60.オババさまの逆襲
「正弘、落ち着いて。なにかあったのかい?」
「オババさまですよ」
正弘が、息を切らしながら弘晃に答えた。
「あの人、ここを追い出された腹いせに本社に行ったらしいんです。それで、兄さんが倒れたことを社員たちにバラしただけじゃなく、六条社長が部下を引き連れて病院に押しかけ、兄さんに会社を寄越せと迫っていると……そう……」
「あらららら…………オババさま、久々に、やってくれたね」
どこか飄々とした口調で言いながら、弘晃が顔をしかめた。
とはいえ、ここ数ヶ月間のハードワークの疲れが溜まっているせいで判断力が鈍っていたとしても、過去において中村物産の経営をその言動で引っ掻き回した老婆の言うことを鵜呑みにする社員はいない。だが、老婆の言うこと全てが偽りとは限らないということも、社員たちは経験で知っている。老婆は、偽りの中に一滴の真実を紛れ込ませることで、人の不安を掻き立てることを得意としているからだ。
社員たちは、老婆を疑いながらも、まずは事実の確認を始めた。すると、弘晃は、その朝出社しておらず、自宅にもいなかった。どこにいるのかと問うても、中村本家の電話での応対者は、曖昧に言葉を濁すばかりである。そのうえ、弘幸や正弘どころか、事情を知っていそうな一部の重役たちも、全員出払っていた。その中の一人が緊急の連絡先として記していった電話番号は、中村物産が保有している総合病院の電話番号だった。
どうやら、弘晃が倒れたのは間違いなさそうである。もしかしたら、六条の人間が、病床の弘晃のところに押しかけて会社を渡すように迫っているというのも嘘ではないかもしれない……と、社員たちは疑いを深くした。
「……で、まんまと、オババさまの口車に乗せられてしまったわけだね?」
「まんまと乗ってしまったようです」
正弘がため息をついた。
「現在、オババさまの言ったことの真偽を自分の目で確認すべく、頭に血が上った社員が100人近く、仕事そっちのけで、こちらに向かっているとの連絡をもらいました」
「彼らが到着したときに、弘晃さんの傍に六条家のお嬢さまがいたら、どんな騒ぎになるかわかりません。だから、いったん帰りましょう」
葛笠が紫乃を促した。
「でも……」
「ダメです」
紫乃がためらう素振りを見せると、思いもよらないほど強い口調で葛笠に諌められた。
「弘晃さんが心配なのはわかります。でも、ここは病院です。騒ぎを起こせば他の患者さんの迷惑にもなる。それだけではありません。弘晃さんが仕事に復帰する前に、これ以上話をややこしくしたくないんです」
「だったら、わたくしが、お父さまの代わりに皆さんに謝るわ。それなら……」
紫乃は食い下がったが、今日の葛笠は容赦なかった。
「お嬢さまの謝罪など、何の価値もありません」
葛笠が、片方しかない目で紫乃を見据えた。
「あなたは、六条社長の令嬢でありますが、六条コーポレーションにとっては、ただの部外者です。あなたが、どれほど心を込めて謝ったところで、それは、個人的なものでしかない。だが、あなたが六条社長の娘であるという事実は、それだけで中村の社員の気持ちを逆なですることになりかねない」
「そうかもしれないけど……」
葛笠が言っていることは正しい。自分は、今、彼らの前に姿を見せないほうがいい。それは、紫乃にもわかる。
(わかるけど……)
紫乃は、唇を噛んだ。
うなだれてしまった紫乃に、葛笠が根気よく言い聞かせる。
「勝手な話ですが、実はわが社のほうにも、社長が中村物産の乗っ取りを諦めてくれたことに、ホッとしている連中が大勢いるんです。これからは、できる限り話し合いを円滑に進め、双方にとって有益な協力関係を構築できれば、それに越したことはない。ですから、今のところは、できるだけ中村の社員を刺激したくないんです。紫乃お嬢さまならば、理解していただけますよね?」
「え? ちょっと待って! 六条が乗っ取りを諦めたって? どういうこと?」
葛笠の話を正弘が聞き咎めた。
「今のところ、六条さんと僕との間の、ただの口約束のようなものでしかないけれどね」
