、恨めしげに母を見た。
「それで? あなたは、本当に弘晃さんでいいの?」
母が、真面目な顔になって紫乃にたずねた。
「弘晃さんが、いいの。弘晃さんじゃなきゃイヤなの」
紫乃は、母の目を見て訴えた。
「そう。じゃあ、そうしたらいいわ」
母が、ニッコリと笑った。それから、母は、紫乃の着ているドレスに冷ややかな視線を投げると、「お風呂を沸かしてもらったから、その大層なドレスを脱いで、入ってらっしゃい」と、彼女に命じた。
「あの、お母さま? それだけ?」
もっと、面倒くさいことを母からは言われるだろうと覚悟していた紫乃は、いささか拍子抜けしながら、箪笥を覗いて彼女の着替えを用意してくれている母にたずねた。
「『それだけ』って? ああ、そうだ。お風呂からあがったら、いったん寝なさいね。いつまた病院から呼び出されるのか、わからないのでしょう? それから、濡れた髪のままで寝たらダメよ、ちゃんと乾かしてね」
「だから、そういうことではなく。反対とか、しないの?」
「あら? なあぜ?」
母は、振り返ると、細く形の良い眉をひそめた。
「あなたが弘晃さんがいいと思うのならば、それでいいのではないかしら? とはいえ、紫乃に、ここまで気に入られるなんて、さすがに、お父さまが見込んだ男性だけのことはあるわねぇ」
母が変なところで父を持ち上げる。それが面白くなくて、紫乃は口を尖らせた。
「お父さまは関係ないわ」
「あら? そんなことはないわよ。お父さまが見つけてこなかったら、あなたは、絶対に弘晃さんには会えなかった。その功績だけは、認めておあげなさい」
「だって、それは結果論だわ。お父さまが欲しいのは中村物産で……」
「それこそ結果論というものよ」
母が、コロコロと笑う。
「源一郎さんが、必死になって探していたのは、大事な大事な紫乃を託すに相応しい、紫乃を必ず幸せにしてくれる、そして、紫乃の好みに合うような、紫乃が信頼し尊敬し愛せるだろう男性。それが、たまたま体が弱い中村財閥の御曹司だっただけよ」
「そんなこと、信じられないわっ! だって、お父さまは、格式とか旧家とかが大好きじゃない? お母さまだって、中村財閥って聞いて喜んでいらしたでしょう?」
「だから、それも結果論でしょう?」
ムキになって反論する紫乃を見て、さも可笑しそうに母が笑った。
「だって中村財閥よ? 嬉しくないわけがないでしょう?」
「でも……」
納得できない紫乃に、「家柄とか、格式とか。そういう、ある意味どうでもよいものに一番こだわっていたのは、実は、あなた本人なのではないの?」と、母が痛いところをついてきた。
紫乃が反論できずにいると、「とにかく、さっさとお風呂に入ってらっしゃい」と、母が有無を言わさぬ口調で彼女に着替えを押し付けた。なにやら上手に言い包められたような気がしないでもないものの、紫乃は、母に言われたとおりにした。
風呂から上がると、急激に眠気が襲ってきた。
「髪、乾かさなきゃ……、でも、ちょっとだけ……」
濡れた髪にタオルを巻きつけたまま、言い訳しながらベッドに横になった紫乃は、あっという間に眠りに落ちた。
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紫乃が目を覚ました時、まだ窓の外は明るかった。
(まだ昼? ……じゃなくて、ひょっとして翌日の朝だったりして?!)
