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水面に映るは  作者: 風花てい(koharu)
水面に映るは・・・ 
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62.入れ知恵

 弘晃の病室を後にした紫乃は、正弘の先導で職員用の通用口から外に出ると、葛笠が回してきた黄色に赤いラインが入ったタクシーに乗り込んだ。フワフワと広がるスカートと格闘しながら無事に後部座席に収まると、紫乃は助手席に乗り込んだ葛笠に相談を持ちかけた。


 六条に対して怒りを感じている中村の社員たちの心を速やかに解すために、自分たちのほうからできることはないだろうか?


「それで、社長の土下座ですか?」

 すでに弘晃から却下された紫乃の案を聞いた葛笠は、具合が悪かった彼以上に青ざめた。


「お願いですから、それだけはやめてください。弘晃さんの心臓に悪いどころか、私の心臓が止まります」

「葛笠さんも反対なのね?」

「そりゃあ、紫乃お嬢さまが脅かせば、社長は何でも言うことを聞くと思いますよ。ですが……」

「そうよねえ。今、お父さまを、怒らせるのはまずいわよね」

 怒った父は、何をするか予想がつかないところがある。そして、女性をこよなく愛する父の怒りの矛先は、必ず男性に向くことになっている。だからこそ、弘晃と別れた紫乃が泣いたとき、父の怒りは、一直線に彼と彼の会社に向いたに違いない。


「俺、頑張りますから」

 がっかりしている紫乃を見かねてか、葛笠が素に近い口調で、紫乃に言った。


「社長の代わりに、これからの我が社が、あちらの会社と仲良くやっていくつもりだということを誠心誠意、きちんと態度で示して伝えてきます。そして、なるべく早くあちらの社員の皆さんにわかってもらえるように努力します。だから、お嬢さまも、しばらくの間は我慢していてください」

 タクシーの運転手に聞かれることを気にしているだろう、葛笠は固有名詞を伏せて話していた。


「結局、それが、一番確実で早い方法なんでしょうね」

 紫乃はため息混じりに、葛笠の言葉の正しさを認めた。

「だけど、信頼って……」

 どんなに葛笠が頑張ったところで、一朝一夕に得られるようなものではないだろうと紫乃は思う。特に、今回の葛笠の場合、全員が全員、ほぼ間違いなく、六条社長の秘書である彼に対してマイナスの感情を持っているに違いない。


(それに……)

 紫乃は、ためらいがちに、バックミラーに映る葛笠の顔に目をやった。

「そうなんですよねえ。しかも、俺、見かけが見かけだから、初対面の人には、好印象を持ってもらえたためしがないんですよねぇ」

 まるで、紫乃の考えを読んだかのように、葛笠がげんなりとした様子で、ため息をついた。


「見かけは恐いかもしれないけれど、葛笠さんって、本当はとても好い人なのにね」

「……。お嬢さまがそう言ってくださると、自信が沸きますよ」

 紫乃の歯に衣着せぬ物言いに、葛笠が力なく笑った。



(結局、待つしかないのか)

 紫乃は、うつむくと、深くため息をついた。


 紫乃にできることは、つまるところ、それしかなさそうである。

 だが、『待つ』と約束して弘晃と別れてから、まだ、ほんの十数分しか経っていない。

 それにもかかわらず、紫乃は、既に弘晃のことが気になって仕方がない。


 弘晃は、もう、病院に押しかけた社員たちと話し合いをしている頃だろうか?

 大きな声を出して、ひどく咳き込んだりしていないだろうか?


 弘晃には、岡崎医師がついてくれている。 

 正弘も弘幸もいる。

 社員たちも、弘晃の体調を一番に考えてくれていると聞いている。

 だから紫乃がいなくても彼は大丈夫……そう自分に言い聞かせても、やはり心配でしかたがない。


 否、『心配だから』というのも、ただの言い訳でしかない。


 紫乃は目を瞑ると、先刻まで彼女を抱きしめていた彼の腕の感触を余韻を確かめるように、自分の腕を自分に回した。


 戻りたい。


 あの人の顔が見たい。

 声が聞きたい。

 あの人の腕が恋しい。


 さっき別れたばかりなのに

 それまで、3ヶ月間もの長い間、会わずにいられたのに。


 結婚に必要なのは、互いの家のパワーバランスと、利害の一致。

 愛情なんて二の次でいい。

 恋に振り回されるなど、馬鹿な女のすること。


 そう思っていたはずなのに……


 恋しくて

 恋しくて

 恋しくて


 どうして、こんなにも、彼が恋しいのだろう?



(わたし、変だ。 絶対に、どこかおかしい)

 紫乃は、恋しい気持ちを頭から振り払うように首を振った。


 こんなの自分じゃない。

 自分は、もっと理性的な人間であるはず、もっと賢く振舞えるはず。

 それなのに、彼に会うためならば、どんな馬鹿なことでもしでかしてしまうような気がする。


 あと何日なら、彼なしで過ごせるだろう?

 どうして、自分は、こんなふうになってしまったのだろう?




