61.言い忘れていた一言
弘晃とふたりきりになった途端、奇妙な沈黙が降りた。
話があるとか言いながら、要するに、お互い離れがたくて時間を引き延ばしたかっただけ。
弘晃は、いまだにベッドの縁に腰掛けたままだったし、紫乃は紫乃で、弘晃の膝の上に置かれた彼の手を握り締めたままだった。
「横になりますか?」
「いや、もうちょっと後で」
言葉を濁しながら、弘晃が立ちっぱなしの紫乃に座るようにと視線で促した先は、先程まで彼女がずっと座っていた付き添いようの椅子ではなく、彼の隣。
紫乃は、はにかんだ笑みを浮かべながらうなずくと、彼に言われた通りに、遠慮がちにベッドの縁に腰を落とした。
それから、少しだけ大胆になって、2人の間に空いたほんのわずかな隙間を埋めるように、横に移動し、弘晃にピッタリと寄り添う。
「ええと……。ああ、そうだ。言い忘れたことはないかって、聞かれていたんですよね?」
何かを探すように室内に目をさまよわせたあと、思い出したように弘晃が話を蒸し返した。
「まず、壮太のことですけど」
「岡崎先生?」
きょとんとする紫乃に、弘晃が、「彼とは、幼馴染みで主治医ってだけで、それ以上の……その、紫乃さんが心配するような、やましい関係にはないですから」、大真面目な顔で顔で弁明を始めた。
「へ?」
「いや、もしかしたら、以前、僕の部屋に踏み込んだ時に、誤解されたんじゃないかと…… あれは、診察中だっただけで……」
「いやだ! そんなこと、今更言われなくても、もうわかってますよ」
紫乃は、弘晃の肩を軽く叩くと笑い出した。
ついで、弘晃は、彼の弟の正弘に婚約者がいることを紫乃に話した。
婚約者の女性は、中村の分家の娘で、紫乃とも知り合いの、しかも彼女が密かに憧れていた高校の先輩のひとりだった。
紫乃にとって、これは嬉しい驚きだった。
「それから、あの……、これは、杞憂かもしれないんですが……」
次の告白の前に、弘晃が口ごもった。
「その……、仮に、僕が老人になるまで長生きしたとしても、紫乃さんと、ずっと2人きりかもしれません」
「え? 結婚したら、普通は2人ですよね?」
紫乃は、弘晃が言わんとしていることがわからずに、眉を寄せた。
「ですから」
更なる説明を求められた弘晃が顔を赤くする。「子供は、無理……かもしれないってことです」
「あ……」
紫乃も赤くなった。
「あ、あの、でもね! そんなの、試してみなくちゃわからないじゃないですか!」
力一杯そんなことを口走ってしまったのは、弘晃がとても申し訳なさそうな顔で紫乃を見つめていたからであるが、言い切ってしまってからようやく、彼女は、自分の発言の大胆なことに気がついた。
「や、やだ、わたくしったら……」
茹でた蛸のように顔を赤くしながら紫乃が下を向くと、弘晃が笑い出した。
「は、はは…… うん、そうだね。確かに、試してみないとわかりませんよね」
「笑わないでくださいな!!」
「すみません。じゃあ、最後にもうひとつ、言い忘れていたことを」
恥ずかしさのあまり顔を上げられなくなった紫乃の頭に、弘晃がそっと手を載せた。
彼は、紫乃の顔を覗き込むようにしながら、彼女の耳元で、ささやいた。
「僕は、あなたを愛しています」
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「ふぇ??」
間抜けな声を上げながら、紫乃が顔を上げた。
途端に、彼女の目から涙が溢れ出る。
動揺したのは、弘晃である。
「し、紫乃さん?! どうして、そこで泣くんですかっ?!」
おろおろしながら、弘晃がたずねた。
「そういえば言っていなかったな……と、さっき、『言い忘れていたことはないか』って聞かれた時に思ったんですよ。でも、いざ言おうと思ったら恥ずかしくて、結局、言うのが最後になってしまいました。でも、先程のプロポーズもわかりづらかったみたいだから、やはり言っておいたほうがいいと思って……」
弘晃は、言い訳を並べ立てながら、包むように紫乃の肩に片腕を回した。