「あら? もう起きてらしたの? 」
ベッドに半身を起こした紫乃が人知れずオタオタしているところに、4女の紅子と5女の夕紀が入ってきた。中等部の夏の制服に学校指定の校章入りの薄手の水色のカーディガン。どうやら、彼女たちは、玄関から真っ直ぐに、この部屋に立ち寄ることにしたようだ。
「あのね」
紅子が、両手を後ろに隠したまま、ニコニコしながら、紫乃が寝ているベッドに近づいた。長く真っ直ぐな黒髪の夕紀とは対照的に、肩よりも短いおかっぱ髪の紅子の栗色の毛先が、歩くたびに頬の辺りでフワフワと揺れる。
「葛笠さんからの伝言です。『呼び出しがあったので、中村物産本社に行ってきます。詳しいことは帰ってから。今日中に戻れないようなら、10時半を目安に連絡を入れます』 ええと……3時、40分、でした」
紅子が壁の時計を確認しながら、示している時間よりも15分前の時刻を告げた。
「ありがとう」
湿っぽい髪に手櫛を通しながら、紫乃は言った。葛笠が出かけたということは、弘晃と社員たちの話し合いが無事に終わったということだろう。とりあえずホッとしながら、紫乃は、あらためて紅子たちを見た。
「そういえば…… あなたたち、今日は、ずいぶんと早いのね?」
「うん、初めは、これを届けようと思ってたのだけど……」
紅子と夕紀は顔を見合わせると、『お姉さまには、一本だけね』と言いながら、紅子が後ろ手に隠していたものを、紫乃に差し出した。
それは、四季咲きのバラの花だった。白い花弁のふちが、ほんのりとピンクに染まっている。同じ種類のバラが、学校の図書館の裏の庭にも植えられている。弘晃も、自宅にある蔵の窓から、この花を見たことがあるはずだ。
「昨日。葛笠さんが、弘晃さんは、随分前からお姉さまのことを知っていたようだって言っていたの。お姉さまは、前に、弘晃さんのお家が学校の裏だったって言ってらしたでしょう? そうしたら夕紀ちゃんが、図書館の裏の花壇で、弘晃さんはお姉さまを見初めたに違いないって言い出したの。だから、花壇のお花をお見舞いに持っていったら、弘晃さんも元気になるかしらと思ったんだけど……」
とはいえ、いきなり病院に押しかけるのはまずいかと思い、ふたりは、葛笠に相談しようと会社に電話した。すると、彼も紫乃も家に帰っていることがわかったので、運転手の迎えも待たずに慌てて学校から帰ってきたのだと、紅子が、ほとんど口をきかない夕紀の分まで説明した。「今、花壇で一番キレイに咲いていたのは、そのバラだったから、3本ほどとってきちゃった」 などど、紅子があっけらかんと告白できるのは、彼女が現在の中等部の園芸部の部長だからに他ならない。
そのバラと他の花や葉を合わせて花束にしたものは、弘晃に渡してもらえるように、ちょうど出かけるところだった葛笠に託した。紫乃への伝言は、その時に葛笠から預かったのだそうだ。
「それで? 将来のお義兄さまは、本当にあの花壇にいるお姉さまを見て恋に落ちたの?」
紅子が、まるで橘乃のような好奇心を見せた。夕紀も、何も言わないものの、興味津々といった眼差しで紫乃を見ていた。
「……そんなこと、どうでもいいでしょう?」
好奇心一杯の妹たちから顔を背けながら、紫乃は顔を赤らめた。
そういえば、葛笠は目が悪い代わりに耳の聴こえが非常に良かったのだった。きっと昨日のパーティーでの紫乃と弘晃との会話もしっかり聞こえていたに違いない。彼は、この好奇心の塊のような妹たちに、どこまで話してしまったのだろう?
「あ、そうだ。 葛笠さんがね。『宿題、頑張って考えてくださいね』って」
紫乃が悩んでいると、思い出したように紅子が伝言を追加した。
「ねえ? 『宿題』って、なあに?」
「それは……」
紫乃は、わずかに躊躇した後、妹たちに向き直った。
「あのね。できたら一緒に考えてほしいの」
3人寄ればなんとやら。なりふり構っていられる余裕もない。
紫乃は、思い切って、妹たちの知恵も借りることにした。