それまで、人の話に耳を傾けるばかりだった弘晃が口を開いた。
「だから、今のところは紫乃さんが君に話したとおり、うちと六条は、『休戦中』としかいえない状態なんだ。でも、葛笠さんは、そのつもりで動いてくれるはずだから、正弘も安心していいよ。とはいえ、オババさまが乱入してきたとなると、この先、彼女が、なにをするのかわかったものじゃないな」
弘晃は、ベッドの上に体を起こすと、立ち上がろうとするかのように寝台の横に足を下ろした。
「弘晃さん? 何をするつもりなんですか!!」
青ざめながら、紫乃は弘晃に手を差し出した。弘晃は、その手に掴まりながら、「とりあえず、着替えをしようと思っています」 と答えた。ただ立ち上がっただけなのに、弘晃のこめかみには汗が浮かんでいた。
「僕が社員に、ここまでの経緯を説明するよ。詳しい話が聞ければ、皆も納得するだろうから」
弘晃が正弘に言った。
「ダメです。兄さんは、おとなしく寝ていてください」
「そんなことを言っている場合じゃないだろう? 中村側で事情を知っているのは僕だけだ。葛笠さんや紫乃さんの話すのでは皆の反感を買うばかりとなれば、僕が話すしかない」
弘晃の口調は穏やかだった。だが、彼の気迫に飲まれたように、正弘が顔を強張らせた。
(この人、こんな顔するんだ……)
紫乃に寄りかかるようにして立っている弘晃を支えながら、紫乃は、驚いていた。
人当たりがよくて、穏やかで、でも、いつも、どこか冷めた目線で世界を見ているようなところがある人なのに、この人の内面は、実はとても熱いのかもしれない。
(それに……)
弘晃は、みんなのことを考えて動こうとしている。中村の社員や正弘のことだけではなく、六条にとっても、もちろん紫乃にとっても、一番いい方法を選ぼうとしてくれている。
ただし、弘晃本人のことは、あまり考えに入れていないようだと紫乃は思った。弘晃に掴まられている紫乃の肩は、強く掴まれすぎて痛いほどだった。なんでもないフリがしたいようだが、どうやら、立っているだけで精一杯のようである。
だけど、意外に強情なこの人は、紫乃が止めたところで聞かないに違いない。
「わかったわ。でも、着替えは必要ありません」
紫乃は、弘晃をまずベッドに座らせると、彼の両手を握り締め、彼の目を見て言い聞かせ始めた。
「それから、ベッドからは一歩も出ちゃダメ。お話は、短めに。この病室に入りきれるだけの人数を正弘さんに選んでもらってください。それから、岡崎先生にも立ち会ってもらってくださいね。何かあったら、お医者さまの権限で話を中断してもらいます。正弘さんも、それなら、よろしいでしょう?」
「あ、はい」
いきなり仕切り始めた紫乃の迫力に押されて、正弘が素直にうなずいた。
「それから、私は、いったん葛笠さんと帰ります」
「紫乃さん?」
突然態度を変えた紫乃に驚いたように弘晃が目を瞠った。
「そのほうが、社員さんたちを説得するために無理したり慌てたりしなくてもすむから、弘晃さんも気が楽なのでしょう?」
紫乃は微笑んだ。「それに」と、昨日から着続けているフワフワとした透明感のある生地に覆われたドレスのスカートに目を落とした。「このドレスは、とても素敵だけど、わたくしこそ着替えなくちゃ。時間があるから、弘晃さんが話してくださったことも、よくよく考えてみますね」
紫乃は、そこで言葉を切ると、葛笠に車を回してくれるように頼んだ。
「昼日中にドレスでは、恥ずかしいし、目立つから、車は裏口に回してもらってね。それから……」
紫乃が、何か言いたげに弘晃に目を向けた。
「それから、5分……いや、3分で彼女を寄越すから、ちょっと2人で話をしてもいいかな?」
紫乃の代わりに弘晃が、葛笠たちにたずねた。
「10分以内でいいですよ。 彼らが到着するまでに、まだ、それぐらいの余裕はあります。 話が終わったら、僕が紫乃さんを裏口までお連れします。 僕は病室の外で待ってます」
正弘が、腕時計を確認しながら、葛笠と共に出て行った。