「すみません。プロポーズする前に言っておけば良かったんですよね? 熱のせいなんだか、慣れないことをしているせいなんだかわからないけど、自分でも、かなりとっ散らかっていて……」
「ううん」
紫乃は、弘晃の肩に涙を押し付けながら首を振った。
「でも、本当に? 本当に好き?」
消え入りそうな声で、紫乃が確認を取る。
「あ、やっぱり疑っている」
弘晃が喉の奥で笑った。
「僕の想いは、先程、懇切丁寧に説明したはずですが?」
「丁寧すぎて、かえって、わかりづらかったのよ」
紫乃は、唇を尖らせた。
「ふた言目には、『無理しなくてもいい』とか『よく考えて結論を出せ』とか言うのですもの。 婉曲に結婚したくないって言われているのかと思ってしまうじゃない」
本当は、不安だった。
3ヶ月も前に、ほとんど一方的に弘晃との交際を打ち切ったのは、紫乃のほうだ。
昨日、弘晃と結婚すると父親に宣言し、そのまま弘晃にくっついてきたのも紫乃のほうだ。
紫乃の目には、弘晃も彼女との結婚を喜んでくれているように見える。彼は幾つもの言葉を重ねてて、それを裏付けるようなことを紫乃に話してくれた。でも、紫乃を思いやる弘晃の言葉はあまりにも優しく礼儀正しすぎて、優しい言葉の裏で、実は、彼が紫乃のしたことに迷惑しているのではないかという疑いが、彼女の中で、ずっと燻り続けていた。
「それは、違うよ。僕は、紫乃さんが欲しくてたまらない」
弘晃が紫乃を引き寄せた。
「本当に、わたくしが空回りしているだけじゃないのね? 弘晃さんに、わたくしの気持ちを押し付けているわけじゃないのね?」
「違うって」
くどいほど念を押す紫乃を弘晃が笑う。「君が好きだよ」
「本当に? もしも、わたくしが、あなたとの結婚をやめるって決めても?」
「好きだよ」
弘晃がうなずく。
「もしも、他の人のところに、お嫁に行っちゃっても?」
「僕には貴女しかいない。これまで、そうだったように、これからも、ずっと、そうだ。相手の男の人には悪いと思うけど、想うことはやめられない」
弘晃が、紫乃に顔を寄せた。
彼の求めに応じるように紫乃が顔を上げる。
唇が触れ合う直前、弘晃はわずかに顔を上げると、キスを落とす場所を額に変更した。
不満げな顔をする紫乃をなだめるように、弘晃が微笑んだ。
「今更かもしれないけど、風邪をうつすといけないから」
「そんなの……」
「大切だからできないこともあるんだよ」
「……うん」
紫乃は微笑むと、弘晃の首に腕を回した。
まだ熱のある彼のぬくもりを感じながら、ゆっくりと息を吸って、吐く。
そろそろ、時間だ。
「もう、行かなくちゃ」
紫乃の言葉に逆らうように、彼女に回されていた弘晃の腕が彼女を強く引き寄せた。
「なるべく早くケリをつける。 貴女が何の気兼ねもしなくても良いように。貴女の好きな時に、いつでも、ここに来てもらえるようにするから」
「待ってるわ。でも、無理はしないでね」
紫乃は、弘晃の肩を押すようにして立ち上がると、精一杯微笑んでみせた。
「それから、元気なフリして、社員さんたちの前で大演説したりしないでね。お医者さまの許す範囲で頑張ってね。話が終わったら、ゆっくり休んで、暖かくして……」
紫乃は、離れている間に弘晃に気をつけてほしいことを、思いつく限りまくし立てた後、「わたくし、ちゃんと待っていられるから」という言葉で締めくくった。
「本当に? 紫乃さんが?」
物分りの良すぎる紫乃を弘晃が疑った。
「本当よ。 あなたが今ぐらいに元気な限りは、おとなしくしているわ」
紫乃は、精一杯の脅しを口にしながら、弘晃に約束した。
「とはいえ、私も、なるべく早く、ここに堂々と戻って来られように、なにか手段を考えてみるわね。例えば……そうね、うちのお父さまに、社員さんたちの前で土下座させるのは、どうかしら?」
「……。紫乃さん。それは、できるだけ最終手段にしようね。ものすごく僕の心臓に悪い気がする」
引きつった笑みを浮かべながら、弘晃が、別れを惜しむように、もう一度、紫乃を抱き寄せた。