「……とはいえ、お嬢さまだけでも、なんとか、弘晃さんの側に戻る手があればいいんだけどなあ」

 物思いに沈みこんでいた紫乃の注意を、妙に間延びした葛笠の声が引いた。


「え?」

 瞬きしながら紫乃が顔を上げると、バックミラーの中に、顎を突き出しながら瞑目する葛笠の顔が見えた。


「一発で、うちの会社に敵意を持っているあちらの社員にも、お嬢さまの弘晃さんへの想いが伝わるような? あるいは、お嬢さまが弘晃さんの傍にいるほうが、あちらにとって利益になると思わせる……とか??」

 独り言にしては大きな葛笠の声は、わざわざ紫乃に話して聞かせているようでもあった。


「わたくしが弘晃さんの傍にいるほうが得になると思わせる?」

 紫乃が身を乗り出してたずねると、彼女の視線を避けるように窓のほうに顔を向けた葛笠が、『これは、あくまで俺の独り言だと思って聞いてくださいね。社長に叱られてしまいますから』 と念押しした。

 紫乃は、向こうを向いている葛笠にもわかるように、大きく首を縦に振ってみせた。


「つまりですね。これから両社の間での話し合いをもって詰めなければならない事柄が沢山あると思うんですよ。その際、お嬢さまを味方につけておいたほうが、あちらにとって事が有利に進むに違いないと、あちらに思わせる。そうすれば、お嬢さまは、あちらにとって手放すわけにはいかない大事な存在になるわけでしょう?」

「つまり、人質のような?」

「そうそう。お嬢さまが、あちらにいらしゃる限り、こちらは迂闊なことをすることができない。そんなふうに相手に思い込ませることができたら、最高なんですが……」

「あ、なるほど」

 紫乃は、相槌を打った。

 確かに、それならば、弘晃の傍に堂々と居残る理由ができる。


 紫乃が感心している間に、タクシーが、紫乃の家の最寄り駅の脇を通り過ぎた。時間が惜しいのか、葛笠は、聞こえよがしの独り言を続けていた。

「なにかないかなあ。お嬢さまが社長の生殺与奪の権利を握っていると相手に思いこませるような、大ボラ」

「嘘でもいいの?」

「相手が信じてくれさえすれば、ハッタリで充分ですよ。お嬢さまが、どんな大嘘をついたとしても、その嘘がバレる機会はおそらく廻ってこないでしょうから」

「どうして?」

「おわかりになりませんか?」

 葛笠が問いかけた。

「え? え??? ちょっと待って! 考えてみるから!」

 紫乃は、片手を上げて葛笠の『独り言』をやめさせると、昨夜からの……特に、父と弘晃のやりとりを思い返してみた。


(ええと…… 弘晃さんとお父さまが話し合うまでは、乗っ取りの話は中断しているだけなのよね。だけども、あのとき2人は、ああ言っていたから……ということは……)


「あ、そうか」

 紫乃が軽く手を打った。


 今のところはオフレコだが、父は中村と和解するつもりだ。これは父の中では決定事項だから、葛笠にとっては至上命令である。ということは、紫乃が中村側に付いていようといまいと、これからの話し合いは、中村にとって有利に進むことになる。もしかしたら、中村と和解するためならば、いくらでも譲歩するようにと、葛笠は父から指示を受けているのかもしれない。


「どうやら、おわかりになったようですね」

 葛笠が、片方しかない目を躍らせて、紫乃を見つめていた。

「ええ。葛笠さんが、わたくしをそそのかしている理由もね」

 紫乃は、運転席と助手席の間に顔を突き出すと、茶目っ気たっぷりに、葛笠に微笑んでみせた。

「わたくしがあちらに行って、お父さまの首根っこを押さえつけているフリをしていたほうが、葛笠さんも仕事がしやすいわね?」

「はは……、そこまで読まれてしまいましたか? ええ。お嬢さまが、あちらで上手く立ち回っていただければ、俺は、かなり楽ができます。少なくとも、相手への印象を良くするために、鏡の前で笑顔の練習をする必要はない」

 葛笠がニヤリと笑い返し、「そういうわけですから、是非とも、その線で社長を困らせるような大ボラを考えてみてください。俺も、できるだけの協力はします」と、急いで話を切り上げた。


 タクシーは既に六条家の門に到達していた。門を抜けた車は、緩い円を描きながら車寄せに向かう。 昼日中だというのに、玄関先に、父源一郎の姿が見えた。


「ねえ? そういうことなら、わたくしは、当面の間は、お父さまに腹を立てていることにしておいたほうがいいのよね?」

 父のほうに向けた顔の表情を硬くしながら、紫乃は、葛笠に、一応の確認を取ってみた。もっとも、今の紫乃は父に対して酷く怒っているので、葛笠がどう返事をしたとしても、彼女は彼に愛想良くしてやる気などなかった。


「当面は、それで宜しいでしょう」

 葛笠も紫乃を見ずに答えた。「とはいえ、お嬢さま。 あんまり社長をいじめないでやってくさいね。社長は、ああ見えても、お嬢さまの幸せを一番に考えているようですから……」

「そうかもしれないけど、あの人、極端すぎるのよ」

 紫乃の声が一気に冷えた。

「少しはお灸を据えてやらないと、妹たちの縁談まで、この調子でやられたら、葛笠さんだって、この先大変でしょう?」

「確かに。では、うんと熱いのをお願いします」

 抑揚のない声で、葛笠が紫乃をそそのかした。


 タクシーは、玄関で心細そうに背を丸めて立っている父の前に静かに停車した。





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